映画『聖なる鹿殺し』は、ヨルゴス・ランティモス監督が観客のあなたに見せる“死のメタファー”。究極の選択を前に、あなたならどうしますか?
自尊心の強い心臓外科医のスティーブンは幸せに家庭とともに暮らしていましたが、彼には、妻アナと娘と息子に隠して密会する謎の少年がいました。
そんな16歳のマーティンを家に迎え入れたことで、日常が歪み始め崩壊していくことに…。
映画『聖なる鹿殺し』の作品情報
【公開】
2018年(イギリス・アイルランド映画合作)
【原題】
The Killing of a Sacred Deer
【脚本・監督】
ヨルゴス・ランティモス
【キャスト】
コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン、ラフィー・キャシディ、サニー・スリッチ、アリシア・シルバーストーン、ビル・キャンプ
【作品概要】
『籠の中の乙女』は第62回カンヌ国際映画祭にて「ある視点」部門のグランプリ。そして『ロブスター』で第68回カンヌ国際映画祭にて審査員賞を受賞したヨルゴス・ランティモス監督が、再びコリン・ファレルと第70回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したスリラー映画。
アナ役には第70回カンヌ国際映画祭で本作を含む出演4作品がエントリーされ「カンヌの女王」と呼ばれたのニコール・キッドマンが演じ、謎の少年マーティンを『ダンケルク』のバリー・コーガンで務めています。
映画『聖なる鹿殺し』のあらすじとネタバレ
切開した胸部で脈打つ心臓…。今日も完璧な手術を終えた心臓外科医のスティーブン。
自尊心の高い彼は同僚である麻酔医のマシューとともに、腕時計の防水加工の話などしながら時計の買い替え相談をしています。
アメリカのオハイオ州シンシナティ郊外の豪邸に住むスティーブンには、良妻賢母妻のアナと、その間に生まれた思春期の娘となったキムと、おしゃまでちょっぴり反抗期の息子ボブがいます。
スティーブン家族は、4人で何ひとつ不自由のない暮らしを過ごしていました。
しかし、スティーブンにはアナと子どもたちに内緒に隠していることがありました。
以前に執刀医を担当した際に亡くなった患者の遺族である16歳の青年マーティンと、病院内での面会は拒むものの、院外での奇妙な密会関係を続けていました。
スティーブンは自身が手術を行ったことで、マーティンの父親が命を落としたのではないかと、罪悪感を抱いています。
自尊心が人一倍高いスティーブンは、後ろめたさがあり、マーティンの精神的なケアに留まらず、腕時計のプレゼントや金銭も援助をしていました。
マーティンもスティーブンに感謝しながら、まるで頼り甲斐のある父親をのように好意を持っています。
ある日、スティーブンは自宅にマーティンを招待します。
妻アナ、娘キム、息子ボブは、マーティンの礼儀正しさや手土産の気遣いなど、人柄の良い青年を受け入れました。
なかでも初潮を迎えたキムは、マーティンに好奇心を抱き、恋心を抱き始めます。
それから数日後、スティーブン家族が外出する支度をしていると、ボブがベットに座ったまま、足が麻痺して動かなくなってしまいました。
はじめは息子の悪ふざけだと思っていたスティーブンですが、嘘ではない様子に慌ててボブを抱きかかえ、勤務する病院に自家用車で連れて行きます。
しかし、病院で専門的に検査を繰り返し行いますが、足の麻痺は原因は不明で、医療的な診断結果は健康そのままだという同僚の医師から判断が下されます。
また、マーティンはボブが入院したことをきっかけに、頻繁に病院に訪れるようになるとスティーブンの前に現れるようになりました。
マーティンは強引にスティーブンを自宅での食事に誘い、病院勤務を終えたスティーブンの帰宅前に、マーティンの自宅立ち寄らせます。
マーティンの母親の手作りの料理で食事を取った後、マーティンの父親が好きだった映画を見ることをしつこく強要してきます。
するとマーティンは眠くなったと映画の途中で自分の部屋で睡眠をとると、彼の母親はスティーブンと2人きりになった途端、肉体関係の誘惑を迫るなど、スティーブンの気持ちは聞き乱され、自宅に帰ってしまいます。
一向に息子ボブの奇病の原因不明と、まるで自分こそが息子でもあるようにマーティンが執着を見せる態度に嫌気がさしてスティーブンは、マーティンを拒絶。
ですが、マーティンのスティーブンに会いたいと連絡は収まる気配もなく、スティーブンに返事を迫ってきます。
ある日、病院にいたスティーブンの前にマーティンは心臓が痛い、病気ではないかと訪れました。
マーティンは機械で心電図検査などを行いましたが、彼の身体に病気の異常は見られません。
その後、マーティンは、カフェで待っていると強引にスティーブンを誘い出し、彼にプレゼントのサバイバルナイフを差し出します。
勤務に忙しく時間がないと厄介払いするスティーブンに、マーティンは父親の医療ミスで命を奪った事実の報いをスティーブンに受けてもらう告げます。
しかも、時間がないというスティーブンに合わせ、彼の家族を1人ずつ順番に報いを与えると、早口に語り出します。
1、手足のまひが起こる。
2、食欲不振の拒否が起こる。
3、目から出血の症状が見られる。
4、そして最後には死に至ると言うのです。
スティーブンはマーティンの予言を不気味に思いますが、信じることはなく、マーティンと完全に距離を置くようにします。
その後、マーティンの言葉の示したように息子ボブと続いて、娘キムの足が麻痺してしまいます。
2人は次の症状のステージである、食欲も一切とらないようになってしまいます。
映画『聖なる鹿殺し』の感想と評価
想像することの面白さと深さ
この作品の冒頭で示されるのは、黒味に音楽は流れされ、観客の間合いを外したタイミングで、直接的に見せられる動く心臓ショットです。
つまり、本作『聖なる鹿殺し』で扱う作品テーマが、“命=生きている様”であることを観客にマニフェストされます。
1929年のルイス・ブニュエル&サルバドール・ダリ監督の名作『アンダルシアの犬に登場する「目」を彷彿させる雰囲気とインパクトがあります。
その後、血だらけの手術用の手袋をゴミ箱に捨てるショットが、絶妙な尺(時間の長さ)で映し出されます。
ここで主人公の心臓外科医スティーブンは、彼が手を汚して“何かを捨てる”ストーリーだと示されます。
さらに、その後は、観客に少し不安感を与えるような病院の長い廊下を、医師スティーブンと同僚が歩きながら、防水加工の腕時計の話をします。
では、なぜ、時計の話をするのか。
それは時計は“時間という観念”のメタファーとして取ることができ、それをどちらが深くまで読み取ることができるのかを、防水加工が100メートルなのか、200メートルなのかで表しています。
しかも、腕時計にあるバンド部分が金属製か皮製のどちらが優れているかの優劣を示し、高級感や合理性といった価値の保有さを自尊心の強いスティーブンは語るのです。
もう、このような一連のヨルゴス・ランティモス監督の語り部としての演出力の高さと、台詞の魅力はかなり秀逸さと言え、本作の完成度は映画の冒頭から見て取ることができます。
そして、これらは本作『聖なる鹿殺し』の物語は、一つの方向に答えを出す映画ではないことも示されます。
映画を観た者が物語に散りばめられた様々なメタファー(隠喩)を解釈をして、物語の広さや深さを広げていくタイプの作品です。
そこで重要となるのが謎の少年マーティンの存在です。
マーティンの存在
心臓外科医で地位もあり、豪邸に4人家族で住むスティーブン役を演じたコリン・ファレル。
彼は知的な俳優で、役柄の性格や行動など、その心理状態を脚本から読み取り具体化することに優れた役者です。
スティーブン役の抑え気味なスレスレな演技を見せたことで、本当に実力派の俳優であることは、本作を見てもすぐに読み取ることができます。
また、その妻アナを演じたニコール・キッドマンも、スクリーンにいるだけでも存在力を強く、美しく示せる女優で、かつてのハリウッド女優のような風格を今の時代においても維持している数少ない俳優。
このコリンとニコールに負けず劣らず、本作『聖なる鹿殺し』では、マーティン役のバリー・コーガン才覚の証を放っています。
16才のマーティンのみ役柄で苗字がない設定で、父親を亡くし、町の北のはずれの小さい家に母親と暮らしており、煙草をやめることができず、犬が苦手。
物語のなかで、スティーブンの家族が住む豪邸に招待された際は礼儀正しいが、次第に父親を奪われたマーティンの復讐を開始する役柄です。
マーティン役を務めたバリー・コーガンは1992年10月17日生れ。アイルランドのダブリン出身の俳優です。
2014年に北アイルランドの紛争を描いた『ベルファスト71』に出演、2016年にマイケル・ファスベンダー主演の『アウトサイダーズ』にも出演しています。
また、2017年公開のクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』では、イギリス兵を救い出すため民間船に乗り込むジョージ役を記憶するファンも多いかもしれません。
今後、ランス・デイリー監督の『Black47(原題)』やバート・ライトン監督の『American Animals(原題)』などにも出演しているようです。
さて、この作品を理解する上で、“マーティン”という役柄が、彼自身の台詞にもあった「死のメタファー」ように、その存在そのものがメタファーであり、何かと読み取るかによって作品解釈は違ってきます。
医師の医療ミスによって父親を奪われた被害者の青年の復讐なのか?
それとも、自尊心の強いスティーブンに罪と罰を与えに、異界からやって来た呪術を使える神か悪魔で人間ではないのか?
また、スティーブンの罪悪感の幻覚?あるいは、スティーブンの多重人格の一面?
それとも単なる父親を亡くしたマーティン自身の夢(幻想)の話なのか?
このような多様な作品の読み方の解釈によって、物語の広さや深さは観客それぞれによって異なっていくでしょう。
スティーブン役を演じたコリン・ファレルも映画のテーマを即答で「わからない」としながら、脚本を読んだ際の印象について、卑劣な奴ばかりが登場するとか、吐き気感じたとまで言っています。
これは作品の巧みさを揚げていることで、コリンは監督を天才と呼び、ヨルゴス・ランティモス監督とエフティミス・フィリップの書いた脚本に翻弄されたことを述べています。
またニコール・キッドマンも「これはどういうこと?あれは何だったの?」と見終わった後、夫とベットに入ってまで長く作品の解釈を語り合ったそうです。
しかし、コリンは作品のテーマは、マーティンによって表現されていることは、明確に指摘してい
最重要なのは「父と息子」
ヨルゴス・ランティモス監督は共同脚本の作業について、しょっちゅう作業変更があり、出発点とは違ったモノになっていくとしながらも、その変化について、このように述べています。
「父親を亡くした少年が出発点だった。父親の手術を担当した医師にその結果の責任があると考えている。少年は正しいことをのために落とし前をつけたいんだ。それから、未知の力の要素が盛り込まれ、さらに複雑な構造になっていた。人間の性がどんどん暴かれていくために登場人物にプレッシャーをかけた。つまり人があり得ない選択をしなければいけなくなる状況を設定した。全てを追い込んでいったんだ」
このように語っていることから、本作『聖なる鹿殺し』は、「父と息子」という出発点から始まっており、映画の物語にも台詞や行動でによって父子関係を色濃く描いています。
マーティンの父の死への執着と復讐の思いの他にも、脇毛に象徴されるように成長することでの父親とに比較、スティーブンが息子ボブに懺悔するスティーブンの父親の逸話、息子ボブの生贄の死など、いくつもその要素を見つけ出すことができます。
また、映画の舞台をアメリカのオハイオ州にしたことも大きな理由があります。
ヨルゴス監督はアメリカで撮影した理由について、このように語っています。
「脚本を書き終わった後、考え始めた。「この映画を撮影するのに、1番良い場所はどこだろう?」って。それでこのテーマゆえにとてもアメリカ的な映画だと思ったんだ。それから、僕がよく知っている分野についての会話なんかも、僕にとってはアメリカ映画であることに合点にがいったんだよ。医療システムでさえね」
「テーマゆえにとてもアメリカ的な映画だ」とは、「父と息子のあり方」の映画を好んで製作するハリウッド映画のことを述べているのでしょう。
“父親越えを通過儀礼とするアメリカ映画”の特徴は、エディプスコンプレックスと表され、ジークムント・フロイトが提示した精神分析の概念にあるは、息子が男として無意識的葛藤する要素を見ることができます。
また、今なおアメリカ映画の多くの映画の物語のシノプシスの太い骨格となり、そのようなエディプスコンプレックスに支配された映画を量産しています。
そういった意味で、本作『聖なる鹿殺し』を理解する上では、観客はマーティンを中心に読み取ることが最も重要なことです。
作品に見られる類似要素からギリシャ神話の「アウリスのイビゲネイア」と似た部分は指摘できても、それを映画化しようとして始まった企画ではないので、「息子と父親」で読み取る方が作品の物語は深く読み取れるはずです。
例えば、息子(本作でいう擬似的にマーティン、あるいは本当の息子ボブ)は、母親(ボブの場合アナ)を手に入れたいという恋愛に似たモノを持つと、父親(スティーブン)のような立ち位置につきたくなります。
息子(マーティン、ボブ)は父親(スティーブン)のような強くて偉大な男性になろうとして、同一化を望みます。
そのようになると息子(マーティン、ボブ)は次第に父親(スティーブン)を排除したいと思うようになります。
ですが、スティーブンという父親は、マーティンやボブにとって“絶対的な存在であるので父親の強さ”を様々な面から優位性を見せます。
しかし、この作品ではご存知の通り、マーティンは父親的といえる絶対的強者に成り替わります。
そこに恐怖したスティーブンは、自尊心の高いはずなのにスティーブンは父親から息子化してしまうのです。
また、ヨルゴス・ランティモス監督は本作の脚本の台詞に、上手に「父と息子」の関係を示した台詞を忍び込ませています。
あまりに巧みで、カンヌ国際映画祭脚本賞も大いに頷けます。
息子ボブに秘密を語り合おうというスティーブンの懺悔のほかにも、最も秀逸なのは、ニコール演じるアナを前にバリー演じるマーティンが、自分の父親と似た癖や異なる才能を見出したことを語るシーンです。
スパゲティを巻きながら、アナの心をパスタとともに絡め取り、まるで暗示にかけるあの台詞と演技は絶品。
マーティンはクチャクチャとパスタを食べずに弄ぶのは、父親的存在感の体現そのものです。
さらには、サスペンスの神様アルフレッド・ヒッチコック監督をいとも簡単に、映画的文法な観点からも、エディプスコンプレックスの父親越え(神様超え)した、映画史に残るような名場面と言えるでしょう。
この映画を見なす際には、「父と息子」に注目ですよ!
まとめ
本作『聖なる鹿殺し』は脚本のほかにも見どころが詰まっています。それはキャストとスタッフ一同がシンフォニーに奏でるような役割を果たしているからです。
撮影監督のティミオス・バカタキスの広角レンズによる室内撮影の部屋や人の歪みによる不安感の増量の徹底的な挑戦は特出したものです。また、不安感は移動撮影やズーム撮影による効果も活かし、とても力量を見せつけるものでした。
それを時間尺を制御しなながら編集担当のヨルゴス・マブロプサリディスも見事な手腕。
ショット内にフレーム・インするあらゆるモノの写り込みの前後のカット繋ぎに違和感がなく、スローモーションも活かされ、空間の広がりを見せておきながら、登場人物のクローズ・アップのショットをインサートも素晴らしいものでした。
ジョニー・バーンの音響は、この作品を見れば、音が画面以上の主張をしているにも関わらず、全く違和感を観ている者に感じさせず、不快感や不安を煽ってくれます。
ニコール・キッドマンの夫である歌手のキース・アーバンが、素晴らしいジャスを聞いているような映画だと言った評価は、音響効果の成功ゆえのことでしょう。
前作『ロブスター』や監督2作目の『籠の中の乙女』などでも、物語の広さや深さ、多様さという読み抜く面白さを味わせてくれたヨルゴス・ランティモス監督。
親友であろうコリン・ファレルの言うように、“天才”と言わしめたように、“天才のメタファー”はヨルゴスにあるのでしょうね。
映画『聖なる鹿殺し』は、映画館で観るべきオススメの傑作です!