独特の美意識であるスローモーションと美しいCGの作風で人気を誇る中島哲也監督が、「第22回日本ホラー小説大賞」を受賞した澤村伊智の原作『ぼぎわんが、来る』を映画化。
主人公のジャーナリスト野崎役に『海賊と呼ばれた男』や『関ヶ原』など、日本アカデミー賞の優秀主演男優賞の常連である岡田准一。
共演者には演技派俳優の妻夫木聡、黒木華、また中島組キャストからは『告白』で主演する松たかこが国内一の霊媒師を怪演。
同じく中島組の『渇き』にてデビューを飾った小松奈々や青木崇高など揃い踏み。
豪華キャストで贈る中島哲也監督が得意な人間のダークサイドを見せつけたホラー・エンターテイメントの真相とは…。
CONTENTS
映画『来る』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【企画・プロデュース】
川村元気
【原作】
澤村伊智「ぼぎわんが、来る」(角川ホラー文庫)
【脚本・監督】
中島哲也
【キャスト】
岡田准一、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡、青木崇高、柴田理恵、太賀、志田愛珠、蜷川みほ、伊集院光、石田えり、西川晃啓、松本康太、小澤慎一朗
【作品概要】
代表作『嫌われ松子の一生』『告白』『渇き。』で知られる中島哲也監督が、第22回日本ホラー大賞にて大賞を獲得した澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』を実写映画化。
実力演技派の岡田准一を主演に迎え、黒木華、小松菜奈、松たか子、妻夫木聡ら注目のキャストで魅せる必見のホラー・エンターテイメント作品。
映画『来る』のあらすじとネタバレ
いつも明るい田原秀樹は、実家で行われた13周忌の法事をきっかけに、交際していた加奈を両親に紹介しました。
その後、田原秀樹は加奈とめでたく結婚をします。幸せなになった秀樹は、理想的な夫として、妻になった加奈の懐妊に奮闘する日々をブログに書き溜めていきます。
そんな矢先、会社の後輩である高梨重明が、1年間の入院生活の果てに謎の病気で亡くなりました。
それでも我が道を行く秀樹のイクメンぶりは、一人娘の知紗が産まれると、いっそう子育てに熱が入り、エスカレートしていきます。
事あるごとに幸せな家族の喜びをブログ書き連ねて更新を続けていました。
しかし、実際は書き綴られたブログと異なり、妻であり母でもある加奈への愛情はなく、周囲のパパ仲間や、ブログにレスが来るママたちに向き合っていただけでした。
妻の加奈との夫婦生活にズレが生じた結果、家庭は荒れはじめ崩壊していきます。
それでも秀樹と高校時代からの親友で、仲の良い大学の准教授・津田大吾は、親身に秀樹の相談にのり、彼の支えとなってくれました。
実は秀樹は子どもの頃からある不安を抱えており、心の底に闇を持ち続けていました。
それは幼なじみで森で行方不明となった赤い靴の少女から告げられた、“アレ”という存在が秀樹を連れ去り来るという、恐ろしい話でした。
しかし、不思議なことに秀樹は一緒に森に行ったはずの少女の名前を覚えていません。
それでも少女と、“アレ”の存在に対して、幾度となく悪夢でうなされていました。
ある日、自宅マンションに帰宅した秀樹は、両親から送られた安産祈願や家内安全のお守りとお札が何者かによって、切り刻まれているのを発見します。
すぐに秀樹は、“アレ”の仕業だと気付き、怯える加奈と泣き続ける知紗の姿を見て、いよいよ“アレ”が襲い掛かって来ることを予見します。
秀樹は親友の大学准教授で民俗学に詳しい津田を居酒屋に連れ出して、“アレ”の存在について相談を持ち掛けます。
すると津田は、心霊やオカルトに詳しいルポライター業の野崎に引き合わせてくれました。
野崎は知り合いの霊能力、キャバ嬢の真琴の部屋に秀樹を連れて行きました。
秀樹は目の前にいる派手な容姿と明らかに生活の乱れた真琴に困惑。しかも言葉を選ばずズケズケとものを言う真琴と揉めてしまい、秀樹は真琴の部屋をすぐに飛び出してしまいます。
しかしその後、秀樹が自宅マンションに帰宅すると、娘の知紗が真琴と一緒に笑顔で遊んでいました。
それだけでなく、加奈も野崎と楽しそうに話をし、久しぶりに明るい表情を取り戻していたのです。
秀樹にとって、“アレ”の存在も忘れてしまうほど、穏やかなひと時でした。
そんな矢先、“アレ”は姿を現し、真琴の霊能力を吸い取り去っていきます。するとすぐさま真琴の姉で強力な能力を持つ霊媒師の琴子から電話がきます。
琴子は、この案件に対応するため、秀樹に霊能力者の逢坂セツ子を紹介します。
秀樹は野崎とともに中華料理店で霊能力者の逢坂と面会すると、ちょうどその時“アレ”から着信が入ります。
秀樹はスマホを手にし、逢坂に言われた通り黙って耳をすませていると、突然、“アレ”は逢坂の片腕を食いちぎったのです。
店先に真っ赤な血跡を残し、“アレ”は次なる獲物を求めて走り出して行きました。
瀕死の逢坂は加奈と知紗の身を案じ秀樹に自宅に戻るよう伝えます。
秀樹は加奈に連絡を入れ、知紗を連れて家から出るよう指示をすると、タクシーで自宅に直行。
すると、秀樹のスマホに琴子から連絡があり、自宅に“アレ”を招き入れるように言われます。
自宅に戻った秀樹は、琴子の指示に従い、部屋にあるすべて鏡を叩き割ります。その後、刃物を布に包みしまい込み、玄関から伸びる廊下にあらゆる器を並べ水を張り、“アレ”の襲来に備えます。
怯え慌てる秀樹ですが、スマホに掛かってきた琴子の声は「ここからは自分の仕事です」と断言します。
すると、次の瞬間、家の留守電話にも琴子からの着信が入りました。
訳の分からなくなり驚愕する秀樹。スマホの向こうの琴子は、“アレ”が成りすました存在だったのです。
刃物や鏡を封印させたのも、“アレ”が忌み嫌うものだったからでした。
秀樹は、身体が食い千切られる瞬間に、ずっと忘れていたあの少女の名前、赤い靴にチサ(知紗)という書いてあった事実を思い出すのでした。
映画『来る』の感想と評価
目に見えない「アレ」を目に見える形で表現⁈
本作の原作は角川ホラー文庫から出版された澤村伊智の『ぼぎわんが、来る』を原作に映画化した、中島哲也監督のホラー・エンターテイメント作品です。
原作の評価は2015年に第22回日本ホラー小説大賞に応募された348編の中から大賞を獲得した小説で、内容はホラーとエンターテイメントという相反する要素の融合を楽しめる作品です。
当時、選考にあたった3名は、一同賛辞のコメントを残しています。
「文句なしに面白いホラーエンタテイメントである」綾辻行人
「大当たりだった。選考しながら早く先を読みたくてならない作品は稀有」貴志祐介
「恐怖を現在進行形で味わうことができます。迷わず大賞に推しました」宮部みゆき
しかし、映像化にした際に“恐怖と笑いが一体になるのか”ということ期待と不安がありました。
参考資料:六代目三遊亭圓生の「死神」
例えば、それは落語でいうところの、六代目三遊亭圓生の「死神」を聴いた時に感じる、“恐怖と笑いのミクストメディア”です。
この「死神」を映画(画像)にしたもので、表現上で成功を収めた作品は、ほぼありません。
小説や落語という語りは、目に見えない存在を目に見えないスタイルで表現したからこそ、その面白さがあるからです。
本作『来る』で言うならば、人間の業や欲の“念の闇”と異界にいる“アレ”を、どのようなリアルさで融合させスクリーン上で「見せる」かという問題があるということです。
ズバリ!そんな心配は不必要でした。
『来る』ザキヤマイッキ見第一弾
ザキヤマのコミカルな映画宣伝にも負けないほど、映画『来る』は、“恐怖と笑い”が程よく合いまった秀作です。
それには中島哲也監督の特出した仕掛けが点在しています。
そのいくつかを詳細に解説していきましょう。
原作者・澤村伊智の言葉から映画を読むヒント
映画化に動き始めたのは、2016年の初め頃で、単行本の出版から間もなくだったそうです。
まず、小説の映画化にあたり、川村元気プロデューサーと中島哲也監督とが揃って、澤村伊智と顔合わせを行ったそうです。
着席して早々、中島哲也監督が映画化への強い意志を見せてきたことにとても驚いたそうです。
そして「とにかく、面白い映画にしてください」とだけ伝えたそうです。
完成した本作品『来る』を観た澤村伊智は、「お世辞抜きでめちゃくちゃ面白かったです」と語っています。
小説を映画化するにあたり原作と大きく変えた点は、タイトルです。『ぼぎわんが、来る』から『ぼぎわんが、来る』、「ぼぎわん」を消す、つまり見せなくして、『来る』にしたことです。
中島哲也監督は、映画本編にの劇中でも怖い「ぼぎわん」の正体をハッキリと見せずに、その恐怖の存在についても一切説明をしないという、見事なセンスを発揮しています。
前述の章で示した“見えない形”にも繋がり、逆に映画で何を見せたいかを明確に示したとも言えます。
原作者の澤村伊智は映画化された本作『来る』は、それほど大きく小説と変わっていないと語っており、小説『ぼぎわんが、来る』で書きたかったことを次のように述べています。
「とにかく「怖いお化けがやってくる話を書きたい」というのが僕にとって最初の執筆動機でした。ただ、それだけで長編を成立させるのは非常に困難なこと。それに、ディスコミニケーションの怖さも書いてみたかった。大事なのはどちらか一方ではなく、その2つが同時に存在することなのです。ホラーと言うジャンルの細かい約束事に縛られるのは本意じゃなかったし、かといってお化けという架空の存在を、人間の怖さで引き立て役にするのも嫌だった。このスタンスは職業作家になった今も、実は変わっていません。そしてその意味でも映画版の『来る』は、まさに僕の理想どおりの仕上がりになっていると感じています」
この「大事なのはどちらか一方ではなく、その2つが同時に存在すること」で、お化けの怖さだけでなく「ディスコミニケーションの怖さ」が映画を読み解くための重要な要素だと気がつきます。
映画『来る』を理解する【3つの鑑賞ポイント】
【ポイント⑴】
ディスコミニケーションによって、両者の対立軸や二面性が明確になる。
【ポイント⑵】
2つを同時に存在させる。
(この世とあの世、お化けと人間、大人と子供、お祓いと怨念、明るさと暗さ、真実と虚偽、映像と音響、恐怖と笑いなど)。
【ポイント⑶】
最も重要な定義を挙げれば、正義と、もうひとつの正義。
特に⑶で示した事柄は最も重要な要素として、映画を読み解くキーポイントになります。
日本人としては、あまり行動原理として使用しない行為の「正義」という言葉が仰々しいのであれば、「理由」や「言い分」として考えてみましょう。
本作『来る』の劇中では、常に誰かの「理由」を持った行為に対して、関係のある誰かにもまた、別の「理由」や「言い分」がぶつかり合いながら存在し、ストーリーが展開しています。
その関係性、あるいは関係のディスコミュニケーションによって、「言い分でしかないもの」が負の連鎖の念を助長させていくのです。
はじめに好意や愛情を持った相手との関係ですら、ある行為の「理由や言い分(自己の正当性)」が、「もうひとつの言い分や理由(自己の正当性)」で反発を見せるように描かれています。
そのことは「正義と不義」や「美徳と悪徳」と相反するものではなく、「正義(理由)と、もうひとつの正義(理由)」という構図になっています。
“個人的な理由”が、“もうひとつの個人的な理由”と同時に2つ存在するということです。
お互いに自己存在を保持するために「良かれと思った理由」でさえ、「言い分」を孕んでしまいます。
この自己正当化である言い分は、日本人が日常生活を営むなかで、誰しも誰かに飛ばしている“自己防御のための攻撃行為”という側面を持っているのです。
そしてその攻撃対象は、世間の中の最大の弱者である「子供」なのです。大人の都合によってもてはやされたり、捨てられたり、「間引き」される、罪なき子供たちが、多くの「言い分」の受け皿になっているのでした。
自己正当化としての「言い分」の恐ろしさ
この人間の弱みこそが、本作『来る』に姿を見せずに登場する“アレ”が好物とするケガレであり、人間の陰湿という心の湿りや、渇望、渇きを生み出します。
本作『来る』に登場する“アレ”が実際の「水」を欲しがった場面では、取り憑かれた者の喉が渇いたり、多くの茶碗の水が張られ並べられた廊下を見れば分かりますが、“アレ”が欲しい1番の水は、心の闇(陰湿さ)というケガレた“水”です。
ここで本作『来る』のなかで、“アレ”の怨念を導いた、きっかけとなる「言い分の心の闇」の陰湿や湿り気の例をいくつか挙げてみましょう。
・山の中で幼なじみの知紗が秀樹がかける言葉。
・13回忌で大人が子供を脅かす言葉。
・秀樹の母親が加奈に何気なくかける言葉。
・秀樹が幼なじみの知紗についた嘘。
・秀樹と加奈の披露宴の二次会で影口をこぼす友人たち。
・秀樹の偽りのイクメンBlog。
・秀樹が妻の加奈に言いかけた母の悪口。
・津田が加奈を誘惑した言葉
・後輩高梨が秀樹を羨み妬む言葉
・野崎が妊娠した彼女にかける言葉
・姉の琴子に妹の真琴が抱く気持ち
・知紗が知紗に寄せる親近感…、などなど。
そして「津田の魔導封の行為」までに至ります。
挙げれば、枚挙にいとまはなく、それらは、日常生活にありふれた「心無い言葉や思い」ばかりです。
些細な言葉が、人間に憧れを持った“アレ”という存在をより強く引きつけ、強靭な怨念として巨大化させてしまうのです。
本作『来る』では政府機関まで揺るがす「怨念」がありましたが、はじめは「些細な心無い言葉」でした。しかしやがて「言霊」として影響を及ぼしていきます。人は誰もが弱い心を持ち、“強いアレ”に惹かれて、自ら引き寄せているのです。
言葉(言霊)とは、古来から口に出したことが現実のモノになると信じられている、言葉の持つ力です。
秀樹と加奈が娘に知紗という名前(言霊)を与えなければ、恐怖の“アレ”の誕生もなかったと言えそうです。
本当に幼なじみの知紗の名前が秀樹の記憶になかったかは、真意のほどは分かりませんが、名前を与えた時点でこの世に存在するというが、名付けの儀なのです。
“アレ”は、幼馴染の少女知紗を通じて「嘘つき」「来るで」と言霊を残し、あの世に行きます。
その後、秀樹は成長し加奈と結婚。加奈があの世からやって来る赤ん坊を宿し、出産した娘に、知紗という魂を授ける。
やがて幼い知紗は秀樹の幼なじみ「知紗」と知り合い、共鳴します。その後も、津田や野崎の「ケガレ」を栄養に発育し、さらに真琴によって“アレ”は強く進化を遂げます。
“アレ”のきっかけは「些細な心無い言葉」です。しかし、その“アレ”と対峙する際に、琴子や霊能者たちが言葉(言霊)によるお経や呪文によって関わっていこうとします。
生きていようと死んでいようと、誰かと誰かのディスコミュニケーションを解消するには、言葉でしかないのかもしれません。
善悪のみで割り切れない人物像の豊かな描写
最強の霊能力者である比嘉琴子は、“アレ”と戦う前に野崎に対して、「失うことが怖いから失いたくない者は作らない」、自分と野崎は似た者同士だと、自身の弱みを見せ語りかける場面があります。
先述したように、誰かと誰かは繋がりを持ち、あるいは、同時に2つある鏡合わせの存在です。
琴子の“弱み”とは、彼女の真似をしてばかりで自身を傷つけてしまう妹の真琴の存在です。
例えば、“アレ”のお祓い中に琴子が真琴を逃した意味は、“アレ”に琴子の心の弱みを見せないようにしたかったからです。
琴子は幼ない頃から妹の真琴が自分に憧れと嫉妬を抱き、手を焼きながらも姉として愛情を抱いていたのです。
それは野崎も同様で、真琴を介して野崎と琴子は鏡写しの関係です。
他人の中に自分を見る行為は、本作『来る』のなかにたくさん描かれていました。
お調子者の後輩である高梨が秀樹に憧れと嫉妬を見せていましたが、秀樹と高梨は鏡写しの関係ですし、津田と野崎も同様です。
田原秀樹と野崎の関係
田原秀樹はイクメンぶりをパパブログで書いていたのは、世の中に悪影響を与えたくて行なったSNSの行為ではありません。
確かに加奈との夫婦生活や、知紗の子育てを顧みない行為は、良いとは言い切れませんが、本当に彼は嘘をついてチヤホヤされたいという気持ちでブログを綴ったのでしょうか。
確かに子どもの頃に幼なじみの知紗に嘘つきだと指摘され、大人になってからも嘘つきは改善はされません。
しかし、それは他愛もないことであり、完全な悪意ではないのでしょう。
野崎が劇中でシングルマザーになった加奈に玄関先で伝えているように、「妻の加奈や娘の知紗を必死に守ろうとしていた」事実は、いくつも見付け出すことが可能です。
子どもの親になる実感を秀樹は、少しだけお腹を痛めた加奈よりもパパ(父親)になる準備や経験が、ゆっくりだったのではないでしょうか。
この秀樹がパパになりきれなかったことは、野崎にも通じていて、その点で二人は鏡写しと言えるでしょう。
野崎は自分と同じように父親に成り切れな秀樹を見抜き、親近感を覚え、親身にどうにか“アレ”とのことを解決したかったのでしょう。
残念ながら娘思いの情を爪痕を残し亡くなってしまった秀樹でしたが、ラストでは子ども嫌いの野崎が秀樹に代わって、知紗の父親がわりになることを予見させ、父性の成長を見せています。
加奈と加奈の母親の場合
加奈の母親は、ネグレクト状態で娘に暴言と暴力で接していました。
結婚式でも母親らしさが全くないアルコール中毒状態の母でしたが、加奈が独りで子育てに奮闘しているのを心配して電話をしてきます。
孤軍奮闘する加奈には、当てにならない母親の言葉は雑音でしかありません。
しかし、結局加奈も母と同じように娘に接し、育てていきます。
死の直前、“アレ”に追い詰められ街に逃げた加奈は、レストランで知紗の大好きなオムライスを食べさせてあげ、自分の行いについて娘に謝ります。
その直後、“アレ”は母親の姿になり加奈の前に現れ、殺害。加奈は、トイレの中で、笑顔で死んでいきました。
それは加奈が死ぬ間際に、「母親」に会えた喜びからでしょう。
知紗と真琴と“アレ”
真琴は知紗を入浴させた際に、かつてのじぶんと同じように、知紗が自傷行為をしていることに気が付きます。
共感意識を持った真琴は、その後、琴子の儀式で、“アレ”とともに知紗をあの世(お山)に返す決断をした際に、必死に知紗の命を庇います。
そして知紗と同じ弱さを感じた真琴は、琴子の儀式の中で“アレ”の力が生み出した妊婦の姿となり野崎にその姿を晒します。
野崎は、琴子や真琴の変容を見ながら、“誰もが同じ弱さを持っている存在”であり、“すべての人間は他人との鏡合わせ”なのだという思いに至ります。
映画のラストで野崎が秀樹に代わり知紗の父親になったように、お腹を大きくした真琴が知紗の母親代わりになるだろうというのは言うまでもないでしょう。
映画『来る』の続編はあるのか?
この映画で気になることは次回作があるのかということです。
もちろん、プロデューサーの川村元気のことですから、ハリウッドでのリメイク版の映画化も視野に入れているでしょうが、忘れてはならないのは琴子の結末を観客に見せていない中島哲也監督の演出力です。
“アレ”を呼び起こした知紗は、すでに琴子と同じくらい、あるいは琴子を超えるだけの霊能力者になる可能性を秘めているのです。
中島哲也監督は、人間を善悪の一片だけで人物描写を描かないことで、弱さと強さの両面を見せることに成功しただけでなく、最強のエンターテイメントを可能にし、シリーズ化やスピンオフまで作れる状態に仕上げました。
このことがこの映画の最大の映画の魅力でもあると言えるでしょう。
本作『来る』はプロデューサーの川村元気と中島哲也監督がタッグを組んだ、2010年公開の松たか子主演の『告白』とも鏡合わせ的な作品であり、本作『来る』は『告白』はどっか〜んと超えたのエンターテイメントの秀作です。
まとめ
2018年12月7日(金)より公開された中島哲也監督のホラー・エンターテイメント作品『来る』。
既に鑑賞された方ならお気づきでしょう。
本作はお守りやお札を切り刻むというホラー映画の要素と、時おり挟まれるコント、「琴子と野崎のボケツッコミような巧みな間合いギャグ」に思わず笑ってしまう作品です。
それにしても、筆者は聖書やキリスト教の悪魔祓いの映画には恐怖を覚えませんが、劇中でお守りやお札が切り刻まれたのには、ドキドキしてしまうし、美術スタッフさんは大丈夫だろうか?と、今もハラハラしてしまいます。
このようにお守りの中身を覗いたり、お守りをゴミ箱に捨てることに罪悪感を持つ日本人だからこそ、本作『来る』は「ぼぎわん」の姿をハッキリと見せず、正体を説明しないところが恐ろしいのでしょう。
この記事であげてきた秀でた特徴と魅力は、プロデューサー川村元気と、映像作家として異彩を放つ中島哲也監督がタッグによるもので、ホラー・エンターテイメントの秀作と評価できるでしょう。
海外から無宗教で信仰がない日本人だと言われたりもしますが、本当にそうでしょうか。
信仰心があやふやで神仏一体のごっちゃな日本人らしく、明るく陽気な12月24日のクリスマスの夜に向けて、“恐れや些細な嘘をつくような心がないか、ご用心くださいね。
古から日本の各地には怨念がこもった「ぼぎわん」の“アレ”があなたをお山(血だらけのオムライスの国へ)に連れて行きますよ。