第20回東京フィルメックス「コンペティション」作品『波高(はこう)』
2019年にて記念すべき20回目を迎えた東京フィルメックス。令和初の開催となる今回も、アジアを中心に様々な映画が上映されました。
そのコンペティション部門にて出品された作品の一本が、パク・ジョンボム監督の映画『波高(はこう)』です。
本映画祭へのエントリーは、2011年の第12回『ムサン日記〜白い犬(Musanilgi)』(第12回)、2014年の『生きる(Alive)』(第15回)にひき続き本作で3回目となったジョンボム監督。
このたび、本映画祭の開催に際して来日したパク・ジョンボム監督にインタビュー取材を行いました。
映画『波高(はこう)』の制作に至る経緯から作品のテーマをどのように掘り下げていったのか、また作品に込めた宗教と道徳の関係性など、多岐にわたり映画の魅力を伺いました。
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テレビ放映から劇場公開へ
──はじめに、映画『波高』の制作経緯を教えてください。
パク・ジョンボム監督(以下、ジョンボム):本作の企画は、もともと僕自身によるものではなく、韓国ドラマを専門に扱っているケーブルチャンネルである「TVN」が企画したドラマ脚本に基づき、演出のオファーをいただいたものだったんです。
その際に「僕がこの企画と脚本を映像化するとしたら、完成する作品は“ドラマ”ではなく“映画”になりますが、大丈夫でしょうか?」と尋ねたんですが、TVNからも快く承諾を得られたので、以後はテレビ用映画として制作することになったのが出発点なんです。
本作は、テレビ用映画の放映尺として70分程度に編集したバージョンを一度テレビで放映しましたが、劇場公開に向けて再編集を行い、最終的には今回の東京フィルメックスでも上映された89分の映画となりました。
──本作には原作にあたる作品があるのでしょうか?
ジョンボム:本作の物語をはじめに執筆したのは、脚本家のキム・ミンギョンさんです。ただ草案や初稿はありましたが、ぼくの方でかなり脚色をさせていただきました。
もともとは島に働きに来た労働者たちと、その労働者たちを搾取する島民の関係性に焦点を当てていた物語に対し、新たな軸として加えたのが、島に出稼ぎのため訪れる男たち相手に行われるようになった少女たちの売買春のエピソードです。
“倫理観の欠如”の発端
──ジョンボム監督が本作を劇場公開用の映画へとブラッシュアップするにあたって、脚色におけるテーマ、作中へ追加された場面やニュアンスをもう少し具体的にお話しいただけますか?
ジョンボム:まず脚色した部分についてお話しすると、島やそこにある村全体を覆っている道徳に対する“不感症”、或いは“無感覚”を作品の中心に置くことに意識を集中させました。そして作品のテーマを“蔓延する倫理観の欠如”としたとき、「ではいったい、どこからそれは派生していくのだろうか?」と考え続けました。
当初浮かんでいたアイデアでは、「村の特権的な一部の人々が行動を起こす」といった展開、または「出稼ぎのため島に訪れた若い漁師たちの不満が暴発する」といった展開も考えていました。ですが、“倫理観の欠如”というテーマを掘り下げてゆき、思考を拡張させながら作品を練っていくうちに、「島全体、村全体が“無感覚”に出来事に関わっていたのでは?」という思いに至りました。
本作の劇中、若い娘イェウンを父親代わりに面倒をみてきたサンウンは、イェウンが巻き込まれていた男たちへの売買春の事実を知りながらも黙認していた。それは自分自身が思考の果てに辿り着いてしまった結論に基づいて描いたものです。
“倫理観の欠如”が蔓延する原因、その構造の発端へと辿り着いてしまったとき、思考を拡張し続け、テーマの構造全体を描こうと脚本に向き合っていた自分自身ですら、怖くなりました。それは現実の社会の出来事だと、まるでこの世界のどこかで起きていることだと、自分の中で実感を抱けてしまったからです。
“悪夢のような現実”から目を覚ます
──沿岸警察官であるヨンスの娘サンイが悪夢から目覚める場面から本作は始まります。また終盤、若い漁師が猟銃を手にして緊迫感の中で口論する場面でも、サンイは殴打され気を失った後に目覚めました。“夢”或いは“眠り”を繰り返し描いた真意は何でしょう?
ジョンボム:例えば、夢の中でイェウンとサンイのふたりが石を転がす遊びで戯れている様を劇中描きましたが、それは先ほどまで述べてきた、“倫理観の欠如”の全てが1つの“ハプニング”であったと暗示させるためです。島や村で起きた最悪は、本当は“ひとときの夢のような出来事”ではなかったのかという思いを表現したかったわけです。
それらの夢は、現実で実際に起きた事実である最悪に対し、「もしかしたら起きていなかったかもしれない」と思いたいサンイやイェウンの“望み”の様です。それと同時に、夢が夢である以上、やはりそれらの最悪は現実だと思い知らされる様でもある。その二重性を見せたかったのかもしれません。
イェウンを苦しめた状況は、どの世界でも起こり得る。どこにいても道徳に対する“不感症”や“無感覚”は起こり得るということを表面化させたかったという思いもありました。
また物語の終盤、気を失っていたサンイは目を覚ますことで、最悪を解決するための答えを見出しますよね。
──「(自分は)何分寝ていた?」と母親ヨンスに尋ね、大人たちが起こした最悪に自覚を抱く、まさしく“目覚めた”場面のことですね。
ジョンボム:おっしゃる通りです。そうして目を覚ましたサンイは姉のように慕うイェウンのもとへゆき、海を怖がり近づけない彼女に対し“泳ぎ方”を教えます。それはサンイが気づいた、イェウンにとっての“自身で最悪を解決する方法”であり、「“子ども”という存在だからこそ最悪を解決できる」ということを示すために、夢という仕掛けを用いたんです。
幼くして母親の都合のみで島にやって来たサンイは、全ての騒動を見守っていました。害獣であるイノシシ狩っていく島民たち、墓の前で倒れていく者、極限の状況下で暖を取るために紙幣を燃やす様など、これら全ての過程を純粋な眼差しで見守っていました。
その先にサンイが見出した答えは、彼女にとって唯一身近な存在だったイェウンが島から脱出することであり、自由になること。そして生きていく術を、自分自身で身につけなくてはならないこと。子どもである彼女がそれらに気づくんです。
一方で、子どもですら気づいたことを、大人たちの誰もが実践できていなかったという事実も、夢という潜在意識の中で共時性を得たのではないでしょうか。
作品に込めた“宗教”の意味
──本作ではキリスト教が色濃く描かれていましたが、ジョンボム監督ご自身はクリスチャンなのでしょうか?
ジョンボム:いえ、ぼく自身はあくまで仏教徒です。
制作してきた全ての映画で、ぼくは常に“宗教”を描いてきました。たとえば『ムサン日記〜白い犬』では聖歌隊が登場しますし、ある映画祭の支援を受けて制作した短編『一週間』(2001)では、韓国の仏教における宗教的行為であり、悔い改めるために108回礼を繰り返す「百八拝」を描いた場面が登場します。そして『波高(はこう)』ではキリスト教、その中でもカトリックというモチーフを登場させました。
ぼくは“信じる”という行為を意識するための“宗教”、或いは“神なる存在”は、人々が生きていく上で必要なものの一つであると感じています。「人間はどう生きていくべきか?」という問い、或いは人々の様々な願いを込められた祈りがある以上、ぼくたちの日常の中には、たとえ“神なる存在”を信じていなかったとしても、社会にはそれらにまつわる問題が存在すると考えているんです。
ですから、『波高(はこう)』におけるカトリックのモチーフで示したかったのは、“神なる存在”、“信じる”という行為の意味なんです。
ぼくは実際にロケ撮影を行った村で聞き取り調査をした際、「人口が減った島から神父が離島してしまった」という事実を知らされました。それは劇中の台詞でも触れられていますが、「非常に資本主義的でもあるな」「人口によって神父の必要性が決まるのは何となくおかしいな」とも感じていました。その一方で、村に暮らす人々がミサのために、映画でも登場する聖堂に集って礼拝をしたり、賛美歌を唄ったりしている様子は、『波高』の作品世界と通じていると実感できました。神父がいないからといって、神がいないというわけではないですからね。
また“信じる”という行為、“信仰”という行為自体が、他者を愛せるか否かにもつながっていくとも思うんです。劇中に登場する愛を失った人々にとっても、何より観客にとっても、宗教的な片鱗や“神なる存在”を意識させる場面は、やはり本作に必要不可欠なものだったと思います。
そしてイェウンは、“神なる存在”は愛しているけれども、皮肉にも自分自身は愛せずにいるわけです。そのような状況で、宗教というものがぼくらに投げかけるもの、“神なる存在”と対峙することへの問いも込められているのです。
欠けたものを問うために“映画”を作る
──「信じる」という行為も「愛する」という行為も、ある意味では目に見えない、曖昧にしか認識できないものです。また「映画」という現象も、形や質量が存在せず、観客の心象なくして認識できないものといえます。なぜ、ジョンボム監督は「映画」を信じ、愛せるのでしょうか?
ジョンボム:それは「ぼく自身はなぜ、映画を制作し続けているのか?」という問いでもあるとも感じましたが、ぼくが映画を制作するのは、絶えず自分の中で生まれる“欠乏”や“欠落”を埋めるためです。
愛に対する欠乏、幸せに対する欠乏といった、一生をかけても完全に解消することはできないかもしれないもの。それは誰の心の中にもあるものだと思います。
もう少し分かりやすく言い替えると、帝政ロシアの文豪レフ・トルストイは「人間は誰しも、自分の十字架を背負って生きている」といった言葉を遺しています。生きていく中で誰もが苦難や苦痛を味わっているけれど、そこから色々な解釈を見出すことで幸福へと向かおうとする。その道のりが人生なのではないかと思っています。
そして、生きていく中で失ってしまった何か、或いは失われつつある何かを、「映画」という形で表現する中で、改めて考えるきっかけを持ちたい。それが映画を制作する大きな理由でもあるのです。
インタビュー・撮影/出町光識
パク・ジョンボム監督のプロフィール
1976年生まれ、韓国・ソウル出身。短編映画を監督した後、イ・チャンドン監督作品『オアシス』(2002)『シークレット・サンシャイン』(2007)『ポエトリー アグネスの詩』(2010)に助監督として参加。
2010年には初の長編監督作となる『ムサン日記/白い犬』を発表。釜山映画祭ニュー・カレント賞、国際映画批評家連盟賞、ロッテルダム映画祭タイガー・アワードなど数多くの映画賞を受賞した。また2011年の東京フィルメックスでも審査員特別賞に輝きました。
本作『波高(はこう)』は全州映画祭でワールド・プレミア上映され、海外初の上映となったロカルノ映画祭では審査員特別賞を受賞しました。
映画『波高(はこう)』の作品情報
【上映】
2019年(韓国映画)
【監督】
パク・ジョンボム
【作品概要】
『ムサン日記〜白い犬』のパク・ジョンボムの監督第3作。過疎化が進む小島に赴任した女性警官の目を通して外界から閉ざされた村社会に生きる人々の間にうずまく欲望を鋭く抉り出した作品。ロカルノ映画祭では審査員特別賞を受賞した。
映画『波高(はこう)』のあらすじ
夫と別れた沿岸警察官のヨンスは幼い娘サンイとともに新たな赴任地である小島にやってきます。
若者たちが都会に出てしまい労働不足に苦しむ島は、本土から流れてくる訳ありの若者たちを受け入れていました。
ヨンスは村長が主催する歓迎会の宴会の裏で、島に住んでいる数少ない若い女性イェウンを見かけます。そして彼女が、島に出稼ぎに来た若者たちと性的な関係を持ち、金銭を得ている事実を目撃します。
ヨンスはイェウンを説得しそれを辞めさせようとしますが、その行動はこの島の根底に燻っている暗部を明らかにしてゆきます…。