連載コラム「偏愛洋画劇場」第18幕
2018年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映、特別賞のスペシャル・パルムドールを受賞した作品が『Le Livre d’Image』。
日本語では『イメージの本』の意味を持つこの作品を制作したのは、ヌーヴェルバーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール監督です。
今回取り上げるのは御年87歳、映画制作に人生を捧げるゴダールが30代の時に発表した映画『気狂いピエロ』。
ゴダールならではの映像表現と魅力に満ちた不思議な本作を考察、解説していきます。
映画『気狂いピエロ』あらすじ
フェルディナンがとある本屋の店先に現れます。その後、彼はアパートでお湯の入っていない湯船に入り、娘にエリー・フォールの美術史を朗読して聞かせるフェルディナン。
フェルディナンは不幸な結婚生活を送っていました。
妻から夜はパーティーに行くわよと言われ、彼は家に残りたいと言いますが、友達の姪がベビーシッターとして家に来るから娘は大丈夫だと返されてしまい、結局ついて行くことになります。
赤、青、白など画面は単一の色彩で占められ、金持ちのパーティーでフェルディナンがうんざりする様子が映されます。
そこで一人の老紳士に出会うフェルディナン。紳士の名前はアメリカの映画監督サミュエル・フラー。
フェルディナンは彼に映画とは何か、と尋ねます。「映画は戦場のようだ。愛だ、憎しみだ、行動だ、暴力だ、死だ、つまり感動だ。」そう答えるフラー。
フェルディナンがパーティーを出ると花火が打ち上がり、ナレーションが入り、「絶望」「記憶と自由」「失望 希望」「失われた時を求めて」「マリアンヌ・ルノワール」。
家に戻るとそこにいたのは、ベビーシッターとして来ていたマリアンヌ。
フェルディナンは終電車を逃したマリアンヌを車で自宅まで送ります。
マリアンヌはフェルディナンのかつての愛人でした。一夜をそのまま過ごしたと思われる彼ら、次のシーンでマリアンヌは水色のバスローブ姿です。
「一生愛し続けるって言っただろう」そう言うフェルディナンにマリアンヌは、「ずっと愛し続けるなんて言ったことない」とミュージカルのように歌に乗せて返します。
その歌が終わるとカメラは、ピカソやマティス、ルノワール、とのナレーションと絵画を映し、部屋でうつぶせに横たわる男の死体を捉えます。
死体の周りには幾つかの武器があります。
マリアンヌはフランクという男の愛人でした。マリアンヌはフランクを酒瓶で殴って殺し、フェルディナント2人逃避行を始めます。
彼らは川を抜け森を超え、マリアンヌの兄がいるという南仏へたどり着きました。
自然に囲まれて書きものに耽るフェルディナン。マリアンヌは退屈した様子です。
「あなたは言葉で語る」「きみには思想がない、感情だけだ」「違うわ、思想は感情にあるのよ」そんな会話を繰り返し、ここを離れたいというマリアンヌにフェルディナンも渋々ながら従い2人は街へ向かいます。
フェルディナンはアメリカ人に、マリアンヌは化粧でベトナムの娘に扮して寸劇を演じ、観光客のアメリカ兵から金を巻き上げることに成功しました。
2人は船でさらに移動します。ところがその後ギャングの争いに巻き込まれ、ギャングを殺して逃げたマリアンヌと捕まって拷問を受けたフェルディナンははなればなれになりました。
それから時は過ぎ、フェルディナンは軍港で働いていました。そこへ突然現れるマリアンヌ。彼女はあの時ギャングを殺したのは自分ではない、フェルディナンは殺されたと思っていた、
そして兄フレッドに会ったと告げます。海辺で女性たちにミュージカルを指導しているのはギャングの男。フェルディナンはギャングの手助けをすることになりなります。
網で車を捕まえたり、相手側のギャングを撃ち殺して嬉しそうに微笑むマリアンヌ。フェルディナンは金をマリアンヌに渡し、遅れて波止場に向かいますが、マリアンヌはすでに他の男と出港したところでした。
がっくりしたフェルディナンはマリアンヌと男が隠れている島を見つけ、2人を撃ち殺し、自身は顔を真っ青に塗りたくります。
自死を決意しダイナマイトを顔に巻きつけスイッチを入れますが、途中でやっぱり嫌だとあたふた。
しかし時すでに遅く、ダイナマイトは爆発してしまいました。
カメラは穏やかな海を映します。最後に流れるのはアルチュール・ランボーの詩『永遠』の朗読。「見つかった。何を?太陽と海が1つになる、永遠が」。
主人公フェルディナンを演じるのは、『勝手にしやがれ』(1959)主演、ヌーヴェルバーグ時代の寵児ジャン=ポール・ベルモンド。
マリアンヌを演じるのは当時ゴダールの妻であり、『女は女である』(1961)『女と男のいる舗道』(1962)など多くのゴダール作品で主演を務めたミューズ、アンナ・カリーナ。
また『大人は判ってくれない』(1959)や『夜霧の恋人たち』(1968)と同じく、ヌーヴェルバーグを代表するフランソワ・トリュフォー監督作品に欠かせない俳優ジャン=ピエール・レオも映画館の若い客役で出演、また本作の助監督を務めています。
ゴダールとアメリカ
『気狂いピエロ』の1つのテーマは、アメリカへの反旗と言えます。
映画評論家アンドレ・バザンが編集長を務める雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の元に集い、若手映像作家たちが商業的映画を否定し、日々進歩し続ける技術で様々な実験を試みながら、作家性の強い映画を次々と創り出していった“ヌーヴェルバーグ”。
ゴダールはフランソワ・トリュフォー、アラン・レネ、ジャック・ドゥミらと並ぶヌーヴェルバーグを代表する映画監督です。
ヌーヴェルバーグ時代の映像作家たちは、皆アルフレッド・ヒッチコック、ジョン・フォード、オーソン・ウェルズといった当時のアメリカの監督たち、映画に強い憧れと敬意を抱いていました。
ゴダールの『勝手にしやがれ』の主人公は、アメリカ映画のギャングに憧れる青年。また『暗黒街の顔役』(1932)のオマージュを捧げています。
ゴダール初期の映画群、『勝手にしやがれ』から1965年あたりの作品は、アメリカ映画からの影響が多く、オマージュを捧げているのが特徴。
ところが1966年から数年ほどの作品は、より政治的な思想を取り入れたものが多くなり、『男性・女性』(1966)など日々の日常生活をドキュメンタリータッチに切り取りつつ、資本主義から生まれる悪への反抗を強く描くようになります。
そして後期の作品は独善的な作品、よりプロパガンダ的な作品を創るようになり、カメラワークや画面作りも初期の頃とはかなり離れたものとなりました。
アメリカへの批判が読める要素
なぜアメリカへ反旗を翻す作品と『気狂いピエロ』は言えるのか。
「私は物語を語る事が嫌いです。アイデアを刺繍して、タペストリーのように表す方が良い」そう発言していたゴダールは、スクリプトをいつも作らず、即興性を重視して映画作りをしていました。
本作もぶつ切りの様々なシーンがつなぎ合わされて1つの作品を構成しています。
注目したいのは画面にある色。オープニング、フェルディナンは本屋の軒先で物色しています。垂れ下がる幕は赤と白、並べられた本は青色がすぐ目に飛び込んできます。
富裕層が集まるパーティーは赤や青、白のモノクロームで映され、その後部屋で謎の男が死んでいるシーンもマットレスの色は青、床は白、そして血の赤と3つの色が強調されています。
“青、白、赤”はフランス国旗トリコロールの色。そしてマリアンヌとフェルディナンが乗っている車のラジオから流れるニュースで、本作がアメリカに対するメッセージを持っていることが示されます。
そのニュースとはベトナム戦争のこと。
アメリカ兵におちょくったような芝居をするシーン、死体のカットの後にアメリカ軍のピストルのカットが挟まれるなど、これらの符号からゴダールは本作にベトナム戦争、アメリカに対する批判を込めていることが分かります。
ファシズムに脅かされた戦時中のフランス。フランスの映画、芸術はヌーヴェルバーグ時代まで陰りを見せていました。
正義だと信じたアメリカが今やベトナムで暴挙を振るっている、それに対して何も言うことのできないフランスの富裕層(保守層)と、あんなに敬愛していた国に裏切られたと感じるゴダール。
しかしマリアンヌのような若い世代はそのような憂いを感じることがなく、アメリカと共に自分達から去って行ってしまう。
マリアンヌがずっと“兄”だと語っていた、そして最後にフェルディナンを置いて駆け落ちしようとするフレッドは、アメリカを象徴する人間でしょう。
途中マリアンヌが画面に向かい腕を伸ばし、大きく見せたハサミをまるで画面を分断するかのように動かすシーンがあります。
フランスの中年層と若年層の間の違い、アメリカに裏切られたと感じ行き場をなくしたフェルディナン=ゴダールたちとの別離を象徴するかのような表現です。
そうしてアメリカに憧れ続けたにも関わらず裏切られる形になってしまった、ピエロと呼ばれ続け気づいた頃には本当に道化者だった。そんな自嘲を込めてラスト、フェルディナンは爆薬で自死を図ります。
しかし死ぬ前にあたふた、ピエロの彼は自らの死さえも端から見たらお笑い草となってしまうのです。
そして『気狂いピエロ』を撮り終えたゴダールは、ブルジョワとしてのアメリカ映画に、彼の作品で反撃を仕掛けるようになります。
ゴダールと言葉
『気狂いピエロ』に含まれるテーマは、アメリカ社会とフランスの立ち位置ついて、それからゴダール自身の映画に対する考え方と、彼の恋愛ついて。
本作は詩や絵画、文学からの引用を用いてゴダールの心情が吐露されています。
パーティーのシーンでは「僕には見るための目と聞くための耳、話すための口がある。全部バラバラだ、繋がっていない。ひとつながりのはずなのに」。
恋人と南仏へ逃げてもフェルディナンは書きものに熱中するばかり。マリアンヌには「あなたは言葉で語る、私は感情で見つめているのに」と言われてしまい、そんな彼女に対してフェルディナンは「君とは会話にならない」と返します。
また彼はこうも言います。「人と人の間に存在するものや空間、音や色を書く。そこへ到達すべきだ」「僕らは夢でできている、夢は僕らが作った。そう、美しい。夢や言葉や死は美しい。愛する人よ、人生は美しい。」。
しかし言葉と向き合ったフェルディナンは、愛するマリアンヌに裏切られ、ピエロとして死んでしまうのです。
ゴダールはマルクス主義と関わりのあるドイツの劇作家、詩人のベルトルト・ブレヒトに影響を受けていました。
ブレヒトが提唱した演劇の方法は“異化理論”、これは“日常性を異常化させる”方法。視覚的な手段、もしくは俳優が役を離れて批判を行い、観客は舞台や映画の出来事に対して感情的に離れることができ、知的な理解をするようになるという手段です。
時折マリアンヌとフェルディナンは、観客と物語の間にある“第4の壁”を破り、またこの映画が“作り物”であることを明示します。
ゴダールは本作で物語の中の出来事から距離をとり、自らの芸術、社会に対する思想、歴史的な文脈でフェルディナンにコメントをさせていると言えます。
スクリプトが用意しておらず、突発的に様々な出来事が起こる本作は、一見ぶつ切りの物事が結い合わされているように感じられますが、ひとつの時代、ゴダールというひとりの人間をコラージュした芸術として完成されているのです。
マリアンヌを演じたのはゴダールのミューズであり、最初の妻であったアンナ・カリーナ。
ともに独立プロダクションを作り、映画を製作してきた2人ですがこの『気狂いピエロ』が発表された1965年、同じ年に離婚してしまいます。
一緒に歩んできたにもかかわらず決別してしまった2人、フェルディナンの爆破は恋人にピエロと呼ばれ、愛に裏切られ本物のピエロになってしまった、1人の失恋した男の哀しい自嘲的笑いともとれます。
しかし最後に引用されるのはランボーの詩『永遠』。
社会の混乱、1人の男と1人の女の愛の終り、すべての紛争が終わった時に広がるのは永遠。ゴダールはそれらを芸術に昇華させ、時間の流れのない“永遠”の存在である映画を作ったのです。
まとめ
洒脱な言葉と色彩の交歓、洗練された映像に乗せて疾走する物語『気狂いピエロ』。
はなればなれに感じられる1つ1つの事象も脳裏に焼きつき、彼らの言葉は観る人の心と思想にすっと寄り添う、唯一無二の魅力を持つ映画史に残る名作です。
破天荒なヌーヴェルバーグの旗手、ゴダールが放つ“永遠”の可笑しさ、憂い、そして美しさをぜひご堪能ください。