映画『孤独なふりした世界で』はHTC渋谷&シネ・リーブル梅田「未体験ゾーンの映画たち2019」にて2019年4月5日より公開
人気の俳優ピーター・ディンクレイジと女優エル・ファニングの起用でも話題にもなった、リード・モラーノ監督の映画『孤独なふりした世界で』です。
人類の大半が死滅してしまった終末の世界で、孤独に生きてきた男が孤独を嫌う女性と偶然出会い、そこから展開されてゆく物語を描いたラブストーリー・タッチのSF映画です。
映画『孤独なふりした世界で』をご紹介します。
映画『孤独なふりした世界で』の作品情報
【日本公開】
2019年(アメリカ映画)
【原題】
I Think We’re Alone Now
【監督】
リード・モラーノ
【脚本】
マイク・マコウスキー
【キャスト】
ピーター・ディンクレイジ、エル・ファニング、ポール・ジアマッティ、シャルロット・ゲンズブール
【作品概要】
人類が滅びつつある終末の世界、町唯一の生存者として孤独なサバイバル生活を送っていた男の元に一人の少女が現れ、二人きりの生存者として共同生活を送る中で物語が進んでゆくSF映画です。
監督には、エミー賞作品賞を受賞した人気ドラマ『ハンドメイズ・テイル 侍女の物語』シリーズの演出なども手がけるリード・モラーノ。
孤独に生きる小人症の主人公デルを演じたのは、人気ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』シリーズでエミー賞助演男優賞(三度受賞)、ゴールデングローブ賞助演男優賞を獲得し、デルと同じく小人症である俳優のピーター・ディンクレイジ。
そしてデルが偶然出会った少女グレースを演じたのは、『SUPER8/スーパーエイト』でその演技力が高く評価され、『ネオン・デーモン』では主演を務めた若き実力派女優であるエル・ファニング。
さらに、『サイドウェイ』『シンデレラマン』のポール・ジアマッティ、『ブッシュ・ド・ノエル』『アンチクライスト』のシャルロット・ゲンズブールと豪華なキャストが揃いました。
本作は、2018年に開催された第34回サンダンス映画祭にて審査員賞を受賞しました。
映画『孤独なふりした世界で』のあらすじとネタバレ
人類の大半が死滅し、すでに滅びつつある世界。アメリカのとある町で、小人症の男デルは孤独なサバイバル生活を送っていました。
町に建つ家々を順番に探索して物資を調達しながら、室内を消毒し、そこに放置されている住民らの遺体も運び出して埋葬する。
また探索の際には、かつて働いていた図書館所蔵の本、そして死んでしまった住民らが映されている写真も回収し、図書館でそれぞれ整理してゆく。
それらの作業は、無人となった町でひとり暮らすデルにとって、仕事のようなものとなっていました。
ある朝デルは、自動車の運転で事故を起こしてそのまま意識を失っていた少女グレースと出会います。
彼は彼女の手当てをしたものの、グレースが目を覚ますとすぐこの町から立ち去るように告げます。けれども、彼女は町を立ち去ることなく、デルと行動を共にするようになります。
やがて、デル曰く「お試し期間」として、二人の共同生活は始まりました。自由奔放なグレースによって、デルの生活から以前の静けさは失われ、賑やかなものへと変わってゆきます。
しかしながら、グレースが保護し図書館内で飼い始めた犬を黙って逃してしまったことをきっかけに、二人の関係には亀裂が生じます。
グレースは「あの時」の記憶について触れながら、「あなたには誰もいない」「私にはみんながいた」とデルの生き方を非難します。
その翌日、デルはとある家に向かいます。そこでグレースとその家族らしき人物らが映っている写真を見つけたところで、グレースがやって来ます。
何をしていたのかというグレースの問いに答えることなく、デルは自身が植物を栽培しているビニールハウスへと彼女を連れてゆきます。
彼は植物の生育・管理を任せたいこと、住民らの遺体の埋葬を今後も手伝ってほしいことをグレースに頼みました。その頼みを彼女は了承したことで、二人の共同生活は再開されました。
再び始まった共同生活の中で、デルとグレースの関係はより親密なものとなり、デルの生き方にも変化が現れつつありました。
映画『孤独なふりした世界で』の感想と評価
本作の劇中には、アナログ・デジタルを問わず、数多くの記録メディアが登場します。
映画や音楽がデジタルデータとして記録されていたPCや音楽プレーヤー、ある家を探索している途中で見つけたレコード、図書館の収蔵資料でもある本や映画フィルムなどがそうです。
何よりも忘れてはならない記録メディアが、主人公デルが探索において常に回収していた、死んでしまった町の住民らが映っている大量の写真です。
本作の中盤、犬を巡る事件でデルと仲違いしてしまったグレースは、「あの時」の記憶について触れる前に、偶然図書館内で見つけていたそれらを彼に突きつけます。
写真を回収し整理するという彼の行為に対し、グレースは「貴方にとっては物と同じ」と罵ります。デルにとって、写真に映っている住民らは「同じ町で共に暮らしていた人間」ではなく、ただの「資料に関する情報の一部」でしかないのだと彼女は感じたのです。
確かに、デルはかつて図書館で働いていた人間であり、資料を収集・整理し、保存・管理し、研究・公開することを仕事とする人間でした。
しかし、彼にとって、写真に映っている住民らはグレースの言う通り「物と同じ」なのでしょうか。
劇中、デルはかつて自身が暮らしていた家を探索することも、そこに放置されている「誰か」の遺体を埋葬することを避けていました。そしてグレースの後押しによって何とか埋葬を終えた後、彼は「あの時」の記憶をグレースに語ります。
校庭で遊んでいた子供たちが倒れていく光景。それがデルにとっての「あの時」の記憶でした。グレースのような肉親の死ではなく、町の住民の死を、彼は覚えていたのです。
また物語の後半、デルが回収し続けてきた写真を見ながら町の住民らについて回顧する場面では、彼が住民一人一人の名前やその家族、町ではどんな仕事をしていたのかまでも記憶していることが明らかになります。そして回顧するデルの眼には、涙が溜まっていました。
それらの場面を観れば、彼が誰よりも他者の死に対して敏感な人間であることは理解できるでしょう。そして、そんな人間である彼が写真を回収していたのは、決して「重要な資料だから」という理由だけではないのは明らかです。
彼は、「あの時」以前に務めていた図書館職員としての職務やポリシーを全うしつつも、かつて町で生きていた人々のことを忘れないようにするために、写真を回収し続けていたのです。
「現在」の孤独をささやかに楽しみながら、それでも「過去」を、すなわち「死者にまつわる記憶」を忘れられない。そしてそれらを忘れてしまうことを拒み、できうる限り、「ここ」に留めようと試みる。彼のそんな姿は、記録メディアが存在する意味、過去を記録する意味と重なります。
物語の終盤、パトリックは「人間の感情を抑制する技術」が作り出す理想の町について、そこでは「過去に生きなくていい」「何も思い出さなくていい」と語ります。そうすることで、「未来」へと進むことができるのだと考えているのです。
しかしながら、過去が存在しない未来など、存在するはずがありません。
過去という時間の延長線上にこそ、未来という時間が存在します。或いは、未来を作り出すのは人間であり、その人間の精神は、無数に散らばっている過去の断片を継ぎ接ぎして構成されているからとも考えられます。どちらにせよ、過去の存在しない未来など「虚構」と変わりません。
過去を、死者にまつわる記憶を、苦痛にもがきながらも受け入れ、現在に生きる自身を構成する糧とする。そうすることで、未来という時間は初めて作り出せるのです。
映画『孤独なふりした世界で』は、孤独に、しかし「記録者」として生きるデルの姿を通して、「忘れてはいけない」という、非常に単純で、非常に誠実な過去への向き合い方を観客たちに示してくれたのです。
まとめ
観客は勿論、全ての人間は記録者になる機会があります。それは人間が不老不死の生物になったとしても、他者と関わりを持とうする限り、なくなることはないでしょう。
そして「多くの死が生み出された大災害が発生した後の世界」という本作の舞台設定も、現実の世界、或いは現実の日本で生きる人間にとって、決して現実離れした代物ではありません。
「多くの死が生み出された大災害が発生した後の世界」が到来し、記録者となる機会が訪れた時、苦痛に苛まれ、涙を流しながらもその責任を背負い受けるべきなのか。それとも、苦痛に耐えることを拒み、その責任から逃避してしまうべきなのか。
その答えを、映画『孤独なふりした世界で』で知ることができます。
映画『孤独なふりした世界で』、ぜひご鑑賞ください。