映画『彼女』は現在Netflixにて配信中
日本発のNetflix映画、2021年第一弾として配信された廣木隆一監督作品『彼女』が2021年4月15日からNetflixで配信されています。
「キラキラ映画の三巨匠」として、これまで数多くの少女漫画原作作品を手掛けてきた廣木隆一監督が、中村珍原作コミック「羣青」を水原希子、さとうほなみ主演で実写化した本作。
高校時代から片思いをしていた七恵が夫から壮絶なDVを受けていることを知り、その夫を殺害したレイ。
映画ではふたりの逃避行を中心に描いていましたが、全3巻に及ぶ原作コミックでは、彼女たちとその家族との繋がりの物語を描いていました。
原作と映画との違いを、両作のネタバレ込みで解説していきます。
CONTENTS
映画『彼女』の作品情報
【公開】
2021年(日本映画)
【原作】
中村珍「羣青」(小学館刊)
【監督】
廣木隆一
【キャスト】
水原希子、さとうほなみ、新納慎也、田中俊介、鳥丸せつこ、南沙良、鈴木杏、田中哲司、真木よう子
【作品概要】
中村珍のコミック『羣青』を原作に、『軽蔑』(2011)『ここは退屈迎えに来て』(2018)などで知られる廣木隆一監督が、水原希子、さとうほなみW主演で映画化。テーマ曲とキーアートを細野晴臣が手掛けています。
また主演の水原希子の提案により、本作はインティマシ―・コーディネイターが採用された革新的な日本映画となりました。
インティマシ―・コーディネイターとは、性的な描写の撮影において俳優を守り、その負担を軽減するために制作側と俳優とを仲介する相談役のことで、撮影体制の健全化に一役買っています。
映画『彼女』のあらすじ
自分に好意を寄せていた高校時代の同級生レイと10年ぶりに再会した七恵。
結婚した旦那からDVを受けていることを告白した七恵は、「旦那を殺して」とレイに頼みました。
次の日レイは自身の犯行であると分からせるために、わざと証拠を残した上で、七恵の夫、篠田を殺害しました。
レイを心配した七恵は彼女を連れて車での逃避行に出かけます。
「もう誰もあんたのこと、蹴らない、殴らない」ふたりは人生を終わらせる場所を求めてさまよいます。
殺されかけたことを打ち明けたレイに対し、七恵は「刺し違えてあんたも死ねば、丸く収まったのにね」と冷たい態度をとります。
わざとらしい七恵の突き放し方も、レイは理解していました。
その夜レイは明日自首することを七恵に告げました。
警官に呼び止められ咄嗟に走り出してしまったため、ふたりの逃亡は困難を極めていきます。
原作の中だけの人々
原作コミック『羣青』は、2007年から連載開始された漫画作品。自分を慕うレズビアンに夫を殺させた“わたし”と、好きな女に頼まれて殺人を犯したレズビアンの“あーし”のふたりの逃避行を、全34話にわたり描きました。
それを2時間弱の映画に収めるとなると、原作から描写として省略・変更されたり、存在ごとカットされているキャラクターも少なくありません。
例えば、原作での“あーし”の職業は獣医なのに対し、映画でのレイの職業は整形外科医と変更されています。それに合わせてか、“あーし”へ密かに思いを寄せる動物看護師に相当する人物は映画には登場せず、レイのパートナー、美夏も犬を飼っていません。
女性を綺麗にするという職業への変更は、レイのセクシュアリティに対するある種の意味付けと捉えることもできるのではないでしょうか。
しかし映画版からは零れ落ちてしまった登場人物(主に単行本上巻に登場する人物)こそが、原作の“わたし”と“あーし”の物語に大きな影響を与えていました。
逃亡中に拾ったギャル。
道でヒッチハイクしているところをふたりが拾ったギャル。
好きな人に「処女と付き合うのは気が重い」と言われたことをきっかけに、ただのメル友と済ませてきたということを“わたし”に打ち明けた彼女は、その後事故に遭った猫を助けた“あーし”に触発されてか、医師を志すようになる、というエピソード。
意外にも彼女は、「他に何も見えなくなっている」ふたりに心中以外の選択肢があることを説いた最初の人物でもあります。
お母さん“だった”人。
ファーストフード店で食事中、“わたし”が誤って隣の席に置かれていた割れ物入りカバンを落としてしまったことで知り合う、カバンの持ち主。
カバンの中身は、彼女が過失により死なせてしまった息子の骨壺。
1度目の入水自殺に失敗したとき、海に流されてしまった骨壺の後を追うため、ふたりの助けで病院を抜け出します。
子供を産む幸せを知る、ふたりとは別の世界の人生にある幸せを垣間見る。世間一般のいう「女の幸せ」に待ち構えていた残酷な結末を知らしめるようなエピソード。
2度目の自殺に向かう彼女を“わたし”は黙って見逃し、後を追う“あーし”を引き止めます。
このとき、はじめてふたりが人を殺す罪悪感を共有します。
陸上部のライバル
高校時代陸上部だった“わたし”のライバルで、同じ陸上部で記録を競い合っていた(後に切原という名前だと分かる)あの子。
スパイクが買えないほど貧乏で、怪我のリハビリも出来ていない“わたし”の代わりに大会で走ったあの子は、“あーし”にとっても、高校時代と現在の自身を比較するための中心軸として意味のある人物でした。
「“わたし”への憐み」は、“あーし”にとっては“わたし”を浄化する手段であり、あの子にとっては“わたし”に対する嫉妬の裏返しでした。そして10月の体育祭で、あの子は“あーし”に密かな思いを寄せていたことが分かります。
あの子が絡んだ三角関係の物語が、「憐み」という形で処理されたことにより、『羣青』は社会における同性愛の受容のされ方、その是非を問う作品ではないということが明確化していきました。
“あーし”を乗せたタクシー運転手。
これは映画にも登場し、原作からのセリフ引用など彼は“あーし”を道具として消費し、女を金で買おうとする男として映画にも登場していますが、原作の方が描写として過激です。
映画でカットされたシーンは、タクシーから降ろされた“あーし”が渡された3万円には精液がついていたという、搾取する側とされる側の存在する社会構造が集約された1コマでした。
そこから道で声をかけてきた手相占いの見習いとの会話がシームレスに繋がっています。
同性愛者であると明かした上で、先ほど自分がされた搾取を同じ女性にしようとすると、「気持ち悪い」と拒絶されます。
「逃げられないときは諦めていた」“あーし”が、どの世界からも搾取される側であることが分かるエピソードです。
失わせた婚約指輪
前述したふたりと脇の人物たちとの物語以上に、2時間の映画から割愛されたのは、原作において3人目の主人公ともいえる“あーし”の元パートナーの物語でしょう。
役所で(異性愛者同士の)婚姻届を受理する仕事をしている“彼女”は、“あーし”と10年弱連れ添ったものの、“あーし”が“わたし”と再会してしまったことで、破局してしまいます。
映画では、レイと元パートナー、美夏との関係は電話越しに謝ったまま、別れるという場面が最後として描かれていました。タイトルの『彼女』も美夏ひとりを指しているわけではありません。
対して原作では“あーし”の去った“彼女”の人生のその後を、浴室で事故死を遂げる最期まで描いています。
この原作の3人目の主人公“彼女”の物語から垣間見えるのは、“彼女”には“わたし”さえいなければ“あーし”との幸せな将来があったかもしれないという可能性。
しかし『羣青』の物語自体、“あーし”が殺人を犯した直後から始まるのです。これは“彼女”と“あーし”の物語にとっては、ふたりの将来が最初の1コマ目から否定されていたということを意味しているのではないでしょうか。
“わたし”と“あーし”の共依存は奇妙なモノで単純に等号で結べるものでありません。
“わたし”と“あーし”は、ある意味同じ人間の別の側面同士が衝突しているような合わせ鏡の関係だったのに対し、“彼女”と“あーし”は、合わせ鏡の関係じゃない上下のある非対称な関係としてバランスを保つことが出来ていました。
結局、物語はそれまで互いを知る機会が無かったバランスの悪いふたりが、違う世界に生きていた事を肯定するという着地をします。
“彼女”と“あーし”の間に起こった悲劇は、同じ世界に住んでいると錯覚したまま、すれ違ってしまったことで起きてしまいましたが、“彼女”は“わたし”の人生にとってもかけがえのないもう一人の自分でした。
“わたし”は“あーし”に人生を諦めさせた。“彼女”は“あーし”に自分を諦めさせた。
3人とも、「一度その道を選んだ事実は消えて無くならない」と自分に言い聞かせるように、残された“あーし”に背負わせたくなかった十字架を、“あーし”の家族は故意に背負わせようとしますが、“わたし”は、“あーし”に“彼女”の十字架を背負わせない責任を主体的に選んだのです。
“あーし”にとって後天的にできた“わたし”という家族が、価値のあるものへと後天的に変わるきっかけを与えたのは“彼女”でした。
血族という客体化された事実を越えて、自分自身で家族を定義するまでの壮絶な苦難を乗り越える物語は、血族の家族がいるという「小さな幸せ」を既に掴んでいる“あーし”のドラマに課せられた責任です。
その責任は当初“彼女”だと思っていましたが、“わたし”であったことに気付いていきます。
“わたし”と“あーし”の会話が、世間一般を象徴する兄夫婦の会話と噛み合わないのは、お互いが不充足な人物だからです。ふたりはお互いに無いものを互いに見出し、不理解や不寛容な相手の人格を相殺し合っているのです。
指輪を捨てさせるというのは、“あーし”自身、未練を断ち切るポーズとして“わたし”に見せつけたかっただけではなく、人生の責任を背負った相手の尊厳も殺す覚悟を見せたかったからでしょう。
原作終盤の物語はふたりに浄化されることを許しますが、その物語を与えたのは、他でもない“彼女”の存在でした。
ラース・フォン・トリアーに似た作風
原作が救いのない憂鬱な展開と鑑賞中の不快感を作品の魅力の一部としているあたり、デンマークの映画監督ラース・フォン・トリアーの作品に近いものを感じさせます。
見るに絶えないような生々しい場面、人間の卑しさ、“わたし”破滅衝動のみが物語を推進させる中盤までの展開は『メランコリア』(2011)の憂鬱さを彷彿させ、“わたし”が浄化されるまでを描いた物語と、映画製作を通し鬱へのセルフセラピーを施すラース・フォン・トリアー自身とが重なります。
自分で自分を追い詰めていく。たどり着く先には破滅しかないという死への渇望。
自縄自縛を続ける“わたし”の物語が、ラース・フォン・トリアー的作品構造と違ってくるのは、自縛を解けるのは自分しかいない気付きへと向かっていく中盤以降です。
何も残されていないと絶望した“わたし”の人生には、傍にいて気付きを与えてくれる“あーし”が残されていました。
孤独をデトックスするには、憎むべき相手が傍にいる必要があります。
他人と人生を共有するときに重くのしかかる責任を負う覚悟を決めるまで、引きずり回される地獄めぐりの道程で、不快な自分と向き合わされ続けます。果てしなく不愉快なことを楽しまなければならないのです。
まとめ
原作を読んでから映画を観ると、原作からのセリフの引用につい釣られて、同じ物語を観ているという錯覚に陥ります。
けれども、実際に比較して観ると、コンセプトや各人物が辿る結末からして方向性の異なる別作品であることが分かります。
映画にて、真木よう子演じる美夏も、原作と同様に帰ってこないパートナーを諦めるという決断をしますが、主人公ふたりの将来を決定づける直接のきっかけとなったのは、彼女の人生が終わったところでした。
映画『彼女』にも、逃避行のターニングポイントにタクシー運転手が登場しますが、タイトルで主人公を「女性」と特定している映画版ならではの対比関係を描いていれば、原作とは解釈の異なるオリジナリティの幅もより広がったのではないでしょうか。
映画を観てから原作にあたると、そこにいるはずだった人々が残した物語の味わい深さがさらに増します。
映画『彼女』は2021年4月15日より、Netflixにて配信しています。