連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第30回
こんにちは、森田です。
1月最初の土曜日を迎え、いよいよ本格的に2019年の“映画始め”となりました。
今回はそのうちの1本、1月5日に公開された松本穂香さんの主演作『アストラル・アブノーマル鈴木さん』を紹介いたします。
地獄のように娯楽がない田舎町で生きるYouTuberが、なぜ“普通”から外れて“宇宙”に旅立ち、また自分の人生に帰還できたのかを解き明かしていきます。
CONTENTS
映画『アストラル・アブノーマル鈴木さん』のあらすじ
(大野大輔監督 2019年)
本作は2018年6月から9月にかけて、YouTubeで配信された同名ドラマを劇場版に再構成したものです。
“夜の連続YouTube小説”と題し、全17話が制作されました。
松本穂香さんといえば、2018年公開の『あの頃、君を追いかけた』をはじめとする話題作への出演や、TBS日曜劇場『この世界の片隅に』の主演を務めるなど大活躍をみせましたが、NHK連続テレビ小説「ひよっこ」(2017)で人気を獲得したことも記憶に新しいですね。
「朝ドラ」のイメージをまとう彼女が、怪しげな「夜ドラ」で主役を張る。
まずはその華麗なる転身と、作中の怪演を目の当たりにするだけでも、一見の価値があります。
YouTubeドラマ版「アスアブ鈴木」形式と内容の一致
劇場版が公開されても、YouTubeの動画は閉じられていないので、見比べることができます。
ここには「YouTuberのドラマをYouTubeで公開する」という「形式と内容の一致」がみてとれ、作品世界にいっそうの“真実性”をもたらしています。
この実験的な試みを手がけたのは、大野大輔監督。
初長編『さいなら、BAD SAMURAI』(2016)で「カナザワ映画祭」のグランプリを受賞し、つづく劇場公開作『ウルフなシッシー』(2018公開)が「TAMA NEW WAVE」でグランプリほか3冠に輝きました。
それでは「完全ディレクターズ・カット版」である本作のテーマを読み解いていきます。
“アストラル・アブノーマル鈴木”の意味
最初はこの特徴的なタイトルについて。
アストラル=宇宙的に、アブノーマル=異端な、鈴木さん=鈴木ララ(松本穂香)が、主人公です。
もっとわからなくなりましたね。
彼女を取り巻く現実的な環境に触れるほうが、説明になるでしょう。
ノーマルな田舎
舞台は群馬県にある人口3万2千人の町とされ、ブランドもエスカレーターもWi-Fiスポットもない片田舎です。
カメラが映しだすのは、有刺鉄線と鉄塔とパチンコ。これぞ北関東的な“原風景”。
2月22日に公開を控える映画『翔んで埼玉』(2019)もそうですが、昨今ブームの“ご当地ディスり作品”のラインナップにも加えられる雰囲気を醸しだしています。
そこにスウェットを着て、大きなハンマーを持ち歩く、眼帯の女性が登場。
異様な光景ですが、映画『下妻物語』(2004)のようなロリータ、ヤンキーでもなく、これまた流行りのユーチューバーです。
彼女の名は鈴木ララといい、イキがるヤンキーでも、仲間想いで地元大好きなマイルドヤンキーでもありません。
「夢や目標はとくにはないけどチヤホヤされたい」という、自意識でパンパンに膨らんだひとりの若者です。
アブノーマルな自分
承認欲求に飢えて、あるいは居場所を求めて、過剰に自己を主張したくなるのは若者のならいで珍しくもありませんが、時間を待たずにアピールできるようになったのは、現代的な事象でしょう。
自宅にいながら、YouTubeの配信ボタンひとつで、「世界」とつながれるのです。
すぐそこに自己を解放できるスイッチがあったら、ララのように手っとり早く「湿気取り」に溜まった水を飲もうとしても不思議ではありません。
フツウの環境において、自分はフツウではないと思いたい。そのためにアブノーマルな自分を見せて、特別な存在であることを知らしめたい。
また「鈴木」は日本に多い姓ですね。
“宇宙的に異端な鈴木さん”が示すのは、“日常的に普通ではいられない多くの若者”です。
普通がいちばん難しい
ララは日々奇抜な動画を投稿する一方で、塾講師のアルバイトをしています。
生徒はひとり、女子高生の望月(谷のばら)だけです。
彼女に現代文を教えていた際、「読むほうの勝手じゃん」と言われたララはこう答えました。
「でも作者には必ず意図っていうものがあるからさ。普通に考えればいいことよ」
望月も返します。
「その“普通”ってやつが、いちばん難しくないですか?」
この言葉こそ、本作の核心をつくものです。
先述したように、“アストラル・アブノーマル”の真意は、ただ変な人を描くのではなく、“普通ではいられない状況”を鋭く照射することにあります。
閉塞感のある地方で、ヤンキーには「反抗の物語」が、マイルドヤンキーには「友情の物語」が“普通”になるための入り口として機能してきました。
すなわち“あいつも落ち着いた”と言うときの背後には、なにかしらの物語があるわけです。
しかしララには戦うべき相手も見えなければ、喜怒哀楽を共有する友だちもいません。
もはや「自己演出」する以外に日常をやり過ごす術はなく、それはテレビ局が取材に来ることで加速していきます。
自己演出の物語の限界
ドキュメンタリー番組「ザ・リアル」を担当する神野(広山詞葉)は、「地方でもがく若者」をテーマにララとの接触を図ります。
ララはついに注目されるときがきたと、母親の久美子(西山繭子)と弟の流留男(田中偉登)に「過去の物語」を書き与え、一家の設定をつくります。
でもその努力の甲斐もなく、企画は上層部の指示によりお蔵入りとなってしまいました。
神野に詰め寄り、激しく非難するララ。しかし、こう言い返されてしまいます。
「あんたみたいな子、よくいるタイプだからね」
正しい物語のつくり方
自分で用意した物語は、あっけなく崩れ去りました。
それもそのはず。自己言及的に紡いだ物語は、他者の承認が得られなければ成立しません。
ではララに代表される「物語の流浪者」は、どこに居を構えればいいのでしょうか。
言うまでもなく「自分」です。改めて自分の「実像」をみる必要があります。そのスケールを確認するのです。
そのためには、自分で自分の背丈を測れないように、背中をあわせてくれる「大きな存在」が求められます。
その「圧倒的な他者」のひとつが「才能」です。
大野監督が語る劇場版の見どころ
大野監督はパンフレットの対談において、クライマックスでララが号泣するシーンが、劇場版ではもっともインパクトが大きいと述べています。
「本物の才能に出会っちゃったっていう、認めたくないけどこれは売れてしまう、とわかってしまうシーンです」
この“才能”とは、塾生の望月のことです。
彼女は小学生のころからギターを習っていて、今は作詞作曲もやるようになったことから、ララにプロモーションビデオを撮影してほしいと相談を持ちかけます。
いざ彼女が歌いはじめると、ララは徐々に顔をゆがめていき、ついには泣きだします。
「才能という他者」と出会ってしまったのです。悔しさと感動にカメラを回しつづけることさえ、できませんでした。
その後、望月はプロデビューし、紅白歌合戦に出場するほどの実績を残していきます。
才能という他者との出会い
才能でみずからの立ち位置を知るとは、ある意味、ありきたりな話かもしれません。
では才能があるかないかで、自分の物語を見極めればいいのかといえば、そう簡単ではないようです。
ララには双子の妹、リリがいました。
顔はまったくおなじですが、同時に応募した芸能事務所のオーディションではリリだけが合格。華々しい芸能界デビューを飾ります。
妹のほうがレッスン期間も短かったのにと、ララは納得がいきません。
「こういうのを不条理っていうんだ」
ララの言うとおり、「双子」という設定によって才能には運や偶然が関係することがうかがえます。
おそらく才能とは「有無」ではなく、基本的に「出会う」ものであり、「他者」だという認識が必要なのでしょう。
人との出会いによって、自分が変わっていくと考えれば、よりわかりやすいでしょうか。
その出会いを活かせるかどうかは、自分で決められます。
ララはYouTuberを引退し、アブノーマルを装わなくても、自分が自分でいられる“普通の物語”の糸口を発見しました。
自分と一緒にフリーダンス
歌手として成功した望月から「先生、私に正解を教えてくれてありがとう」と書かれた手紙をもらったララ。
そう、才能があるとされた側も、それを自覚するには「他者=出会い」が必要だったのです。
よくある話でしょ、とララは受け流すものの、その表情には落ち着きが、つまりいちばん難しかった“普通”の顔が浮かんでいます。
もう宇宙に向かって逃げることはありません。
その証拠に、映画のラストで彼女は鏡張りのダンススタジオで「自分」と向きあいながら自由に踊り狂います。
自分を本当に解き放つものは、YouTubeの配信ボタンではなく、自分自身のなかにありました。
寂れた日常はつづくでしょう。正解など簡単には見つからないでしょう。
でも自分から目を離さないかぎり、どんなに暴れても自分を見失うことはないと、最後のフリーダンスは教えてくれています。