松浦だるまの原作『累』をNHK連続テレビ小説で人気を博したヒロインの土屋太鳳と芳根京子を招き、ダブル主演で映画化。
ふたりのヒロインを繋げる謎の男である羽生田役に浅野忠信。共演に横山裕、檀れい、村井國夫と実力派のキャストにも注目です。
女性同士の美醜を関係性のみならず、身体と心のあり方というストレートな問いかけテーマに置き、演劇というモチーフでさらに“女の情念”とした黒岩勉の脚本は圧巻!
さらに劇中劇の『かもめ』と『サロメ』の佐藤祐市監督の演出法も必見です。
CONTENTS
映画『累-かさね-』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【原作】
松浦だるま
【監督】
佐藤祐市
【キャスト】
土屋太鳳、芳根京子、横山裕、筒井真理子、生田智子、村井國夫、壇れい、浅野忠信
【作品概要】
松浦だるま原作のコミック『累』を『となりの怪物くん』で知られる土屋太鳳と、『心が叫びたがってるんだ。』の芳根京子のダブル主演で映画化。
監督には『キサラギ』で注目された佐藤祐市、脚本家には『モンテ・クリスト伯-華麗なる復讐』の黒岩勉。俳優とスタッフともに一級メンバーが揃った大作です。
映画『累-かさね-』のあらすじとネタバレ
淵累(ふちかさね)は大女優の渕澄世を母親に持ちながらも、ある出来事がきっかけで顔に口が裂けたような大きな傷を持った醜さゆえ、強いコンプレックスを抱えながら生きていました。
亡き母親の13回忌の法要の席でさえ、累は自ら進んで親戚とは接することはなく、自身の気配を消しています。
それは累とはまったく異なった容姿を持った大女優で、母親でもある渕澄世の影的な存在として累は宿命を抱えていました。
そんな折、法要の席に出席していた母親の澄世と親しかったと語る羽生田釿互という男に声をかけられ、彼が運営している下北沢で公演中の劇団の演劇に累を招待します。
人前で大きなマスク付け、右頬の醜い傷を隠して観劇した芝居は「虎の花嫁」という演劇でした。
舞台の主演女優を務めていたのは丹沢ニナといい、美貌の持ち主ではありましたが、演技力は素人以下のダイコン役者でした。
演劇の公演終了後に、累を舞台に立たせた羽生田は、彼女に演技力は自分の方が上だと思っていないかとけしかけます。
そこに楽屋から女優のニナがやって来ると、累の化け物のような顔を見るや醜い彼女のことを罵ります。
累は持っていた母親の形見である赤いルージュを口に塗ると、ニナに口付けのキスをしました。
すると累とニナの顔は入れ替わり、今見たばかりの「虎の花嫁」の一場面をニナの顔を奪った累が演じてみせます。
それは女優ニナには決して真似ることが出来ない完璧なものでした。
羽生田は顔を奪った累の演技力に「一度見ただけで台詞を覚えたのか」と称賛の歓喜の声をあげました。
累は母親澄世から遺されたある口紅の不思議な能力の使い方を知っており、それは羽生田も同じでした。
口紅を塗り、キスを交わすと2人の顔が入れかわる現象を知ったニナ。彼女はマネージャー羽生田の薦めた女優丹沢ニナの名声の策略に乗り、累の演劇の才能を利用することを決めます。
このことは圧倒的な美貌を誇る丹沢ニナにとって、12時間だけは醜い大きな傷のある顔になることを引き受ける事でした。
しかしニナにも隠されたある事情から、女優業に支障が出ていてた事情を抱えていたある弱みがありました。
そんなニナと累の2人事情を知っていた羽生田は、まんまと累の内面にあったコンプレックスから来ている自分を認めてもらいたいという気持ちと、ニナのコンプレックスであった演技の実力を向上させたい欲求のそれぞれを解放していきます。
もちろん、顔の綺麗なニナは優越感を抱きながら、羽生田に向かって累の容貌を化け物といい、自身が女優としての階段を上るために利用するだけだと伝えました。
それでも自身の執念のような欲求が勝った累は、黙ってこの条件を承諾します。
映画『累-かさね-』の感想と評価
鏡合わせなニナと累の関係
本作『累-かさね-』は日本映画に珍しいほど、象徴的に鏡が使用された作品です。
このことは、構築的な演技力が持ち味の女優・土屋太鳳が演じた丹沢ニナと、直感的で感覚派の女優・芳根京子の演じた淵累の2人が合わせ鏡のようなキャラクターだからにほかなりません。
この関係性を“陽と隠”と呼ぶか、“美と醜”かは、映画を鑑賞したあなたの個人的な価値観の差異なので、どちらがどちらであると外見だけでは断定することができません。
劇中の累の台詞にもありましたが、醜い顔でなく美しく顔でも人々からジロジロと見られることに驚き、一方でニナは他人から見られることに慣れていることから、醜い顔でも平然と人前に姿をさらす外出を何とも感じていません。
このように価値観の差異とは、見た視点より有るようで無い場合も多いのでしょう。
実際2人のキャラクターは、それほど同一的であり、鏡のような関係なのです。
しかし、女性が、あるいは女優が何かに執着して何か得たいと決断した時、合わせ鏡の奥底には幾つもの女の表情が見えてくるものです。
それこそが本作の見どころになっています。
土屋太鳳と芳根京子のキスを見つめる
下北沢のスズナリ地区ある劇場で、ニナと累の口付けした際には、まったくキスという行為に感情は含まれていません。
その後も単に互いの欠けた欲望のパズル合わせのためする契約のキスの儀式。
謎の口紅が持つ秘密の能力は、いうなれば昭和の返信ブームの『ひみつのアッコちゃん』のコンパクトや、『仮面ライダー』の変身ベルトと大差はありません。
赤いルージュは、今でいう魔法少女モノのアイテムに過ぎないのです。
ただ物語の後半になると、特に累がキスをした行為や寝たきりのニナをかいがいしく介護する行為は、他者を思いやる気持ちとともに、所有した他者でありながらも“自己愛の入り混じった愛情”という同一化があったように見て取れます。
小学生の頃イジメられていた累の初めてのキスは、その理由こそ偶発的か、母親の裏の顔の正体を知っての確信犯的行動かは定かではないものの、女性が相手でした。
そして、封印していたルージュを欲望の解放のために、ふたたび使った時も女性同士のキス。
しかし、思春期を経て年頃を迎えた累が舞台稽古の延長線上で、異性とのキスを意識したのは、新進気鋭の舞台演出家である烏合零太。
キスの経験がないと烏合に告白した累ですが、初めてのキスやニナとのキスはいくらでも経験済みでした。
そのことから顔を入れ替える変身のキスには当初においては感情がなく、目的のためのキスであったことが理解できます。
しかし、累は男性である烏合零太とキスや、おそらく肉体的な情交も通じ合ったのでしょうが、あっさりとその恋愛関係(ごっこ)は終わってしまいます。
累という女性は完全なるエクスタシーの快楽を男性からは得られないのでしょう。端的に分かりやすくいえば舞台上でスポットライトと拍手喝采を受けた時に悦楽はないのです。
それを手にした際に累は、心身ともにニナと1つに同一化した完璧な融合体となって昇天しているのです。
つまりは累とニナの心身が情交する精神の発端としてキス(前戯)に“何がしかの感情”がないとは考えにくいではないか。
このことは、今の時代によく見られる女子の好きなボーイズラブへの思い、また2次元愛などに例えられるように、広く一般的には男女の性的関係のみを価値とされるが、実際はそんなに単純ではない。
その男女の心身のリアルさを乙女心特有の嫌悪感を背景にしているような気がしてなりません。
そのことは異常ではなく、生命とは気味の悪いものでもあるのですから。だからこそ、累とニナはある種の性的快楽をキスをして得ていると考えられはしないでしょうか。
このことは物語の後半で、お互いに相手の中に自分自身を見つけてから受け入れていく過程の“気持ちの通じ合い”がその証だと考えられます。
すべては羽生田の死者蘇生の人体実験場
女優として伸び悩んでいたニナに、演技力を持った累を紹介した羽生田役を演じた浅野忠信。
本作は、実はすべてのきっかけは、羽生田というどこかインチキで胡散臭い男の欲望で物語は始まっていきます。
このような軽薄な役柄に説得力を与えているのが、さすが国際俳優である浅野忠信といったところでしょう。
羽生田が欲しかったものは、女優を育成することではありません。彼は亡くなってしまった自分が愛した大女優の淵透世の復活です。
つまり、亡き淵透世を蘇生させる2つの材料が、絶世の美貌のニナと透世の娘の累なのです。
下北沢の劇場で2人を引き合わせた舞台の演目は『トラの花嫁』。その舞台で演じていたニナは“花嫁(獲物・餌)”であり、“トラ(猛獣)”は累という隠喩になっています。
羽生田は死んでしまった透世に取り憑かれたように執着し、彼女をふたたび蘇らせたいマッド・サイエンティストのようなものです。
羽生田は亡き透世の蘇生実験の試みは、ニナの顔をした累という“女の情念の集合体(サロメ)”と化した時に破綻をしますが、そこまではすべて策士である羽生田の思い描いた意図した通りです。
このことから累はニナとの鏡写しであったこと以外に、大女優で母親でもある淵透世とも合わせ鏡の存在という2重構造になっていたことも理解できるでしょう。
ニナと累の融合体:サロメ降臨
劇中劇のアントン・チェーホフの戯曲『かもめ』やオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』には月や太陽をモチーフにした舞台美術がありました。
累は太陽のように眩しいニナに出会う前から、実は影なる存在でした。それは燦然と太陽のように輝く大女優でありながら、母親でもある透世の光が溢れて反射した月のごとく、影なる娘の存在だったのです。
例えとしたマッド・サイエンティスト的な羽生田は、最後は累という“トラ”以上のバケモノ化した大女優の誕生に見捨てられます。
また、それは何度も累の前に登場する幻影である“透世の幽霊”も、『サロメ』の舞台袖でハッキリと累は母親の幻影を拒否し、握手をせずに母親越えをした決別の格を見せつけます。
ここまで累とニナの鏡写しの関係性を述べてきましたが、それ以前に累と透世も同じく鏡の関係であり、その存在価値が入れ違っていくことで娘が母親を越し、何よりも女が女を超えた瞬間でもあります。
そこには“陽と隠”や“美と醜”などという隔たりを超え、存在となった累。彼女は『サロメ』の劇中劇でヨナカーンの首となったニナにキスをします。
ラスト・ショットのニナの顔になった累に降り注いだ返り血が、赤く光輝き流れる様子は、真の意味で美しいものを表現していたのが、とても面白い表現として印象深いです。
まとめ
本作品『累-かさね-』で丹沢ニナを演じた女優の土屋太鳳は、自身の中で役柄や背景をしっかり構築させてから役に挑む俳優です。
土屋太鳳は演じるにあたり、インタビューで次のようなことに気をかけていたようです。
「累とニナは似たもの同士だと思います。累は分かりやすくコンプレックスを持っていますけど、ニナのコンプレックスも実はすごく大きくて、たぶん、量は同じくらい。でも、質が違うんです。同じ磁力でもマイナスとプラスがある同じで、同じ女性だし女優だしコンプレックスの大きさも同じだけど、その中身が真逆だと感じました。外見のイメージの違いだけを意識して演じると「この2人が実は似たもの同士だ」ということを表現しきれない気がしましたので、あえて外見のポイントを考えないで、コンプレックスの違いのほうを強くし意識して演じました」
土屋太鳳が述べているように、ニナと累は真逆の位置にいながらも同じタイプの人物像です。
この映画における2人のキャラクターが鏡合わせの存在であることは、ここからも読み取ることができます。
また、一方の累役を演じた芳根京子は、感覚的で瞬発力がある演技派だと共演者を魅了する女優です。
芳根京子はインタビューで累を応援したくなるという問いかけに、このように答えています。
「嬉しい!私も累が普通の女の子に見える瞬間があって、そこからすごく応援したくなったんです。「もっとかわいくなりたい」っていう気持ちって、誰もが1度は持ったことがあると思うんですよね。視野を広げてみると、累はそういうコンプレックスを人一倍純粋に抱えているだけというか…。累だけじゃなくニナもまた自分を見てくれる人を探している気がしたんです」
芳根京子も土屋太鳳同様に、累とニナの両方のキャラクターについて読み込んでいることが分かります。
本作では土屋太鳳と芳根京子というキャスティングでなければ、成立しなかったキャラクターではないかと考えられます。
この2人のまったく異なる演技スタイルを持った女優が、最後の最後に、サロメという化身に化けた輝きは、真紅のルージュにも似て魅惑的です。
最後にひとつ、解説を加えて置くなら、『サロメ』を演じた劇場の屋上からもみ合いながら踊り場にあったテントの上に落下した累とニナ。
そこで瀕死の累の顔をしたニナは、羽生田に「殺して」と告げます。
その言葉は顔を盗んでいった女優丹沢ニナに向けられた言葉なのか、それとも累の顔をした自分に言ったことなのかは、映画を見ているあなたに託されています。
淵累という女性の名前の名乗りは、元禄3年(1690)に出版された仮名草子本『死霊解脱物語聞書』で初めて語られた、実話を元にした「累ヶ淵」を逆手にしたものです。
女性の情念や怨霊というものは、男女の隔てなく誰もがいつの時代も魅惑的に憑かれ、欲のすぐ傍にあるのかもしれません。
土屋太鳳と芳根京子をただただ見つめていたい、オススメの作品です。