連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第54回
こんにちは、森田です。
今回は、3月26日(金)より渋谷ホワイトシネクイント他で全国順次公開される映画『迷子になった拳』を紹介いたします。
ミャンマーの伝統格闘技・ラウェイの選手、興行、文化、精神が織りなす“四角いジャングル”から見えてくる闘いの意義と、“民主化の行く末”ついて考えていきます。
映画『迷子になった拳』のあらすじ
拳にバンテージのみを巻き、禁じ手のほとんどが許される「ラウェイ」。本作はその「地球上で最も過激な格闘技」に挑む者たちを追った約4年間の記録です。
体操選手から転身した20代のファイター・金子大輝を中心に、一度は格闘技から離れたものの30歳までの成功を期限に復帰した渡慶次幸平、そして格闘技イベント「RIZIN」で那須川天心と戦ったことでも話題を呼んだ浜本“キャット”雄大らの姿が映しだされます。
また撮影前の2016年、今田監督自身も40歳で会社を解雇され、“自分はまだ戦えるのか”という問いを彼らが戦う姿に重ねます。
なぜ彼らはラウェイに挑戦するのか。そもそもなぜ人は闘うのか。個々の事情を超えて浮かび上がるその本質を見どころとして、勝負の世界をのぞいていきます。
勝負≠勝敗
日本で“なんでもあり”の格闘技といえばまず、かつて喧嘩空手と称された「極真空手」が思い起こされます。
極真の創始者・大山倍達の半生が描かれた劇画『空手バカ一代』の逸話を引くまでもなく、それは実際の試合からもうかがえます。
たとえば、1991年の極真第5回世界大会で実現した、フランシスコ・フィリォとアンディ・フグの試合。
止めがかかったあとの上段回し蹴りでフグが失神して倒れた際、フィリォの1本勝ちが認められました。
ルール以前に、勝負の世界では不意をつかれたほうが負け、というわけです。
一方、ラウェイにも「判定」はありません。最後まで立っていれば2人とも勇者として讃えられます。
ここから、どちらの世界にも「勝敗より大事なもの」があることがわかります。
日本で非公式ながらもラウェイの格闘家とはじめて拳を交えたのが空手家だったというのも、似た価値観を共有している証左でしょう。
ではつぎに、その“価値”とはなにかをみていきます。
勝負の価値
ラウェイの試合を日本で正式に手がけた興行主は、その美しさに惚れたといい、「勝ち負けにこだわるよりも一歩出る勇気」が重要なのだと説きます。それは過酷ではあっても、残酷ではないと。
その種の「人間の尊厳」をもっとも高らかに謳い上げた格闘映画の1つは『ロッキー』(1976)でしょう。
血まみれになっても最後までリングに立ち続け、試合に負けても“己との勝負”には勝ったロッキー。腰には輝かしいベルトではなく、愛する人の腕が巻かれました。
ゴングが鳴って、人生がはじまる。
『迷子になった拳』における重要な特徴も、出演者たちがみな仕事をもっていて、試合は「人生の一部」であるという点です。
真のリングは足元にあること。対戦相手はみずからの挫折や敗北感であること。
戦いの舞台が人生であればまさに、“過酷であっても、残酷ではない”というフレーズが生きてきます。これはだれもが共感できる構えではないでしょうか。
なお、ロッキーは続編で王者になったあとは、“いかに強い敵を倒すか”という方向に進んでいきます。
その点、ラウェイには「防衛」もないというのが、通常の格闘技ないしは興行との違いを如実に示しています。
興行の代償
しかし、戦いの価値を勝敗ではなく、尊厳および文化だけに求めようとするのなら、興行は成り立ちません。本作ではまさに、その問題に直面した主催団体の葛藤や奮闘も描かれます。
互いに相容れない精神を抱えた選手、文化、興行がリング上で散らす火花。
ラウェイの本当に恐るべき点は、この緊張感なのかもしれません。
そしてこの状態を見極めるうえでも、さきに挙げた極真空手が参考になります。
男たちが命をかけた空手道。その拳と軌を一にするように影響力を増していった劇画、アニメ、そして異種格闘技の道。
「命」と「金」の矛盾で歩みを止めるのではなく、むしろ文化社会を巻き込んでより大きなエネルギーを放っていった極真は、大山館長の死後、みずからが生み出した存在の重みに耐えきれず、分裂していきました。
迷子なのは人生だけでなく、団体も、あるいは国も、ずっと何かを探しているのです。
特にミャンマーの情勢をみれば、国全体にとってのそれは「民主化」に他なりません。
民主化の精神
本作が記録しているのは、アウンサンスーチー氏率いる新政権が誕生した2016年から、再び軍政への転覆が試みられた2021年前までの社会ですが、ラウェイをとおせばミャンマーの人々の不屈の精神の拠り所も確認できます。
さきにみたラウェイの葛藤は、「市民」と「軍人」の対比にもなぞらえられるでしょう。
やがて訪れる“沸点”に向かい、異種を火種にそれぞれの精神を燃やし続けるリング。
それは、民主化の機運がもっとも高まった矢先に、軍部によるクーデーターが起きた“今”を予見していました。
本作は超新星が爆発前に放つ一番大きな光をとらえた奇跡のような映画ともいえ、同じものは二度と撮れないドキュメンタリーの真骨頂を発揮しています。
勝利のために
まさしく「混迷」を極めるミャンマーですが、果たして民主主義を取り戻すことができるのでしょうか。
今田監督が本作の最後に見つけたある答えは、そのような不安を払拭し、彼らの気高き精神は決して絶えないことを教えてくれます。
それは迷いのない拳のように、見据えた未来に向かって真っ直ぐに伸びていくはずです。