映画化された小川洋子の小説『ホテル・アイリス』
『妊娠カレンダー』で1991年の芥川賞を受賞した小川洋子。
その作品は、美しい世界観と繊細な文章表現、弱者に寄り添う温かなまなざしが魅力ですが、作品の中でひときわ異色なのが「SM愛」を取り上げた『ホテル・アイリス』です。
今回この『ホテル・アイリス』が映画化され、第16回大阪アジアン映画祭に参加しました。
監督は奥原浩志が務め、‟17歳の美少女と初老の男のSM愛”というショッキングな内容を、永瀬正敏と陸夏が演じました。
映画『ホテル・アイリス』は、2月18日(金)に東京の新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル池袋ほかで公開!
映画上映前に小説『ホテル・アイリス』を、ネタバレありでご紹介します。
小説『ホテル・アイリス』の主な登場人物
・マリ
「ホテル・アイリス」の経営者の娘。高校中退の17歳。毎日ホテルの仕事を手伝っていたのですが、ある日客として訪れた翻訳家と商売女のいざこざを目撃し、女に命令する翻訳家に興味を持ちます。
・翻訳家
F島で一人暮らしのロシア語の翻訳家。初老ともいうべき年齢の男で、いつもウールの背広を着こんでいます。一見落ち着いた風体ですが、癇癪と暴力的な性癖を持っています。
・マリの母
「ホテル・アイリス」の経営者。夫と義理の父母を見送った後、女で1つでホテルを切り盛りしています。
小説『ホテル・アイリス』のあらすじとネタバレ
寂れた海沿いのリゾート地。そこで17歳のマリは、母親が経営するホテル・アイリスを手伝っていました。
夏のシーズンに入る少し前の雨の日のこと、そろそろレジに鍵を掛けてロビーの明かりを消そうとしたとき、階上で響き渡る女の悲鳴を聞きました。
「この変態野郎!」という声と共に202号室から女が飛び出してきました。
その女は、飛び出した拍子に踊り場に倒れ込みましたが、そのままの姿勢で202号室に向かってののしりの言葉を浴びせ続けます。
しわの目立つ首に髪が巻き付き、口紅が頬にまではみ出しています。ブラウスのボタンは外れたままで、ミニスカートからのびた太ももは薄桃色にほてって見えました。明らかに商売女でした。
女の言葉が途切れた途端、部屋の中から枕が投げつけられ、女の顔に命中します。
再び女は悲鳴をあげ、叫び声をあげますが、そのたびに容赦なく部屋から女の所持品と思われるものが飛んできました。
他のホテルの客たちも「なんの騒ぎだ?」とざわめき出し、経営者の母も出てきて「ちょとお客さん、困るじゃないですか。喧嘩なら外へ出てして下さいよ」と女に言います。
「わかったわよ。言われなくてもこんなとこ、さっさと出てってやるわ」
女が出ていこうとするので、母は払いのことを言いました。
「ちょっとあんた。払いはどうしてくれるんだい。どさくさに紛れてごまかそうったって、そうはいかないよ」
その時でした。
「黙れ、売女」という、深みのある太い声がしました。それは、一人の男が玄関のドアを開けたその女に向かって浴びせた言葉でした。
初老ともいうべき年ごろの男が、アイロンのかかった白いワイシャツにこげ茶色のズボンをはき、同じ生地の上着を手に持ち、立っています。
冷静で、堂々として、ゆるぎがない……。マリは、こんな美しい響きを持つ命令を聞いたことがないと思いました。
「じゃ、あんたが全部責任取ってくれるんだね。」
男に向かってまくしたてた母に、男は黙ったまま目を伏せてズボンのポケットから札をわしづかみにして、カウンターの上に置きました。
それから男は雨の中を遠ざかって行きました。
マリの母は「ホテル・アイリス」を経営しています。アイリスとは菖蒲のこと、それにギリシャ神話に出てくる虹の女神という意味もあるといいます。
マリが生まれた頃、5人家族で職場兼住居として「ホテル・アイリス」にいましたが、祖母が逝き、マリの父が続いてこの世を去り、2年前に祖父が病死し、現在は母が高校を中退したマリと2人でホテルを切り盛りしていました。
2週間ほどたった頃、マリは再びあの男を見かけます。
日曜日の午後、マリは母から頼まれた買い物をするために町を歩いていました。雑貨店で歯磨き粉を買う男の横顔を見て、あの男だとすぐにわかったのです。
マリは自分でもなぜあの男に魅かれるのか、わかりませんが、男の後をつけました。彼の発した一言が、耳に残っていて、あの命令の響きが、マリを彼に引き寄せたのです。
男は薬局などで買い物をしたあと、遊覧船乗場の待合室に入りました。船は沖合にあるF島を一周し、そこの桟橋に一度停まってから、30分ほどで戻ってくるのです。
今度は遊覧船かとマリが思ったとき、マリに気がついていたその男が声をかけてきました。「わたしに何か、ご用でも?」と。
「ホテルのお嬢さんですよね」「雑貨店にいる時からずっと気がついていました」
「あの時母が言ったことは気にしないでください」
マリと男はたどたどしい会話をしながら、その距離を縮めて行きました。
男は、ロシア文学の翻訳家で、小舟で少し渡ったF島で独りで暮らしていると言いました。
男と少しの間の会話を楽しみ、「さようなら」と別れた日、帰りが遅くなったことから母は怒っていました。
マリは帰りが遅くなった言い訳は、具合の悪くなったおばあさんの介抱をしていたと言い、夕食抜きという罰を受けました。
マリは器量よしで母の自慢の娘です。椿油のビンに櫛を浸し、それでマリの長い髪をシニヨンにまとめてゆくのが、母の毎日の仕事でもありました。
祖父の父が下宿屋を改装してホテルにしたのが、アイリスの始まりでした。もう100年も昔の話です。この町の高級ホテルの条件からはずれているアイリスですが、それなりにお客もいます。
祖父が死んだあと、母の言いつけ通りにマリは学校をやめてホテルの仕事を手伝っていました。昼間にパートのおばさんが来るだけで、あとは全部マリが朝から晩までホテル内の仕事をしていたのです。
一日中、ホテルで過ごすマリに、金曜日にれいの翻訳家から手紙が届きました。
そこには毎週日曜日、買い物のために町へ出るので、午後2時頃、中央広場の花時計の前で待っている、ということが書かれていました。
追伸として、名前を調べさせてもらったこと。偶然にも、自分が翻訳している小説に、マリーという名の主人公が出てくるということも。
次の日曜日、マリは午後2時に中央広場の花時計の前に行きました。
来てくれないかと思っていましたと嬉しそうな翻訳家とともに、マリは散歩をしながら途切れがちな会話を楽しみました。
35歳のときに結婚したけれど、3年で死に別れて、その後島へ越してきたことなどを、翻訳家から聞くことができ、束の間のデートは終わります。
その後も彼からの手紙はホテルに届きました。マリは届くその手紙を母に内緒で待ちわびるようになりました。
母たちとお昼を食べていた時に、評判の変人らしいと翻訳家の町での噂話を耳にした時も、マリは聞いてないふりをして過ごします。ですが、心中穏やかではありません。女にやらしいことをさせる? 何して暮らしているのかわからない? でもなぜか魅かれるのです。
そんなある日、翻訳家と町一番の高級レストランで昼食を一緒にする約束をしました。
もちろん、母には例の老婆と会うということにしています。マリは浮き浮きとおしゃれをして待ち合わせの場所に行きました。
小説『ホテル・アイリス』の感想と評価
小川洋子の作品と言えば、本屋大賞受賞し映画化された『博士の愛した数式』(2004)を思い出す人も多いのではないでしょうか。
ほかにも、『ミーナの行進』(2006)『人質の朗読会』(2011)『ことり』(2012)など、人と人との絆を温かく描いた著書が多い中、本作『ホテル・アイリス』は異色ともいえるでしょう。
本作はラブストーリーなのでしょうが、主人公のマリが快楽を得るのは、初老の男からの異常とも思えるSM愛です。
縄でぐるぐる巻きにされ、いたぶられ、お仕置きをされるという行為に快感を覚える、17歳の美少女マリ。
そもそもマリが男に魅かれたのも、男が発した命令口調の言葉でした。
自分に対して命令する男性に傅くことで快感すら覚える女性の存在に驚きます。マリ自身も自分の中にそんな要素があることを知り、なぜ男に魅かれるのかわからないまま、それでも一途に男との密会を続けます。
小説では、異常性欲者ともいえる男の過去や行為のきっかけなどを、男の人生を遡って探るようなことは何一つありません。
自らの不注意で妻を死なせてしまい、以来、一人で離れ小島で生活している初老の男。これだけの情報しかないなか、マリだけが男の心に触れ、その性癖までも愛してしまうのです。
妻が生きていた頃から、男にこんな性癖があったのかどうかもわかりませんが、17歳のマリにとっては、紛れもない初恋の相手だったのでしょう。
少女と初老の男。およそ不釣り合いな2人が織りなすSMの世界に、こんな愛もあるのかと驚く、大人の官能小説でした。
映画『ホテル・アイリス』の作品情報
【日本公開】
2021年(日本、台湾映画)
【原作】
小川洋子:『ホテル・アイリス』(幻冬舎文庫)
【監督】
奥原浩志
【キャスト】
永瀬正敏、陸夏、菜葉菜、寛一郎、リー・カンション(李康生)
まとめ
芥川賞作家・小川洋子の描く究極のエロティシズム! 小説『ホテル・アイリス』は大人の官能小説です。
初老の男が発する命令口調の言葉に痺れ、マリは男から言われるままに動いて快感を得ます。
誰もがもしかすると心の奥に持っているかもしれない、SMへの憧れをみごとに表現した小説と言えるでしょう。
その結末は悲劇でマリの将来も決して明るいものではありませんが、ろうそくのように揺らめく男との密会は、マリにとって紛れもなく本物の愛の時間だったのでしょう。
映画『ホテル・アイリス』は、2月18日(金)に東京の新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル池袋ほかで公開!