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Entry 2019/02/10
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講義【映画と哲学】第1講「行為について:アリストテレスの行為論から映画を見る」

  • Writer :
  • 田辺秋守(日本映画大学教授)

2019年2月から日本映画大学准教授である、田辺秋守氏による「映画と哲学」の講義を連載します。

第1講では、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の名作『デカローグ』(1989~90)から、映画のなかの「行為」について、哲学を通じて考察をしていきます。

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映画と哲学における「行為」


オーギュスト・リュミエール、ルイ・リュミエール

 はじめに、行為があった、映画においても、哲学においても。あらゆる映画は運動を映すが、特に人間のおこなう運動は、たいてい「行為」と呼ばれる。リュミエール兄弟以来、映画はひたすら人間の行為を描いてきた。
 また、「行為」はアリストテレス(B.C.384 – B.C.322)以来哲学の主要なテーマとは言えないにしても、忘れてはならないテーマであった。たとえその重要性が20世紀になってやっと気づかれたとしても。
 第1講では、行為について哲学は何を語ってきたのか、映画のなかの行為について哲学は何を語れるのかを、すこし考えてみたい。

意図に反した行為


アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫・立花幸司訳)、光文社古典新訳文庫

 今に伝わっているアリストテレスの著作のなかで、「行為」と「道徳」についての省察は主に『ニコマコス倫理学』という書物に含まれている。行為については特に第3巻「徳の観点から見た行為の構造、および勇気と節制の徳」の最初の五つの章が重要である。

 まず、最初にアリストテレスは次のように述べる。「徳は感情と行為にかかわる。人は意図的に行われた行為については、賞賛または非難を受けるべきであり、意図に反して行われた行為については、赦しと憐れみを受けるべきである。」(1109b30)。アリストテレスはこれを当然のことだと考えている。「意図的な」とは、「自発的な」とか「故意の」という意味である。「意図に反した」は「不本意な」に言い換えることができる。

 それでは、「意図に反した行為」とはいったい何か。それは、外からの強制によるものと、自分の無知によるものである。まず、外からの強制とは、自然の物理的な力によって自分の意図とは違うことをする場合である。例えば、嵐にあった船がやむをえず積荷を捨てるという場合である。さらに物理的な外力はなくても、家族を人質に取られていて、自分のやりたくないことをさせられるという場合もある。こういう意図に反した行為は許される。これらの行為は外から強いられたのであって、自ら進んでしたのではないからである。
 
 もう一つのケースである自分の無知によるものとは、もし行為者がその事実を知っていたら、別の行為をしたであろうというケースである。それが「意図に反している」と感じられるのは、後から「それを知っていたらなあ」という後悔が起こることでわかる。例えば、「彼が病気だということを知っていたら、あんなに仕事をさせなかったのに」という場合である。

 ここでは、「意図に反している」と「意図しない」を区別することが重要である。人がある行為をする場合、気づかずにしていることはたくさんある。それは「意図しない」行為である。例えば、靴をはくときに、その靴はどこで誰が作ったかを知らない。それを知っていても状況は変わらない。これを「意図に反している」とは言えない。行為者が「意図しない」だけでなく、「意図に反している」という場合だけ、その人の行為の責任が軽くなったり許されたりするのである。

選択と熟慮について


J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』(雨宮健訳)岩波現代文庫

 アリストテレスは、次に「選択」(決定)ということについて述べる。「選択は徳にもっとも固有なものであり、行為以上に性格の善し悪しを決めるのに適している。」(1111b5-6)。どのような選択をするかで、その人の性格がだいたいわかる。選択された行為は、意図された行為の一部をなしている。

 しかし、意図された行為がすべて選択された行為とはいえない。人間の行動の中には、欲望にしたがった衝動的な行動のように、意図されたとはいえても、選択されたとはいえない行動がある。強姦を行った犯罪者は、それを意図したかもしれないが、選択したとは言えない。
 アリストテレスによれば、選択は理性によって行われるものなので、欲望と同じではない。意志の弱い人は、欲望に従って行動し、理性によって決めた選択に反することがある。これに対して、意志の強い人は、欲望を抑えて選択どおりに行動する。

 しかし、選択は理性的な願望と同じものではない。理性的な願望は、不可能とわかっていても望むこと(例えば「永遠の生」)があるが、選択の対象は現実に可能なことでだけである。選択するとは、実現可能な行為(できること)を選択することである。
 また、アリストテレスによれば、自分の自由にならない行為を選択することもできない。自分の自由にならないことは、他人の決定に依存する行為のことである。どの大学の入学試験を受験するかを選択することはできるが、合格を選択することはできない。合格・不合格を決めるのは他人である。

 こうして、アリストテレスは、選択(決定)を「熟慮のすえ意図すること」と定義する。熟慮とはあれこれと考えをめぐらせることだが、熟慮は、つねに心に描かれた実現可能な目標を対象にするものである。われわれは目的を達成するために熟慮する。

 熟慮はまず目的をはっきりとさせ、それを獲得するための手段のうち、何が最善であるかを考える。もしその手段が自分の権限にない(他人が決める)場合は、その手段を可能にする一段階前の手段が獲得できるか(自分で決められるか)を考える。このようにして自分の自由になる手段に達するまで段階をさかのぼってゆく。そこに達した時に熟慮は終わり、行動に移るのである。

『デカローグ』第2話「ある選択に関する物語」

 さて、アリストテレスが論じているこうした行為と選択の基本的な図式は、映画を見るときに、どのように役に立つだろう。哲学には様々な効用があるが、映画を行為の連鎖としてみるとき、哲学は行為のタイプを明らかにして、映画が描いていることを明確にしてくれる。
 ポーランドのキェシロフスキ監督(1941-1996)が1989年から翌年にかけて作り上げた10本のテレビ映画シリーズがある。『デカローグ』である。このシリーズを見直すたび、短期間に撮られたこれらの作品の完成度の高さに驚かされる。ここでは、シリーズ第2話「ある選択に関する物語」を取り上げてみよう(マレク・ハルトフ『キェシロフスキ映画の全貌』を参照している)。

 ヴァイオリン奏者のドロタは、妊娠中絶をすべきか否かを決めかねている。その夫アンジェイは癌のため病院で死線をさまよっているが、実はドロタが身ごもっているのは、別の男の子供なのだ。ドロタは決断を下すため、同じ高層住宅に住んでいる、夫の担当医である老医師に意見を求める。ドロタは中絶をするかしないかは、夫に回復する見込みがあるかどうかで決めたいと思っているのである。もし夫が回復するならば、子供は産みたくない。中絶までの時間を考えて苛立つドロタに対して医師は、「あなたは、待つことしかできない」と冷たく言い放つ。しかし後に、中絶する決意をドロタが伝えると、夫は助からないから中絶はやめなさいと医師は言う。医師の年来の信念(「死の宣告はしない」)に反して、ドロタの決断に介入してしまうのである。結果的に、堕胎は選択されなかった。すると、絶望視されていた夫アンジェイが奇跡的な回復を遂げる。映画のラストで、アンジェイが担当医にお礼を言いに現れる。「子供が生まれるんです。子供を持つ意味がわかりますか?」と喜びをあらわにして言うと、医師は「ええ」とだけ答える。

行為の観点から見た「ある選択に関する物語」

 ドロタと老医師の二人には共通する性格がある。個人的な信念を持ち、意志が強く、頑固であるという点だ。二人の会話から、彼らの最初の出会いが不幸なものだったことがわかる。二年前にドロタは自分の運転する車で医師の飼っている犬を轢いてしまった。意図せざる事故だったのだろうが、犬を轢いた過失をドロタは謝罪していない。それは二人のわだかまりになっていて、ドロタが最初医師の助言を求めることを躊躇させる理由だったように見える。医師からすれば、担当患者の家族への配慮を鈍らせるものになっていた。

 堕胎するという最初の選択は、ドロタの理性的な判断からすれば、次善の選択である。自分で事を決められるところまで遡ったギリギリの線であるだろう。したがってそれは「熟慮のすえ意図した」ことである。カトリック国であるポーランドで教会の教えに反して堕胎することは、女性の自己決定権を自覚することでもある(ポーランドの社会主義政権はこの自由だけは擁護していたようだ)。

 しかし、ドロタは手術を受ける寸前で「夫は必ず死ぬ。だから堕胎をしないように」という医師の助言を聞いて、それを思いとどまった。「夫が死ぬ」という予想のもとに、ドロタは「子供を産む」という新たな決断をした。しかし予想された事態は起こらなかった。夫が生き延びている以上、子供を産むことは意に反することになる。つまり、ドロタが堕胎を選ばなかったのは、意図に反している。これが引き起こされたのは、「自分の無知」によってであることは明らかだろう。夫の生死は不可知の領域にあり、「人間の知」ではどうすることもできない。ここでは、ドロタには後悔とまでは言わなくとも、困惑が起こっているはずである(映画はそこまで描いていないが)。このドロタのケースがやや複雑なのは、その選択が意図に反する行為をすでに結果しているのではなく、行為(子供を産む)はまだ未来に向けて宙づりになっている点である。

 一方この事態を医師の側から見ると、ドロタとは違った思惑が見えてくる。医師は多年にわたる経験から「死ぬと思われた人が生き延びたり、その逆も多い」ことを知っている。だから、老医師は「自分の無知」によって意図が裏切られる経験をしているのではない。夫が回復しようが、回復しまいが、ドロタは堕胎すべきではないと考えているのだ。「子供は生まれるべきだ」というのが、おそらく老医師の信念なのだろう(彼は第二次大戦中に爆撃で妻と幼い二人の子供を失っている)。医師にすれば、ドロタは結果的に最善の選択をしたのだ。医師が「死の宣告はしない」という信念に反して、そして結局は「意図に反して」それをドロタに伝えたのは、信念の優先順位によるものだ。

 さて、最初に引用したアリストテレスの文言、「人は意図に反して行われた行為については、赦しと憐れみを受けるべきである」については、どうだろうか。ドロタが意図に反して堕胎を思いとどまり、夫の子ではない子供を産むという行為は、道徳的な赦しの対象になるとかならないとかいう話ではないようだ。それは夫婦間の信義と家庭内の秘密に関わる問題である。ただ、観客からすると、かすかに「憐れみ」を誘うところがあるだろう。夫には滑稽な喜びをもたらし、家庭の外にいる医師には皮肉な知をもたらしているのだから。

ドロタの「意図しない行為」

 この映画にはドロタの非常に際立った「意図しない行為」が描かれていて、出色のシーンを作り上げている。
 三つあげよう。一つは、ドロタが老医師の出勤していく姿をブラインド越しに眼下に見て、観葉植物の葉を一枚一枚ちぎり、茎を180度へしまげてしまうショットだ。
 二つ目は、押しかけて行った医師の家で医師との対話の合間に、マッチ箱のなかに並んだマッチ棒に吸っているタバコの火を引火させ、マッチ箱を火事にしてしまうショットだ。
 三つ目は、コーヒーで満たしたガラスコップを徐々にテーブルの縁へと追いやり、ついにそれを落下させてしまうスローモーションのショットだ。

 これらはみな、なんの意味もなく、まったく無目的に行われる散漫な行為である。ただ、そこからドロタの苛立ちが痛切に伝わってくる。当方はこういうショットを目にすると、無上の喜びを感じてしまう。目的と手段を短絡的につなぎ、ただ目的合理的なアクションを展開するだけの映画ばかり見せられているせいだろう。

 キェシロフスキをはじめ、映画の作り手は、行為論の教科書を作っているのではないので、キェシロフスキの念頭にアリストテレスがあったという想像はできない。しかし、巨匠たちは映画が無意味な運動と、意図した行為と、意図に反した行為によって成り立っていることを、まったく意図せずに描いてしまうものなのだ。

参考文献・映像資料

アリストテレス『ニコマコス倫理学(上・下)』(渡辺邦夫・立花幸司訳)光文社古典新訳文庫
J.O.アームソン『アリストテレス倫理学入門』(雨宮健訳)岩波現代文庫
マレク・ハルトフ『キェシロフスキ映画の全貌』(吉田はるみ・渡辺克義訳)水声社
クシシュトフ・キェシロフスキ監督『デカローグⅠ 第2話「ある選択に関する物語」』紀伊国屋書店

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田辺秋守プロフィール


©︎Cinemarche

日本映画大学 准教授、専門は現代哲学・現代思想・映画論。

早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボッフム大学、ベルリン自由大学留学。

著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。共訳書に、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス著「フランスの現象学」(法政大学出版局、2009)。

『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。WEBではCinemarcheで講義「映画と哲学」を連載。

日本映画大学 公式ホームページ→

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