ドキュメンタリー映画『蹴る』を制作した中村和彦監督インタビュー
電動車椅子サッカーの世界を映し出した中村和彦監督のドキュメンタリー映画『蹴る』。
2016年4月に一般社団法人日本障害者サッカー連盟(JIFF)が設立され、元Jリーガーの 北澤豪が会長に就任しています。
障害者サッカーには、アンプティサッカー、CPサッカー(脳性麻痺)、ソーシャルフットボール、知的障害者サッカー、聴覚障害者サッカー、ブラインドサッカー、電動車椅子サッカーの合計7つの団体があります。
中村和彦監督は、知的障害者サッカーのW杯を描いた『プライドin ブルー』、聴覚障害者サッカー女子日本代表を描いた『アイ・コンタクト』に続き、重度の障がいを抱えながらもワールドカップ出場に全力で挑む選手たちを、6年以上に渡り撮影しました。
CONTENTS
映画『蹴る』を製作した経緯
──作品を撮るに至った経緯についてお聞かせください。
中村和彦監督(以下、中村)2011年は電動車椅サッカーのW杯の開催年で、日本代表の強化試合を見に行きました。
当初は日本代表の選手に注目していたのですが、相手チームにいた永岡真理さんにだんだん目が奪われていきました。
ちょっと大げさかもしれませんが「炎が背後に見えた」。それがちょうど、2011年、なでしこジャパンが世界一になった前の日のことでした。
もう一つ理由があって、前作『アイ・コンタクト』で聴覚障害者サッカーの女子の日本代表のドキュメンタリー映画を撮っていて、電動車椅子サッカーは女子チームはないのですが、彼女は必ず日本代表に選ばれるだろうとピンときて、4年間取材をさせて欲しいとオファーしました。(*電動車椅子サッカーは男女混合でプレーする)
「もう一人のなでしこ」永岡真理選手
──永岡さんに取材についてお話をした時の反応はいかがでしたか?
中村:彼女はその時大学三年生、20歳でした。次のW杯までの4年間取材をさせて欲しいと依頼したときは、わりとスムーズにOKが出たのですが、本来は撮影されたりするのは苦手だったと後で聞きました。
最初はそこまで大掛かりなこととは思っていなかったのですが、徐々に時間が経つに連れて彼女自身の中でも電動車椅子サッカーや病気(脊髄性筋萎縮症)のことを知って欲しいという気持ちが強くなってきたみたいです。
実際には、W杯が2年間延期されたことによって、6年間取材することになりました。
──永岡さんに惚れ込んだということですが、監督自身はどのように撮っていこうと思っていたのでしょうか?
中村:彼女だけの映画を撮るというよりは、彼女を中心として撮るということとW杯まで撮る、という2つだけを決めて始めました。
4年間、結果的に6年間ずっとつきっきりというわけではなくて。だいたい週に1回、練習風景を撮りに行くようにしていました。
カメラは毎回持っていくんですが、必ずカメラを回すわけじゃなく、全く撮らない時もありました。その他にも自宅に行って話を聞いたり、デートのシーンは、ある程度信頼関係ができた上で、事前に交渉して撮らせてもらいました。
あとで永岡さんに「少しは使うんだろうな」と思っていたけれど、あんなに使われると思わなかって言われました。
6年間にも及ぶ撮影期間
──結果的に6年間撮影したことで、かなり膨大な記録だったと思います。
中村:障害に関することもありますけれど、スポーツだけではない日常を盛り込んだ映画にしようと思っていました。
実際に撮影し始めると、誰と誰が付き合っている、というのが頻繁に耳に入るようになった来たんですね。
選手たちにとって恋愛が当たり前のこととするならば、それを盛り込んでいく。早い段階で、これは2時間近い作品になるんだろうという予感はしていました。
核となる場面は入れられたのですが、逆に入れられなかったのが寝返り介助のシーンです。
ある男性選手の寝返り介助のシーンを寝袋持参で撮影を試みました。彼らは自分たちで寝返りができない。そのため1時間半程度に一回寝返りの介助が必要になる。
中村:寝言で呼んで、眠っているまま寝返りの介助してもらったり。朝起きた時は、その時のことは覚えていなかったり、とか。苦労して撮影したので、取り入れたかったのですが、話の流れ上、うまく入れられませんでした。
あと最後の最後に、永岡さんに化粧しているところを撮らせて欲しいといって、撮らせてもらったけれど、結局使えなかった。
全体として印象深かったのは、永岡さんのように生まれた時から歩いたことがない選手もそうですし東くんや筋ジストロフィーの選手にも共通しているのは電動車椅子に乗ると自由を得たと。
側から見るとだんだん悪くなったというマイナスイメージがあるんですが、選手たちはみんな自分の自由意志でいろんなところに行けることに喜びが大きかったと言っていました。
──選手たちと時間を共にして成長や変化に寄り添えたのではないでしょうか。
中村:撮影の最初の方はピンポイントで撮っていたのですが、最後は、鹿児島に行って、手術の場面に立ち会ったりなど、割と頻繁に撮りにいくようになりました。
選手たちの体調も変化していきました。特に呼吸器をしている二人は、6年間で体調が変わっていきました。永岡さんは大学生から社会人になりましたし。
映画としての厚みやいろんな変遷がありました。やっぱり4年と6年ではだいぶん違ったのかな、6年といえば小学生が中学生になるという期間。途中W杯が延期になった時にはどうなるかと思いましたが、結果として6年というのは良かった思います。
選手たちとの関わり
──永岡さんがスランプを抱えた時に、ブラインドサッカーを見にいく場面がありました。監督自身が助言などをしたのですか?
中村:ブラインドサッカーの話自体は、前々からしていたのですが、行きたいと言ったのは彼女の意思でした。ブラインドサッカーと他にデフフットサルの女子日本代表の合宿にも見学にも行きました。
あの頃は彼女はかなり精神的に参っていたので、刺激になったようでした。
──監督自身が選手にアドバイスや助言をしたことはありましたか?
ありました。ずっと見続けているので、思うことも当然ありました。チーム間の情報の漏洩に抵触しない限りは、思ったことを伝えました。
例えばアメリカW杯での戦い方などをキャプテンと語り合ったり、飲める選手とはお酒を酌み交わしながら話たりしました。
──W杯を実際に間近にご覧になって、世界と日本の競技のあり方について違いなど感じられましたか?
中村:日本は合宿とかもあまりできず、日本が一回合宿をやっている間にイングランドは4回やっている。資金の面、サポートの面で、日本と他の国のチームとの違いを感じました。
3作品目となったドキュメンタリー映画
──サッカーに関する作品が今回で3作品目になります。
中村:デビュー作は劇映画なんですが、ちょうどサッカー日本代表のオフィシャルドキュメンタリーDVD『日本代表激闘録』を作らせてもらう機会がありました。
もともとサッカーが好きだということもあったのですが、それを入り口にして、知的障害者サッカー(『プライドin ブルー』)の話制作が実現し、それ以外にも障害者サッカーがあると知って、その流れで広がっていきました。
当初は障害のことを全く知らないで、先入観や色々なものがない状態で撮影をしてきました。それは2作品目でも今回の作品でも共通しています。
障害のことや彼らのことを理解するためには、色々な話を聞いたり、知識を得たりしていくのですが、自分が最初は知らないという視点から始まっています。
自分自身がそうだったように映画を見ている人も見始める瞬間には何も知らなくても、観られるようにしていくように意識していきました。
情報が詰め込まれすぎていると難しくつまらなくなってしまうから、ある種エンターテイメント性を盛り込んだ映画にしなければならないという気持ちで作っていました。
──もともとは劇映画の世界で経験を積み重ねて来られてきた中で、ドキュメンタリー映画を撮るということに関していかがですか?
中村:ドキュメンタリー自体は独学で、劇映画を作っていた経験や延長線上で自分で作ることによって学んでいきました。
もちろんサッカーの撮り方はサッカー日本代表のDVD制作などを通じて学んだり、インタビューの編集にしても、言葉と言葉をつなぐことがシナリオを書くことのようなものになっていったり、方法論を自分で模索しながらも、発想やベースには劇映画にあるのかな。
例えば編集する時は、最後シナリオ形式にする。最初はもちろんシナリオとかないのですが、最後は劇映画のようにシナリオ形式にする、そうしないと自分の中で頭に入ってこない。
中村和彦監督からのメッセージ
──観客の反応はいかがですか?
中村:知らないものを知れたという感想や日常的なことにも踏み込んで撮影しているので、1時間58分を長く感じなかったとか、そこまでよく撮影したということへの評価がありました。
競技そのものに関しても、コメントをもらいました。W杯の様子、いろんな要素が入っているので感想も多岐に渡っています。現在、海外の映画祭にエントリーしていて、これから多くの人たちに見ていただきたいです。
──出演者の感想はいかがですか?
中村:別の人のことを、もちろん選手として交流はあるけれど、互いのプライベートを知らないこともあったので、他の人たちの状況を知れたのが新鮮だった、という感想をもらいました。
──観客の皆さんにメッセージをお願いします。
中村:重度の障害を抱えながら、サッカーへの思いのある選手たちの生き様を見て欲しい。
それと同時にスポーツドキュメンタリーでもあり恋愛映画でもあるので、肩肘張らずに、ある意味楽しんでいただければと思います。
中村和彦プロフィール
1960年、福岡県生まれ。2002年に劇場用映画の監督としてデビュー。サッカー日本代表のDVD制作にも携わります。
2007年には、知的障害者サッカーのW杯を描いた『プライド in ブルー』。2010年にはろう者(しゃ)サッカー女子日本代表を描いた『アイ・コンタクト』と、障害者サッカーをテーマにした2本のドキュメンタリー映画の監督を務めました。
2018年に映画『蹴る』は東京国際映画祭にてエントリー上映をされ、2019年3月23日よりポレポレ東中野、5月2日よりシネマ・チュプキ・タバタ、5月25日より横浜シネマリン、6月1日より大阪第七藝術劇場ほか全国順次公開中。
(*本インタビューは中村和彦監督の意思に添い、障害者という表記にさせていただきました。)
インタビュー/ 久保田なほこ
撮影/ 出町光識
映画『蹴る』の作品情報
【日本公開】
2019年(日本映画)
【監督】
中村和彦
【キャスト】
永岡真理、東武範、北沢洋平、吉沢祐輔、竹田敦史、三上勇輝、有田正行、飯島洸洋、内橋翠、内海恭平、塩入新也、北澤豪
【作品概要】
電動車椅子サッカーで活躍する選手たちが、ワールドカップ出場を目指して全てを懸ける様を、障がい者としての決して楽ではない日常や恋愛事情と共に描く長編ドキュメンタリー映画です。
監督は『プライド in ブルー』(2007)『アイコンタクト』(2010)など、障害者スポーツを題材としたドキュメンタリー映画を手がけてきた中村和彦。
キャストには、本作の中心的人物である永岡真里選手と東武範選手をはじめ、多くの電動車椅子サッカー選手が出演。
またかつてJリーグで活躍した元プロサッカー選手にして、現在は日本サッカー協会理事、日本障がい者サッカー連盟会長を務める北澤豪も出演しています。
文部科学省特別選定作品(少年向き/青年向き/成人向き)。
映画『蹴る』のあらすじ
本作は、日本国内においてトップクラスの電動車椅子サッカー選手である永岡真里選手、東武範選手の二人を中心に、2017年アメリカで開催されるワールドカップ出場に向けて全力を注いでいく選手たちの姿を映し出していきます。
難病であるSMA(脊髄性筋萎縮症)によって、生まれてから一度も歩いたことはないものの、電動車椅子、そして電動車椅子サッカーと出会ったことで、多くの国内大会でMVPを獲得する程のトップクラスの選手として活躍するようになった横浜クラッカーズ所属の永岡真里選手。
映画の冒頭、彼女はある試合中に起きた転倒事故によって、救急車に運ばれてしまいます。しかし、病院で診察を終えると再び会場へ戻り、何事もなかったかのように試合に復帰します。
その後、2013年1月、永岡選手はオーストラリアで開催された国際大会で日本代表に選出されました。彼女は女子選手としては初の日本代表選手として公式戦に出場し、チーム自体も優勝という好成績を残しました。
しかしながら、試合後の永岡選手は自らが思い描いたように動くことができなかったと話し、このままではワールドカップ出場は難しいと考えていました。
競技用に特化された新たな電動車椅子を手に入れ、選手としての在り方に苦悩しながらも、彼女は以前よりも更に電動車椅子サッカーに打ち込むようになってゆきます。
一方、ナンチェスター・ユナイテッド鹿児島に所属する東武範選手もまた、電動車椅子サッカーのトップクラス選手であり、同じくワールドカップ出場を目指す選手の一人でした。
彼は筋ジストロフィーを患っており、呼吸器をつけてプレーしています。
幼少の頃は何とか自分の足で歩けていたものの、小学校5年生の頃から車椅子を用い始め、その後、手動の車椅子を漕ぐことが困難になったことで電動車椅子を用いるようになりました。
そんな東選手の目下の悩みは、食事でした。
裏漉しなどで食べやすいようにはしているものの、それでも食事は彼にとって大きな苦痛であり、恋人との関係を破局する原因となる程の大きな問題となっていました。
東選手はワールドカップに出場するためにも、食事の問題を解決しようと試みます。
それは、大きな決断を要するものでした…。