映画『冬時間のパリ』は2019年12月20日(金)より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー!
現在のフランス映画界を担う映画監督の一人、オリヴィエ・アサイヤス監督。
2008年の『夏時間の庭』、2015年の『アクトレス 女たちの舞台』など数々の作品を発表し、クリステン・スチュワートが主演を務めた2016年の映画『パーソナル・ショッパー』では、第69回カンヌ国際映画祭・コンペティション部門にて監督賞を受賞しました。
“台湾ニューシネマ”を代表する映画監督ホウ・シャオシェンを描いたドキュメンタリー『HHH:候孝賢』をはじめ、アジア映画に関する造詣の深さでも知られているアサイヤス監督。さらに彼の監督作『冬時間のパリ』も、2019年12月20日(金)に日本での劇場公開を迎えました。
このたび『冬時間のパリ』の日本での劇場公開、『HHH:候孝賢』デジタルリマスター版の第20回東京フィルメックスでの上映に向けての来日を記念し、オリヴィエ・アサイヤス監督にインタビューを行いました。
ホウ・シャオシェン監督との出会いと映画制作を通じての“対話”、『冬時間のパリ』で描こうとした主題と構造、現在そして今後の映画制作に対する思いなど、貴重なお話を伺いました。
CONTENTS
ホウ・シャオシェン(候孝賢)監督との出会い
ホウ・シャオシェン監督
──このたび第20回東京フィルメックスにて上映された『HHH:候孝賢』ですが、そもそもアサイヤス監督はホウ・シャオシェン監督とどのようにして出会われたのでしょうか?
オリヴィエ・アサイヤス監督(以下、アサイヤス):ホウ・シャオシェンと私の出会いは、1984年の台北にまで遡ります。当時は台北に訪れる外国人ジャーナリストは決して多くなかった時代でしたが、私はその頃に台北へと訪れた、数少ない外国人ジャーナリストの一人だったと感じています。
実は私に台北に訪れることを勧めてくれたのは、当時チャイナタウンで映画批評家として活躍していたチェン・クォフーだったんです。当時の私は、映画批評家兼編集者として携わっていた「カイエ・デュ・シネマ」(※1)での「香港映画」特集に向け、取材のために偶然香港へ訪れていました。ですが、台湾ひいては台北で新たな映画が生まれているなんてことは、全く知りませんでした。その中で、私はチェン・クォフーの「ぜひ台湾映画を発見すべきだ」という強い勧めを受けて台北に訪れ、そこで“台湾ニューシネマ”を代表する映画監督たちの存在を知ったんです。
それが1984年初頭の頃だったんですが、その頃にはすでにホウ・シャオシェンは『風櫃の少年』(1983)を撮っていました。また“台湾ニューシネマ”のもう一人の重要な作家であるエドワード・ヤン(楊德昌)も『海辺の一日』(1983)をすでに手がけており、同作には撮影監督としてクリストファー・ドイルが、プロデューサー兼主演女優としてシルヴィア・チャンが参加していました。
台湾という場所でこれほど素晴らしい映画監督たちが活動しているという事実は、当時の私にとって衝撃的な出来事でした。特にホウ・シャオシェンの現在では“初期”と呼ばれる監督作を初めて目にした時には、「これは中国映画・台湾映画の歴史上に残る作品だ」と確信したことを覚えています。彼の初期監督作に1984年の時点で出会えたのは私にとって重要なことであり、その2年後に初の長編『無秩序』(1986)を発表しましたが、彼から影響を受けた点は非常に多いですね。
ホウ・シャオシェンと私の友情はその時から始まり、さまざまな映画を通じてのダイアログ、つまり“対話”が現在まで続いていったわけです。
※1:「カイエ・デュ・シネマ」……映画批評家アンドレ・バザンらによって1951年に創刊されたフランスの映画批評誌。初代編集長でもあるバザンが“作家主義”を提唱した場であり、同時にエリック・ロメール、ジャン=リュック・ゴダール、クロード・シャブロル、フランソワ・トリュフォーなど、当時は映画批評家として活動、のちに“ヌーヴェルヴァーグ”を代表する作家となった映画監督たちを生み出した場としても知られている。
『HHH:候孝賢』制作を通じての“対話”
──そのようなホウ・シャオシェン監督との衝撃的な出会いを経た上で、アサイヤス監督が“映画監督ホウ・シャオシェンのポートレート”として『HHH:候孝賢』を制作しようと思われた決め手とは何でしょう?
アサイヤス:やはり、一人の人間として、或いは一人のアーティストとして、私自身が彼と非常に親しい関係にあった点は大きいですね。それゆえに、何かしらの学術的なアプローチではなく、非常にパーソナルなアプローチでもって“映画監督ホウ・シャオシェン”を撮れると感じたんです。
彼と初めて出会った時の私はあくまでまだ「映画批評家」であり、先ほどお伝えした通り1986年に初の長編作品『無秩序』を発表したことで私は「映画監督」となりました。そして『HHH:候孝賢』のように、それぞれが手がけた映画作品を通じて、私たちは対話を続けたんです。
また『HHH:候孝賢』の撮影時には、“ホウ・シャオシェン”という映画監督が映画制作における一つ一つのステップをどう歩んでゆくのかを知ることができました。どのような形で小説家など他の表現者たちとコラボレートしているのか、どのような文脈の中で彼が個々の映画を制作しているのかを詳細に見ることができたわけです。
そしてそれまでに育んできた彼との友情、私自身のアーティストとしての視点の双方があったからこそ、『HHH:候孝賢』を単なる「映画監督についてのドキュメンタリー」にしたくはなく、作中で直接的に描かれることはないものの、私とホウ・シャオシェンが積み上げてきた対話を大切に扱ってゆきました。
ここで重要なのは、この作品を制作した当時のホウ・シャオシェンは、まだそれほど有名ではなかったという点です。例えば彼の初期を代表する作品の一本である『童年往事 時の流れ』(製作:1985)も当時のフランスでは未公開でしたし、『悲情城市』(製作:1989)も本当にわずかな映画館でしか公開されていなかったんです。
少なくとも、当時のフランスの映画批評家たちは、真にホウ・シャオシェンの作品を理解する力をやはり持っていなかったと感じています。その理由には、ホウ・シャオシェンという監督がどういう人間であり、どういう出自をもって素晴らしい作品を制作しているのかが、フランスの映画批評家たちには届いていなかったからでもあるんです。ですから、『HHH:候孝賢』を通じて彼の人間性や過去を映し出すことで、より深く、彼の監督作を理解する手立てになったのではと思っています。
“試論”にして“喜劇”の『冬時間のパリ』
──先ほど“対話”という言葉が出てきましたが、2019年12月20日に日本での劇場公開を迎えた『冬時間のパリ』もまた、まさしく“対話”にまつわる映画でした。同作はどのような主題と構造をもって制作を進められたのでしょうか?
アサイヤス:『Doubles vies』(フランス語で「二重の人生」)という原題を持つ本作ですが、実は元々、一つのアイディアを提示するための作品だったんです。
現在、デジタル革命は発展の一途を辿り、あらゆる分野でのデジタル化が個人個人の生活、或いは感情大きな影響を及ぼしている。そのことを語りたいと考えていたんです。さらに“語り”の舞台として、伝統的な文化の中心であったはずの文学及び出版という業界、それもデジタル化の進行によって伝統や意義そのものが揺らぎかけている現在の業界を描いたわけです。
また私の興味と関心はそのアイディアのみならず、これまでの作品でも描き続けてきた“人間の感情”にも向けられていました。そのため『冬時間のパリ』という作品は、デジタル化が進みゆく原題社会に翻弄される人々に関する一本のエッセー、すなわち“試論”であると同時に、自身らの感情に翻弄される人々を描いた“喜劇”という二つの構造をもっているんです。
デジタル化と変わりゆく恋愛観
──『冬時間のパリ』は結婚生活と不倫生活という二重の生活を通じて、“恋”と“愛”の違い、或いはその先にある“恋愛”の意味が描かれていました。
アサイヤス:フランスでは必ずしも婚外関係というものが一般化しているわけではないんですが、かといってこのような二重の生活が珍しいというわけでもありません。
そもそも“他者に対する欲望”を結婚相手以外の人間に対して抱くこと自体は、十分にあり得ることだと私は考えています。またある種の文化やジャンルが形成されるほどに、そのような状況に陥る人々の姿をこれまで多くの作品が描き続けてきましたが、私自身はそれを軽やかに捉えたいと思っているんです。
映画のみならず、様々な表現作品が婚外関係または不倫というものを深刻に、ドラマチックに描きがちです。けれど私は、ただ悲愴感や背徳感を漂わせるのではなく、人間の生き方の一つ、表現の仕方の一つとして、人間の感情をより軽やかに、自由なトーンでもって描きたかったんです。
──また結婚/不倫という二重の生活を成立させていた重要なツールとして、「インターネットの世界」というデジタル化が生み出した新たなる世界も描かれています。
アサイヤス:デジタル化がもたらしたツールとの関係性の変化は、“愛情”をはじめ、人間同士の感情の関係性にも変化という影響を及ぼしています。それゆえに、人間の日常生活における生き方にも変化をもたらしているわけです。
やはり「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」など、それまで行動化されていたはずの人間の感情の関係性が次々にリニューアルされ続けている気がします。そして、現代社会における様々な事象の原因であり結果でもある“他者に対する欲望”に関する感情が、それが良いことなのか悪いことなのかは別にしても、デジタルツールの発展に今もなお影響を受け続けているのは確かでしょう。
映画の“立ち位置”を問われる時代で
──アサイヤス監督からみて、全てがデジタル化されてゆく現在の世界において、映画はどのような存在なのか。そして、今後はどのような変化を遂げてゆくのかを教えていただけませんか。
アサイヤス:現在の映画は、“もう一つの映像作品”として存在するテレビシリーズの影響を非常に受けざるを得ない時代になっています。また、プレッシャーも強まりつつある。僕自身がそうであったように、映画監督に対する「テレビシリーズで作品を制作しないか」というオファーが増え続けているわけです。
私自身は「テレビシリーズでは絶対撮らない!」と考えているわけではないですが、“シリーズもの”が隆盛を誇っている現在、それらに歩み寄ってゆくべきか否かなど、映画の“立ち位置”というものが問われている時代が“今”なのだと捉えています。
また“シリーズもの”の隆盛はテレビシリーズの世界のみならず、映画に関しても同様の状況が続いています。例えばある一本の映画が大ヒットを記録すると、続編や過去編、或いはサイドストーリーや人気キャラクターなどのスピンオフ作品が制作されるなど、一本の映画に付随するような形で続々と作品が生まれていく。そういった“シリーズもの”としての映画制作が、現在の映画業界の一大潮流として成立しているわけです。
私自身はそうではなく、これまでの伝統的・古典的な映画制作を、その“立ち位置”を問われている今だからこそやっていくべきではないかと考えています。この取材によって、それを確信できたかもしれません。
インタビュー/出町光識
撮影・構成/河合のび
オリヴィエ・アサイヤス監督のプロフィール
1955年1月25日生まれ、フランス・パリ出身。
画家・グラフィックデザイナーとしてキャリアをスタート。フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の編集者として文化とテクノロジーのグローバル化への興味を追求しながらも、やがて自身の手で短編映画の制作を開始する。
初の長編『無秩序』(1986)がヴェネツィア国際映画祭で国際批評家週間賞を受賞。これまで、世界的な認知をもたらす、豊かで多様な作品を一貫して発表してきた。2008年の『夏時間の庭』はニューヨークタイムズ紙「21世紀の映画暫定ベスト25」に選ばれている。また、映画に関するエッセイ、ケネス・アンガーの伝記、イングマール・ベルイマンとの対談を含む数冊の本も出版している。
映画『冬時間のパリ』の作品情報
【日本公開】
2019年(フランス映画)
【原題】
Doubles vies
【監督】
オリヴィエ・アサイヤス
【キャスト】
ギョーム・カネ、ジュリエット・ビノシュ、バンサン・マケーニュ、ノラ・ハムザウィ、クリスタ・テレ、パスカル・グレゴリー、ロラン・ポワトルノー、シグリッド・ブアジズ、リオネル・ドレー、アントワン・ライナルツ、ニコラ・ブショー、オレリア・プティ、オリビア・ロス
【作品概要】
『夏時間の庭』『アクトレス 女たちの舞台』『パーソナル・ショッパー』で知られるフランス映画界の名匠オリヴィエ・アサイヤス監督が、エリック・ロメール監督の『木と市長と文化会館/または七つの偶然』とデジタル化が進みゆく現代社会から着想を得て描いた恋愛ドラマ。
主人公の敏腕編集者アランを演じたのは、『ザ・ビーチ』『シンク・オア・スイム イチかバチか俺たちの夢』で知られ、女優マリオン・コティヤールの夫でもある俳優のギョーム・カネ。
またアランの妻であり女優のセレナ役は、『ポンヌフの恋人』『トリコロール/青の愛』『イングリッシュ・ペイシェント』『トスカーナの贋作』と数々の作品で賞を獲得した女優ジュリエット・ビノシュが務めました。
映画『冬時間のパリ』のあらすじ
敏腕編集者のアラン(ギョーム・カネ)は電子書籍ブームが押し寄せる中、なんとか時代に順応しようと努力していた。
そんな中、作家で友人のレオナール(ヴァンサン・マケーニュ)から、不倫をテーマにした新作の相談を受ける。内心、彼の作風を古臭いと感じているアランだが、女優の妻・セレナ(ジュリエット・ビノシュ)の意見は正反対だった。
そもそも最近、二人の仲は上手くいっていない。アランは年下のデジタル担当と不倫中で、セレナの方もレオナールの妻で政治家秘書のヴァレリー(ノラ・ハムザウィ)に内緒で、彼と秘密の関係を結んでいたのだ……。
映画『冬時間のパリ』は2019年12月20日(金)より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー!