「怒りに限界があっても、優しさには限界がない」…。4度のがん手術を乗り越えつつ、若年性アルツハイマーの妻・八重子との12年の介護した夫婦愛の手記の映画化。
今回は『八重子のハミング』をご紹介します。
CONTENTS
1.映画『八重子のハミング』の作品情報
【公開】
2017年(日本映画)
【製作・監督・脚本】
佐々部清
【キャスト】
升毅、高橋洋子、文音、中村優一、安倍萌生、井上順、梅沢富美男
【作品概要】
『陽はまた昇る』『半落ち』で知られる佐々部清監督が、4度のがん手術を受けた夫と若年性アルツハイマー病の妻との絆を、実話をもとに描いたヒューマンドラマ。
佐々部清監督の故郷である山口県で撮影をした作品で、原作は山口県萩市在住の陽信孝による体験をつづった同名手記が原作です。
2.映画『八重子のハミング』の夫婦役キャスティングは?
升毅(ますたけし):石崎誠吾役
升毅は1955年生まれの東京都出身の俳優。近畿大学卒業後に劇団「売名行為」を結成。1991年、演出家のG2らとともに劇団「MOTHER」を旗揚げしました。
しかし、2002年に解散をしますが、それまでの間、座長と看板俳優として人気を博しました。
1981年に井筒和幸監督『ガキ帝国』にてスクリーンデビュー。『NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE』『サマータイムマシン・ブルース』『種まく旅人~夢のつぎ木〜』『群青色の、とおり道』など、オリジナリティある存在感と硬軟自在に演じ分ける演技力が魅力の俳優です。
この映画に主演することにあたって升毅は次のように決意を述べています。
この作品にどう向き合えばいいのか?大いに考え、大いに悩み、時に熱く、時に冷静に…来るべき日に向けて、すべてを楽しみながら、準備を進めて参ります。(公式HPから)
並々ならぬ決意と緊張感で魅せる演技に注目です!
高橋洋子:石崎八重子役
高橋洋子は1953年に生まれた東京都出身の女優。高校卒業すると文学座付属演劇研究所に入所。同期は松田優作がいました。
1972年に斎藤耕一監督の『旅の重さ』のオーディションに見事に合格、ヒロインとしてスクリーンデビュー。
1973年にNHK朝の連続テレビ小説『北の家族』のヒロインに抜擢され、知名度を上げました。
1974年に熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』にて、田中絹代が演じた主人公の10代~30代を演じ話題になりました。
1981年に小説『雨が好き』で作家デビューすると、第7回中央公論新人賞受賞。1983年、同小説を自らの監督・脚本・主演で映画化する多才ぶりです。
その後も1984年に寺山修司監督の『さらば箱舟』に出演、しかし、近年では文筆業が中心で最新刊『のっぴき庵』好評を得ています。
今作が待望の高橋洋子の女優復帰作として多くの期待を集めています。
3.映画『八重子のハミング』のあらすじ
山口県内にあるホールで石崎誠吾は、アルツハイマー症を発病したの妻の八重子を介護経験したことについて講演を行なっていました。
石崎が妻を介護したのは12年間。妻の記憶が次第に失っていくことが辛いという話でした。だがある時、石崎は八重子は時間を掛けてゆっくりと別れをしていると考えるようになります。
そんな石崎は愛する妻が記憶を無くしていくことを思い出にしようと決意するのです。
そんな石崎の語り出す言葉から、教師時代に出会い結婚した頃のこと、八重子がよく口ずさむ歌のこと、そしてアルツハイマーを発症してからのことなど、在りし日の八重子との夫婦愛が蘇ります…。
しかも、その頃の石崎は胃がんを発病。そんな折に八重子に若年性アルツハイマー病の疑いがあること分かったのです。
石崎は4度のがん手術から生還を果たすが、八重子の病状は悪化して徐々に記憶を失ってしまいます。
介護に苦闘しながらも八重子との時間を愛おしむ石崎。妻に寄り添い続ける12年とは…。
4.映画『八重子のハミング』のロケ地ネタバレ秘話
この映画の撮影は、実際に石崎誠吾と妻八重子の暮らした山口県萩市の金山天満宮で行われました。
述べ撮影日数は13日間。映画予算が潤沢ではなかったこともあり、1日の撮影量も多く、撮影と移動の順番にロケーション撮影を繰り返していたそうです。
ロケ撮影の中でも、実在の八重子は毎日のように池の橋に立ち、愛する夫の誠吾の帰宅を待ち続けた場所での撮影は、画像にあるように雨の日の撮影設定でした。
夜遅くに夫が帰って来るのを待つ八重子が全身ずぶ濡れで立ち続けていたことで、夫が石崎が感情的に抱擁したショットです。
実際にこの出来事の後に、夫は教師を辞職してアルツハイマーの妻に生涯付き添うことを決心する重要な場面となることから、スタッフや地元の協力者にも力が入ります。
映画撮影のみために地元消防団の協力を得て、大量の雨を降らし撮影は、池という立地的条件が悪いことから、照明機材の位置取りなどが制限もあり苦労したそうです。
しかも、大雨の仕込みが消火ホースによる放水のため、水量コントロールが難しい撮影だったようです。
それでも、撮影現場を見学や手伝いに来ていた近所の人たちが、高橋洋子が演じた八重子の姿を見て、本当にあの日の石崎八重子の魂が蘇ったようだと涙を流す姿が見られたそうです。
他のロケーション撮影にも、「萩市の北東に位置する笠山を望む展望」、「三角州を捉える田床山からの俯瞰撮影」、ラストシーンで使われている「藍場川の道」、2人の教員時代の思い出の「木間小学校」下関の長府にある「蛍遊苑」が公演会場に見立てられ撮影に使用されました。
そこには、萩市をはじめ山口県各所から多くのエキストラや協力で参加したのも、地域の生活だった石崎夫婦の映画を盛り上げるためであったそうです。
映画は1人の思い出だけではなく、協同の夢だというのを感じさせられますね。
5.手記『八重子のハミング』の感想まとめ
作者である陽信孝の手記『八重子のハミング』を読んで感銘を受けた佐々部清監督は、その映画化に向けて動き出し、多くの困難を乗り越えてきたようです。
「コツコツと準備してきた『八重子のハミング』から新しい1年が始まります。プロデューサー・脚本・監督を兼務します。もう半年以上前より、製作費集めからロケの交渉、キャスティングも僕が中心になってやっています。映画の舞台は山口県萩市、そして下関など。『出口のない海』以来、10年ぶりにホームグランドに戻るって感じでしょうか。はい、山口県でなければ自分でお金集めなんて出来ないでしょう。ホントにたくさんの方々(企業も)が、応援してくれることになりました。
5年間、映画会社やテレビ局にプレゼンした企画です。地味で難しいと断られた続けた企画です。ならば自分でお金を集めて撮ろう…そう覚悟を決めました。(佐々部清監督公式HPのほろ酔い日記から引用)」
佐々部清監督自身、この作品を映画化する前に大切な母親を亡くされたそうです、また、映画制作の資金を確保するために大変苦労したことから、佐々部組のスタッフには「自主映画」と語ったそうです。
しかし、スタッフの中には、“プロのスタッフ、キャストで自主映画はないでしょう”と意見があり、それでも“勝手に作った映画である”ことには変わりないからと、“自主的映画”と呼ぶことになったようです。
佐々部清監督がたまたま、『八重子のハミング』の読者であったことがきっかけで映画化にまで漕ぎ着けられました。
しかし、その思いは映画に掛ける仕事魂だけではなく、作者の陽信孝や地域愛など強く深い愛をも感じますね。
「介護を音楽が救ったのですね。荒れてても歌を歌うとおとなしくなって一緒に歌っている。何も分からなくなっても、元音楽の先生だった八重子さんには響いたのでしょうね。
作者さんだけでなくご家族の優しさにも心打たれました。お孫さんの八重子さんに接する態度に、読んでいて涙が出ました。(amazonレビュー:TOTOROさんから)」
「テーマが福祉、戦争体験でした。徐々にアルツハイマーの症状が進み、妻を介護する夫の苦悩と愛情が交錯する。読みながら、亡くなった母の事を思い出しました。施設に入れるより、居宅介護の方が長生きするとは、聞いていますが、その前に介護者がダウンする事例が多い中11年間の男性の介護には敬服いたしました。(amazonレビュー:ビオラさんから)
多くの人たちから、現代の「智恵子抄」だと評された話題の書籍です。
4000日あまりにも及んだ老老介護の軌跡とともに、陽信孝が詠んだ約80首の短歌も綴られています。多くの読者に介護について考えさせ、愛を伝えた一冊。
ぜひ、映画とともに、ご一読してはいかがでしょうか。
7.まとめ
佐々部清監督は『八重子のハミング』の映画化に長い期間を掛けて挑んだ作品です。
それは映画企画がメジャー路線でないこと、内容が地味であることから受け入れられなかったのです。
それでも佐々部清監督が、自らプロデューサーに名乗りを上げ制作したかった強い思いがありました。
人は誰しも老いという病を抱えています。そこに触れながらも今作は何を語ったのか?映画館やDVDで鑑賞したり、原作を読まれることをお薦めいたします。
スタッフと呼び合った佐々部清監督の“自主的映画”『八重子のハミング』をお見逃しなく。