映画『聖なるもの』は、4月13日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー!
岩切一空監督の渾身の一作となる本作のキャッチコピーは、“フェリーニ meets 庵野秀明!?”。
庵野監督といえば誰も知る「エヴァンゲリオ(ヲ)ン」シリーズや『シン・ゴジラ』の監督ですね。
そしてもう一つのキャッチコピーは、”映画の向こう側へと突き抜ける強烈な映像体験”。
今回は岩切一空監督の『聖なるもの』の「向こう側」を、少し深掘り考察を含めてご紹介します。
1.映画『聖なるもの』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【監督】
岩切一空
【キャスト】
南美櫻、小川紗良、山元駿、縣豪紀、希代彩、半田美樹、佐保明梨、青山ひかる、松本まりか
【作品概要】
岩切一空監督が最後の自主制作映画と語った作品で、監督が5年越しで出演交渉をしたヒロインの南役をプロフィール非公開の南美櫻が務め、もう1人のヒロインの小川役を小川紗良が演じています。
劇中歌と主題歌をボンジュール鈴木が担当。MOOSIC LAB2017でグランプリでは、最優秀女優賞など4部門を受賞しました。
2.映画『聖なるもの』のあらすじ
早稲田大学の映画研究会に所属はするものの、1本の映画も撮れないまま、3年生を迎えてしまった岩切。
橘先輩が制作する新作の主演女優を探し始めた彼は、その際に橘先輩から言われた「自分の生活を撮影しろ」というアドバイスを聞き、生活の自撮りを始めます。
やがて大学の新歓前に行われた花見の宴席で、舞先輩から4年に1度現れるという“新歓の怪談”の話を聞きます。
それは新歓合宿に現れるという、黒くて長い髪、大きな目、透き通るような白い肌を持った少女にまつわる話でした。
「彼女を見た者は、衝動的に映画を撮りたくなり、唯一彼女に選ばれ、彼女を被写体に撮った映画は必ず大傑作になる」という噂がありました。
しかし、それを行うにはルールが存在しました。
1つ目は、彼女のために脚本を書く。
2つ目は、何があっても撮影を止めない。
3つ目は、今だに誰もわからないと言われていました。
そして迎えた新歓合宿に向かうバスの車内で、岩切は車酔いの気分を癒すために、独り座席に座っている時のことでした。
後部座席には誰もいないはずなのに、見知らぬ目の大きな“怪談の少女”は現れます。
岩切は思わず新歓の合宿所を出て、その少女の後を追いかけます。
そして、「僕の、映画に、出てくれませんか?」と声をかけてしました。
無口どころか、名前も名乗らない彼女を岩切は自宅に招き入れると、山積みにしてあったマンガ本にあった登場人物ヒロインの名前を取り、「南」と名付けます。
やがて、岩切と南のための映画製作が始まったのだが…。
3.映画『聖なるもの』の感想と評価
岩切一空監督作は自主製作映画なのか?
本作『聖なるもの』は、観る人によっては一筋縄ではいかない作品かもしれない。
映画を観た感想をひと言で述べるなら、“特出した傑作”だということでしょう。
実はあまり、映画に対して傑作や名作などの冠の言葉は使わないようにしていますが、作品を観ている最中から今までにはない感覚を得ていましたので今回は使用しました。
その理由の1つは映画館(試写室)から出たかったと感じさてくれたことが大きいのです。
映画とは“他人の夢”だと共感ではなく、認知させる力(客観視)がこの作品にはあります。
それはスクリーンの光が“、母親の産道から生まれ出る先という向こう側”に見えたような気分がどうしようもなく沸き起こったのです。
胎内にいる赤ん坊のように、『聖なるもの』という映画(母体)から世の中に生まれ出たくなった出産の意志を抱かされました。
これは自分なりに観た印象なので、観客の多くが感じることではないかもしれません。
しかし、ストーリー展開のモチーフとして、出産にまつわる描写も登場することから、それが偶然の印象ではなく、岩切一空監督の演出によって引き起こされた狙いであることは明らかです。
この章の冒頭にある予告編No.29にあるのように、登場する岩切は橘先輩に言われるがまま自撮り始めます。
つまり、本作は岩切の見た目であるPOV(主観撮影や主観ショット)によってストーリーは進行していきます。
それにより岩切という登場人物の物語性を信用させ、自ずと岩切自身の胎内に観客は取り込まれてしまうかのです。
しかし、それは映画の仕掛けであり、後半は大きな展開を見せる布石となっています。
そもそも本作は自主制作映画なのかというのも、岩切作品のキーワードとなる“向こう側”から見れば魅力的で、とても心地よく怪しいものです。
岩切一空監督の『聖なるもの』を観た時に思い出した映画があります。
日本のカルト映画の創世記的な作品でる大林宣彦監督の1966年の作品『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』。
そしてヴィジュアリストである手塚眞の1981年の『MOMENT』を確かに思い出しました。
どちらよりも劣らず岩切一空監督の自主映画『聖なるもの』には度肝を抜かれた快作でした。
もし、若手監督たちの自主制作映画を貪欲に観続けた大島渚監督が、岩切一空作品を観たら何と言葉にするのだろうと夢想させられる作品だと言うと言い過ぎでしょうか。
さて、この作品を岩切一空監督はセミ・ドキュメンタリー風な作品であると述べています。
本作のキャッチコピーは、“フェリーニ meets 庵野秀明!?”と紹介したように、この言葉から深読みするなら、逆に“純正な自主映画”ではないのかもしれません。
本作『聖なるものは』は、フェデリコ・フェリーニ監督や庵野秀明監督の作品のように、「現実と虚構の間にある」ので自主制作という、岩切一空監督の仕掛けた作風なのでしょう。
本作が映画の入れ子構造になっていることや、妊娠の話にある内部と外部。そしてインナースペースである脳と宇宙という壮大な神秘的なスケールを抱いているからこそ、自主映画というカテゴリーさえ無いようにも思います。
例えるならレモンケーキパイのような映画⁈
岩切一空監督の作品を理解するために、ひとつのレモンケーキパイがあると仮定しましょう。
そのレモンケーキパイは、乳房のようなフォルムをしており、頂点となる乳頭ような箇所にはミントの葉があり、その直ぐ下には黄色いレモンの皮が刻まれ甘く煮込まれたピールがある。
また、外側はレモンの酸味が爽やかなクリームに、銀色のビーズのような砂糖粒が掛けられており、ケーキの外側の装飾だけでも格別の美味しさを連想させてくれます。
しかし、味わいの最たるものは内部は生クリーム。さらにもう一段内部にはカスタードクリームが層になっており、ベースにはリキュールの染み込んだスポンジが施されています。
それだけでは終わらず、最下部パイ生地もサクサクとした食感で少し塩気も効いていて、飽きずに最後まで味わい尽くすことが出来るというレモンケーキパイ。
このように岩切一空の作品は、この構造状になったケーキをスプーンでどのような深さまで観る者が映画を食するか、あるいは、混ぜ合わせて味わうかで大きく映画の印象が変わってきます。
言うなれば、岩切一空監督の自撮りで切り取られた現実(とする)の映像に虚構を追加して混在と融合させているのです。
これこそが岩切映画の持つ面白さだと思います。
一般的な映画のように、すべてがフィクションという虚構世界で作られていないような表現としての作風になっています。
もうひとつのキャッチコピーである“映画の向こう側へと突き抜ける強烈な映像体験”とは、庵野秀明が総監督をした映画『シン・ゴジラ』のキャッチコピーにあった、「現実対虚構。」と同意するようなものでないでしょうか。
あるいはメタファー連続性やメタフィクションといった表現とも言えます。
もし、そんな言葉は難しいくて分からないと言うのであれば、1999年に公開されたSF映画『マトリックス』のような構造的な世界観であると思ってよいでしょう。
本作『聖なるもの』に登場する自撮りをする岩切は、他者と関係性を持つことでアイデンティティーの確立させ、素直なまでに成長や恋愛の様子を見せていきます。
しかし、映画研究会というシークエンスから、映画製作の「創造と破壊」が青春そのものであり、まるで梶井基次郎の小説『檸檬』のような破壊的な美しさを持った虚構のある作品に感じられるはずです。
まとめ
岩切一空監督の本作『聖なるもの』にある、聖なるものとは何を指しているのでしょう。
新歓に現れる怪談の少女「南」なのでしょうか。
または同じ映画研究部で特撮映画を撮影している小川監督なのでしょうか。
それとも妊婦役に水やりをする聖母のような松本なのでしょうか。
そのどれもでヒロインあり聖なるもの。また岩切監督がリスペクトした庵野秀明監督も聖なるものなのでしょう。
そして何より最も聖なるものとは、岩切監督にとっては“映画という主観と客観を呑み込んだイキモノ”を示したように考えさせられました。
2018年公開される邦画のなかで、最も秀でた傑作であろう岩切一空監督の『聖なるもの』は、自信を持ってオススメしたい映画です。
ぜひ、かつて映画の向こう側へと突き抜けた『幕末太陽傳』の川島雄三監督や『書を捨てよ町へ出よう』の寺山修司監督、もしくは『人間蒸発』の今村昌平監督。
これらの名作にリスペクトした『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明監督に至る系譜を彷彿させた、“現実V虚構”から突き抜けた岩切一空監督の力作を刮目せよ!
映画『聖なるもの』は、4月13日(土)より、ポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー!