王道のストーリーに練りこまれたリアルで壮大な世界観
映画『バケモノの子』は、渋谷の街とバケモノたちが住まう渋天街という2つの世界を交錯させながら、バケモノと少年の師弟関係や疑似家族の中で生まれる唯一無二の絆を描きます。
声のキャストに役所広司、宮崎あおい、染谷将太、広瀬すず、大泉洋、、リリー・フランキー、津川雅彦をはじめとした日本映画界を代表する豪華キャスト陣が参加し、細田守監督がまとめ上げました。
CONTENTS
映画『バケモノの子』の作品情報
【公開】
2015年(日本映画)
【原作・監督・脚本】
細田守
【音楽】
高木正勝
【声のキャスト】
宮崎あおい、染谷将太、役所広司、広瀬すず、山路和弘、リリー・フランキー、大泉洋、津川雅彦、黒木華、宮野真守、大野百花、山口勝平、長塚圭史、麻生久美子、諸星すみれ
【作品概要】
細田守監督が前作『おおかみこどもの雨と雪』から3年ぶり描かれたオリジナル長編アニメーション作品。
声の出演には、渋天街のバケモノ・熊徹に役所広司、人間界の渋谷から渋天街に迷い込み、熊徹の弟子となって九太という名前を授けられる主人公の少年期に宮崎あおい、17歳の逞しい青年となった久太に染谷将太、蓮と出会う少女・楓に広瀬すず、熊徹の悪友の多々良に大泉洋、久太に助言を与える百秋坊にリリー・フランキーと豪華キャストが集結しています。
壮大なエンディングを飾る主題歌をMr.childrenが担当。アニメーションと実写の垣根を越えて、日本最高峰のスタッフが集結されました。第39回日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞を受賞。
映画『バケモノの子』あらすじとネタバレ
多々良と百秋坊の語りからはじまります。
ほんの少し前、世界のバケモノ街でひときわ賑わう渋天街(じゅうてんがい)には、すり鉢状の谷に棲みつくバケモノが数十万といました。
それらを長年束ねてきたバケモノの宗師様が引退して神様に転生すると宣言し、新しい宗師を選ぶことに。
強さ品格ともに一流なのが跡目の条件で、そこで真っ先に名が挙がったのが、猪王山というバケモノ。冷静沈着、勇猛果敢、大勢の弟子を抱える偉丈夫、一郎彦と二郎丸という2人の息子の父親でありました。
次の宗師は猪王山に違いないと皆が口々に噂をしていました。
しかし、もう一人候補にあがる熊徹というバケモノが。その名の通り熊のごとき容姿に猿並みに駆け回る底なしの体力で自慢の大太刀をぶんぶん振り回す、力だけなら猪王山をも凌ぐともっぱらの評判でした。
ところが熊徹は、粗暴、傲岸不遜、手前勝手で弟子の一人もいないく、まして息子なんかがいるはずもありませんでした。
9歳の少年・蓮は、両親が離婚し父と離れ、親権をとった母と暮らしていましたが、交通事故で急死してしまいます。
親戚が大事な跡取りなんだからと、養子として引き取られることに。しかし、蓮は理不尽な親戚たちに「一人で生きていく、強くなってお前らを見返してやる。ダイキライだ、お前らも、父さんも」と言い放ち、引っ越しの最中に家を飛び出します。
渋谷の街を行く当てもなく歩く蓮は、雑踏の中、ダイキライだ、ダイキライダイキライだと叫びます。ショーウインドーからダイキライとつぶやく蓮の影が浮かび上がっては消えていきました。
夜の街を独りさまよい、路地で小さなネズミような生物に出会います。お前もどっかから逃げてきたのか、おれも独りぼっちだよと独り言のように話しかけます。
バケモノ界の熊徹は、宗師様に跡目を目指すなら弟子を取れと言われますが、熊徹の弟子になど誰もなりたがりません。だったら、人間を見物に行こうと多々良がけしかけます。
渋谷の裏通りでうずくまっていた蓮に声をかけた熊徹は、連の顔を覗き込み、「悪くねぇ、おれと一緒にくるか」と言い残しその場を去っていきました。
とっさに後を追うと、狭い路地に入っていく熊徹の後ろ姿を捉えます。蓮は意を決したようにその路地へと入っていくと、渋谷の街とは考えられない迷路のような路地が。
光の差し込む先に出ると、獣の鳴き声がこだまするバケモノの街・渋天街でした。
出口を探すも来た道はなくなり、ひしめき合う通りを駆け抜けようとした途中、狼のバケモノに絡まれ、百秋坊と名乗る豚のバケモノに助けられました。
「ここ渋天街へは定められた順路を辿らなければ、辿り着けん、神にすらなれる我らバケモノと連の生きる人間とでは生きる世界が違うでな。元の世界に送り届けてあげる」と百秋坊に言われる矢先に、熊徹と再会します。
自分を追ってバケモノ界に踏み込んだ蓮を見込んだ通りだと気に入り、今から弟子にすると言って、蓮を連れて行きます。
熊徹は自分の家に連れていき、名前を応えない蓮に、9歳だから「九太」と名付けます。
翌朝、蝉の鳴く声。鶏小屋に寝ている蓮を起した熊徹は、朝ごはんに卵かけご飯を蓮に食べろと即します。
生の卵なんか生臭くて食えるかという蓮に、卵かけご飯を掻き込み、どうだとドヤ顔の熊徹。
弟子は好き嫌い禁止だという熊徹と弟子になったつもりはないという九太とで口論になり、家を飛び出した九太。
九太の後を追った熊徹は猪王山に、人間の子どもを弟子に取ったことを話します。
「なぜ、バケモノと人間が棲む世界を異にしているか、人間はひ弱ゆえに胸の奥に闇を宿らせるという、もし闇につけ込まれたら手に負えなくなるとおまえ一人の問題ではないから、元の世界に戻してこい」という猪王山。
渋天街の皆のためにやめろと警告する猪王山に腹を立てた熊徹とで対決がはじまりまることになりました。
民衆が2人の周りを取り囲みます。作法なんてない熊徹はダンスのようなウォーミングアップ。
素手での打ち合いからはじまり、はっけよいのこったと相撲を取ります。それでも勝敗がつかず、刀を抜かずに振るい合います。
そんな中、誰一人として熊徹ことを応援しているバケモノはいません。自分と同じように独りぼっちなんだと気づいた九太は、「負けるな」と熊徹へ叫びます。
熊徹がノックアウトする寸前に宗師様が間を取り持ち、試合は取りやめに。人間の弟子を熊徹が取ることも認めることになりました。
翌朝、熊徹に木の棒を剣に見立てて、教えてもらおうとしますが、「剣をグーと持つだろで、ギュッといってバーンだ」と身振り手振りの擬音語というでたらめな教え方で、剣の振りからすらわかりません。
熊徹は続けて「胸の中の剣が重要なんだよ、あるだろ、ここんとこの」と言って去ってしまいます。
多々良からはそんな甘ちょろい覚悟でつとまるか、ここに居場所なんてねぇと言われ、百秋坊に弟子の仕事は何をすればいいかを聞き、掃除、洗濯、炊事をする九太。
食材の買い出しに出かている先で、二郎丸に人間はそのうち手に負えなくなるから、今のうちにオイラが退治してやると言いがかりをつけられます。兄の一郎彦が「こんなひ弱な奴が怪獣になどなるものか」と仲裁に入りました。
宗師様が急に熊徹の前に現れ、弟子を連れて諸国を巡る旅に出よとのお伝達。
各地の草師にすぐに面会できるという紹介状を授けられ、名だたる賢者たちから真の強さを知る手がかりをつかむために多々良と百秋坊も引き連れて旅に出ることに。
各地で賢者たちに会った蓮は、強さには色んな意味があることを知ります。熊徹は意味なんか自分で見つけろと言い放ちます。
旅の最後には、久太は熊徹が親も師匠もいないく自分一人で強くなったことを知り、熊徹はどうやって久太に教えればわからないと悩んでいました。
旅から帰ってきて何をしていいいかわからない久太に「なりきる。なったつもりで」とお母さんの声が聞こえます。
熊徹が稽古をしているのを陰で見ながら、せめて足だけでもと盗み見ていた久太は、寝静まった夜に熊徹の足さばきを練習します。
それからというもの、親を追う赤ん坊のように熊徹のやることなすことを真似て後を追う久太。
はじめはそんな久太のことをうっとうしく感じていた熊徹も素直な弟子がかわいくなり、まんざらでもない様子です。
言葉をかわさずとも、熊徹を真似る稽古の日々が続いたある日、炊事をしている久太が熊徹の姿は見てないのに足音だけで、どんな動きをしているのか分かることに気づきます。
あくる日、その感覚を試すため、熊徹をふいにほうきでつつきます。熊徹はやめろと久太を捕まえようとしますが、するりと身をかわし、熊徹の方が倒れてしまいました。
ずっと熊徹の足だけみて真似をしていたら、次の足がわかるようになったのでした。
久太はその技を熊徹に、熊徹は剣の持ち方、パンチの仕方を久太に教え合う日々がはじまり、互いに刺激し合い強くなってゆきます。
二郎丸からはオイラ強い奴が好きなんだと言われ、仲良くなることに。
熊徹と久太は来る日も来る日もともに修業に励み、時が流れていきました。
久太が17才になった時には、逞しい青年となり、熊徹の技はより洗練されて切れがましていました。
久太が強くなってことで熊徹庵は、弟子になりたいと志願するバケモノが増えて、大繁盛。
そんなある日、偶然にも人間界に通じる路地から渋谷に戻った久太は、高校生の楓と図書館で出会います。
小学校から学校に行ってなく鯨という漢字を読めなかった蓮に楓が、メルヴィルの「白鯨」に書いてある字を全部教えてあげると提案します。
楓との出会いによって、渋天街と渋谷を行き来しながら、今まで知らなかった新しい世界や価値観を教えてもらいます。
蓮と熊徹の関係をうらやましいという楓は、親と喧嘩したこともなく、いつも親の願った通りの子でいたことの本音を話します。
「白鯨」から様々なことを勉強してく蓮の姿を見て、高等学校卒業程度認定試験を受けて、大学進学を目指してみてはと勧めます。
蓮は受験のための住民票を調べるうちに、実の父親の住所がわかり、再会を果たします。
熊徹に相談があると話を持ちかけますが、久太の話も聞かずに稽古をさぼったことを咎めます。熊徹は久太の寝床で教科書を見つけたことを久太に問い詰めると、「人間の学校に行きたい、他の世界を知りたい」という蓮。
それでも聞く耳もなく怒鳴り散らす熊徹に、「父親が見つかった、そこに行く」と家を出ていきました。
待ち合わせいた父親に「少しずつやり直そう、今までの辛いことは全部忘れて」と言われ、なんで辛いって決めつけるの、何も知らないくせに知ったようなこと言うなよと言い捨てる蓮。
やり直そうと言った父親の顔と行くなと久太を止めた熊徹の顔が交互に思い浮かび混乱する蓮は、渋谷の街を駆け出します。
昔の自分の姿が影となりショーウインドーから浮かび上がります。ぽっかりと胸に穴が空いた影が消えたかと思うと、今度は今の自分の姿に乗り移って見えました。
自分の闇が恐ろしく取り乱す蓮でしたが、図書館で待っていた楓と会い、正気を取り戻しました。
楓からまた同じような気持ちになったときにこのお守りを思い出してと、自分の手首につけていた赤い糸を蓮の手首に巻きつけました。
渋天街に戻った蓮は、二郎丸の家で熊徹と猪王山の決着の日が明日だと知ります。
帰りがけに玄関まで送っていくという一郎彦に、人間のおまえや熊徹みたいな半端ものは半端ものらしくぶんをわきまえろと攻撃されます。蓮と同じ胸にぽっかり空いた穴が一郎彦に浮かび上がっていました。
映画『バケモノの子』感想と評価
師弟関係と新しい家族像
熊徹と久太は、向こう意気が強い似たもの同士で出会った当初から互いに罵り合い、張り合っています。
名だたる賢者たちに真の強さを問うために諸国を巡る旅に出た後は、なったつもりでなりきると熊徹の動作を真似る九太。真似ては学ぼうとする久太にまんざらでもないという熊徹がチャーミングに映ります。
粗暴、手前勝手で弟子の一人もいなかった熊徹が久太に模範されることで父性が目覚めてゆくのです。
そして変わらずに言いたい放題のふたりですが、いつしか息の合う間柄になっていく……その距離感を観ている側も感じることができ、心地よくなります。
多々良と百秋坊もまた、昔近所にいた世話焼きおばさんや悪さをすれば叱ったり、たしなめるおじさんのようにそばで久太の成長を見守り、その成長を我が子のように誇らしげに見つめる視線が微笑ましい。
本当の親だけが子を育てなくても、子どもにとって、すぐ隣で関わる大人たちに見守られ、時に叱咤される関係がある、それだけで子どもは安心して、逞しく成長するのでしょう。
細田守監督は自身に息子が生まれ、どうやって親になり、子どもはどうやって大きくなるのだろうと考えたことが『バケモノの子』の制作のきっかけとなったと語っています。
久太は熊徹、多々良、百秋坊といった関係から様々なことを体験し、豊かな心を育み成長してゆく。それは時代とともに家族の形や価値観が揺るがされる現代社会で、親一人が父性的な役割と母性的な役割を担うのではなく、子どもと関わる大人たちで新たな家族像を作っていくことを提示してくれています。
ファンタジックで写実的な世界観
アニメーション作品の雰囲気の決め手と言える美術設定。本作では『ALWAYS 三丁目の夕日』など数多くの実写作品を手がけている上條安里が前作『おおかみこどもの雪と雨』に引き続き務めています。
実写作品をメインに関わっている上條安里のように、アニメーションで美術設定をするのは稀のようです。
実在する場所を舞台として細田守監督が描く世界は、ファンタジーでありつつ、緻密に構築された空間を作り出しています。
ブラジルのファヴェーラを参考にしたという街並の中に建つ熊徹の家、モロッコの旧市街を意識したという市場といった異国異国情緒あふれた雰囲気の渋天街。
そして、高層ビルが立ち並び、ネオンの看板が眩しく光る夜の渋谷のスクランブル交差点、センター街といったリアルな東京都渋谷の街並みを舞台に繰り広げられます。
渋天街の象徴的な建物の形や道の通り方は、渋谷と一致するように描かれているのだとか。
そのような徹底されたリアリティある空間を作り出しているからこそ、アニメーションならではのファンタジックな要素が引き立つのです。
終盤にクジラに変化した一郎彦が久太を追うシーンで、スクランブル交差点の地底を泳ぐ影、代々木体育館の夜空を美しく舞うクジラといったスペクタクル感のなんと素晴らしいこと。
敵でありながら、幻想的に映し出されるクジラの姿は、発光プランクトンを参考に水しぶきを光らせて描かれています。
観ているだけで、高揚感が高まる美しいシーンです。
時間を体験させる細田守作品の魅力
一つの場所を軸にして、季節が移ろい、そこでの時間経過が映し出される細田守作品。
前作の『おおかみこどもの雨と雪』なら、雪と雨が通う小学校の教室で一年の歳月が経っていることをカメラがパンすることで表し、子どもたちの背丈を古民家の柱で測ることでその成長を視覚化しています。
『バケモノの子』では、熊徹と久太が一本の大木ある修業場所で、四季の移ろいを表しています。
過ごした出来事の積み重ねを丁寧に映すことで、観ている側も共に過ごしている感覚に至り、物語の世界がより身近に感じるのです。
空間に続いて、時間についてもこだわり抜いたリアリティを描くことは、身近なことをモチーフにした細田守作品にとって欠かせない要素となっています。
日常で起こる時間の概念は、言葉にするだけでは、伝わらない感動や奇跡的なことを含んでいます。その非言語的な感覚をアニメーションとして魅力的に体験させてくれると言えるでしょう。
まとめ
映画の中でのストーリーもさることながら、忘れられないシーンというものがあります。
『バケモノの子』では、卵かけごはんをかきこみ、どうだとドヤ顔をする熊徹や、剣をグーと持つだろ、で、ギュッといってバーンだとニュアンスだけで剣の振るい方を教えようとする熊徹と久太の掛け合い、はじめて熊徹の動作を真似る久太とのパントマイムのような可笑しさ、といったサイレント映画さながらの生きた感情を心で感じるシーンが忘れられません。
また、作品の舞台の隅々に至る建物や街の風景、部屋の配色やインテリアまでをも目を見張るものがあります。
異国情緒あふれる渋天街のバケモノたちの洋服にも注目すると、日本刀を持つ者だけが腰巻に刀をさし、羽織を着ています。羽織の背中には紋章があったりと飽きさせません。
はじめて熊徹と猪王山が対決するシーンでは、躍動感あるキャラクターの動き、戦いの臨場感に圧倒されます。
『バケモノの子』はそんな映像的な見どころも満載な作品とも言えるでしょう。
そして、観る人の状況や記憶、人生観によって映し出す鏡のように様々な楽しみ方を魅せてくれるはず。