第二次世界大戦中の1940年を舞台に、国家機密を知ってしまった優作と、優作を信じ「スパイの妻」として生きる事を決意した、妻の聡子のドラマを描いた映画『スパイの妻』。
『CURE』(1997年)や『回路』(2001年)などで、世界的にも多くのファンを持つ黒沢清監督が、歴史の闇に初めて挑んだ本作は、「第77回ヴェネツィア国際映画祭」で監督賞にあたる「銀獅子賞」を獲得した事でも話題になっています。
重い時代背景とテーマを背負いながら、最高の娯楽作に仕上がっている、本作の魅力をご紹介します。
映画『スパイの妻』の作品情報
【公開】
2020年公開(日本映画)
【監督・脚本】
黒沢清
【脚本】
濱口竜介、野原位
【キャスト】
蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史
【作品概要】]
2020年6月に、NHKBS8Kで放送されたドラマを、スクリーンサイズや色調を新たにし、劇場版として再編集した作品。
軍国主義へと向かっていく1940年の日本を舞台に、国家機密を知った事で反逆を企てる優作と、その優作と共に生きる決心をした妻の聡子を描いミステリー。
『寝ても覚めても』(2018年)の監督、濱口竜介と『ハッピーアワー』(2015年)の脚本を担当した野原位が、恩師の黒沢清と共同で、重厚な脚本を完成させました。
主人公の聡子を『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)で映画デビュー後、『フラガール』(2006年)『彼女がその名を知らない鳥たち』(2017年)などで数々の賞を受賞している蒼井優。
聡子の夫である優作を、舞台を中心に活躍後、『空飛ぶタイヤ』『嘘を愛する女』『億男』(全て2018年)での演技が評価され「第31回日刊スポーツ映画大賞助演男優賞」を受賞するなど、舞台や映像作品で幅広く活躍している高橋一生。
共演に東出昌大や坂東龍太など、若手の実力派俳優が、印象的な役柄で出演しています。
映画『スパイの妻』のあらすじとネタバレ
1940年の日本。
日独伊の三国同盟が締結され、日本にも戦争の足音が近づいていた時代。
福原優作は、貿易商を営んでおり、神戸で裕福な暮らしをしていました。
そこへ、憲兵部隊の隊長に任命され、神戸へ派遣されてきた津森泰治が訪ねて来ます。
泰治は優作の妻、聡子の幼馴染で、面識のある優作は泰治を迎えますが、泰治の表情は険しいままです。
実は優作の友人で、生糸の商人であるドラモンドが、諜報部員の容疑をかけられ逮捕されていました。
泰治は、優作に「人付き合いを改めるように」忠告しますが、優作は真面目には受け入れずに笑い飛ばします。
豪邸で、裕福な暮らしを送る優作は、聡子と、優作の貿易会社で働く、甥の竹下文雄と共に、趣味で映画を製作していました。
聡子は何不自由なく、幸せな毎日を送っていましたが、優作から、2週間満州に渡る事を報告されます。
優作は、取引相手である野崎医師から依頼された薬品を入手する為、物価が安い満州へ渡る目的がありますが、優作には「本当に危なくなる前に、満州を実際に見てみたい」という想いもありました。
満州で映画撮影を行う為、文雄も連れて、優作は神戸港から満州に渡ります。
その数日後、聡子は優作からの電報を受け取り、帰国が遅れる事を知ります。
優作の留守中に、聡子は泰治と再会します。
泰治は、西洋の文化を好む優作と聡子の生活を危惧し「あなた達には普通の生活が、世間からは非難の対象になる」と忠告をします。
2週間後
満州から帰国した優作と文雄を出迎えた聡子は、2人の無事を知り安堵しますが、優作は一緒に帰国した女性に、何か目で合図を送っている様子でした。
優作の帰国後に開催された、優作の貿易会社での忘年会。
優作が撮影した映画が上映され盛り上がった後に、文雄が突然、貿易会社を退社し、小説家になる事を報告します。
文雄は、有馬の旅館「たちばな」に篭り、小説を執筆するという事でした。
文雄の退職を知らなかった聡子は驚きますが、さらに忘年会終わりに、優作からアメリカへ渡る相談をされ、聡子は戸惑います。
数日後、有馬の旅館「たちばな」の近くで、女性の水死体が発見されます。
聡子は泰治に呼び出され、有馬で発見された水死体は、草壁弘子という女性で、優作が満州から連れ帰った女性である事を聞かされます。
さらに、弘子を「たちばな」で雇うように頼み込んだのは優作だった為、憲兵隊により容疑をかけられていました。
憲兵隊の調べにより、優作の潔白は証明されますが、同じ「たちばな」に宿泊している文雄には、容疑がかけられたままでした。
泰治から受けた取り調べを終え、帰宅した聡子は、夕食の席で弘子の事を優作に問いただします。
優作は、弘子と関りがある事を否定しませんでしたが、優作と文雄が抱える秘密について、何も語りません。
これまで、心から愛していた優作の急変した様子に、聡子は疑念を抱くようになります。
映画『スパイの妻』感想と評価
太平洋戦争直前の1940年を舞台に、絶対的な正義を信じた優作と、その優作を心から愛した妻、聡子のドラマを描いた映画『スパイの妻』。
1939年に第二次世界大戦が始まった事から、混乱を極めた日本国内で、優作への愛を貫こうとする聡子の物語ですが、本作は純粋な恋愛の物語ではなく、嘘が交差するミステリーとなっています。
物語が進むにつれて、劇中で聡子の立ち位置が変化していく事が特徴で、作品序盤では、貿易商社で成功した優作の妻として、不自由の無い暮らしを送っています。
ですが、優作が満州から帰って以降、何かを隠している様子を見せるようになり、これまで「優作を愛する妻」だった聡子は、「優作に疑念を抱く妻」へ立ち位置が変化します。
そして、優作から満州における関東軍の人体実体験の事実を聞かされた聡子は、売国奴になる優作に反抗し、大事な証拠を憲兵隊の泰治に渡してしまいます。
しかし、それは憲兵隊すらも騙す嘘で、この時から聡子は「スパイの妻」になる覚悟が出来ていた事になります。
聡子が「スパイの妻」として生きる事を決意したのは、優作が満州から持ち帰った、関東軍の人体実験映像を見た事で、優作の正義を信じたからです。
作品前半では、聡子は上品な雰囲気で、世間知らずな印象すら受ける女性でしたが、「スパイの妻」になる覚悟を持って以降、したたかで計算高い部分を見せるようになります。
憲兵隊すらも騙した事により、優作の甥である文雄が犠牲になってしまいますが、聡子は「大義の前には仕方のない事」と捉えます。
作中でも、聡子は「死ぬのは怖くない、あなたと離れる事が怖い」と語っており、聡子は優作を守る事を優先するようになり、危険とも言える強い愛情を見せます。
優作とアメリカへ亡命する準備をしている場面で、優作の役に立っている事を心から喜ぶ聡子が印象的です。
だからこそ、優作に裏切られたとも取れるクライマックスの展開は、本当に衝撃的です。
これまで、聡子の強い愛を感じていた観客からすると、残酷な仕打ちにしか見えません。
ですが、この作品は、ここから観客すらも騙しにきているのです。
聡子が優作に裏切られ、発狂した場面の後に、小さな船に乗り手を振りながら遠ざかっていく優作の場面が入る為、聡子を利用して優作1人が逃げたと感じる人も多いでしょう。
匿名の人物からの通報があった事で、憲兵隊は聡子の密航に気付くのですが、この匿名の人物は間違いなく優作です。
聡子に憲兵隊を集中させ、自身がその間に日本を離れる計画だったと考えて間違いありません。
しかし、聡子が持っていた記録映像が、優作が趣味で撮影した映像にすり替えられていた事から、優作は聡子が国家反逆により死罪にならないように、あらかじめ配慮していたのでしょう。
また、優作は「アメリカと戦争になれば、日本は負ける」と言っている為、もし聡子があのまま豪邸に住んでいたとしても、今までの通りの暮らし、聡子が作中で言う「幸福な暮らし」は叶いませんでした。
それなら、逆に軍に収容された方が、安全だという考え方もあります。
つまり優作の嘘は、聡子を戦争の危機から守る為だったと、受け取れます。
聡子は、優作に映像をすり替えられた事を知った直後に、発狂したふりをします。
優作が仕掛けた嘘の真意を、瞬時に見抜いたのではないでしょうか?
作品のラストで、優作の死亡報告書が1946年に作成されますが、それは捏造の可能性があると説明されます。
そして、聡子はアメリカへ渡った事が報告され、映画は終了します。
長年「スパイの妻」として嘘をつき続けた聡子は、アメリカに渡り優作と再会できたのでしょうか?
聡子と優作の嘘に、最後まで煙にまかれたような本作ですが、夫婦の事は2人にしか分かりません。
そういった意味でも、本作は間違いなく「夫婦の愛」を描いた作品と言えます。
まとめ
本作はフィクションなのですが、スパイを摘発する為に憲兵隊が作られたのも事実ですし、満州で、通称「731部隊」による人体実験が行われたのも事実です。
作中に登場する人体実験の記録映像は、黒沢監督が撮影したものですが、そういった映像を「見た」という証言も実際にあるようです。
1940年という、日本が戦争により混乱し、軍部が暴走を始めたとも言える時代背景を、本作は史実を取り入れる事で、作品内に当時の日本の空気を反映させています。
戦争により様変わりする、日本の姿を象徴するのが、憲兵隊の隊長となった泰治です。
作品の序盤では穏やかで、聡子と優作を心配する様子すら見せていた泰治は、後半では国家の為に動く、情け容赦のない人間として描かれています。
当時としては、泰治の考えが常識的で、聡子と優作は、国家に損失を与える反逆者となります。
そんな時代背景の中でも、自身の幸せを追い求めようとした聡子の姿は力強く、黒沢監督も「個人が幸福を求めていくと、必ず壁に激突し、そこに緊張や葛藤が生まれる」と語っています。
『スパイの妻』は、太平洋戦争の是非を問う作品ではなく、どんな状況下でも幸せを追い求める人間ドラマであり、観客すらも煙にまく極上のミステリー作品でもあり、一言で表現すると最高の娯楽作品です。
「現代劇」ではなく「時代劇」で、原作もなく実話でもない、オリジナルの企画による、こういった見応えのある娯楽作品が誕生したというのは、今後の邦画において、かなり意味のある事ではないでしょうか?