安定した職業について家族を守るはずだったのに・・・。
イギリスの名匠ケン・ローチが、新自由主義が生み出した現代社会の歪みとその渦中で翻弄される家族の姿を描いた映画『家族を想うとき』が2019年12月13日よりヒューマントラストシネマ有楽町他にて全国ロードショーされました。
イギリス、ニューカッスルに住むリッキーは、家族のために生活を立て直しマイホームを購入するという夢をかなえるためフランチャイズの宅配ドライバーとして独立しますが・・・。
映画『家族を想うとき』の作品情報
【公開】
2019年公開(イギリス・フランス・ベルギー映画)
【原題】
Sorry We Missed You
【監督】
ケン・ローチ
【キャスト】
クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ジェーン・ケイティ・プロクター、ロス・ブリュースター、チャーリー・リッチモンド、ジュリアン・アイオンズ、
【作品概要】
『麦の穂をゆらす風』(2006)、『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)と2度にわたり、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞した、イギリスの巨匠ケン・ローチ監督の作品。
リッキー(クリス・ヒッチェン)は生活を立て直してマイホームを建てるため、フランチャイズの宅配ドライバーとして働くが…。人間性をないがしろにする労働環境にがんじがらめになっていく男性と、家族の姿を描く社会派ヒューマンドラマ。
映画『家族を想うとき』あらすじとネタバレ
イギリス・ニューカッスル。リッキーと彼の家族は、2008年の銀行の取り付け騒ぎで住宅ローンが流れて家を失い、賃貸暮らしが続いていました。
リッキーは建設関連のありとあらゆる仕事をしてきましたが、あまりのハードさに体が悲鳴を挙げ、転職を決意。友人のヘンリーに紹介されたのは宅配ドライバーの仕事でした。
責任者のマロニーは、個人で会社と契約するのではなく、個人事業主として契約を結ぶのだと説明します。「勝つのも負けるのもすべて自分次第だ」というマロニーに、ヘンリーは「こんなチャンスを待っていた」と応えました。
しかし、いきなり車は持ち込みか、レンタルかと尋ねられ、迷ったリッキーはヘンリーに相談します。会社から借りた場合、一月あたりのレンタル料は、購入した場合の月あたりの返済額よりも割高で、長い目で見れば車を購入したほうがよいというヘンリーのアドバイスに従うことにしました。しかし、頭金を捻出しなければなりません。
リッキーは妻のアビーにファミリーカーを売るよう説得します。アビーは在宅看護師として働いていて、車は移動の必需品でしたが、借金がある上に金目のものといえばそのファミリーカーくらいしかないのです。
車を売ったため、アビーはバスで仕事場に向かわなくてはならなくなりました。
配達用の車を購入したリッキーは仕事を開始しますが、持ち運びする通信機器で常に時間内に配達できているか、コースを外れていないか監視される上に、遅れたり間違えたりすると罰金を科せられるハードな毎日が待っていました。
用を足しに行く時間もなく、ドライバーは空のペットボトルをトイレ代わりに使用しなければなりません。
一方のアビーも仕事の移動の手段がバスになったため、今まで以上に時間が重くのしかかってきます。介護先の人々は彼女の思うようには動いてくれず、次第に神経をすり減らしていきます。
16歳の息子のセブは、以前は真面目な優等生でしたが、最近は学校をさぼりがちで、夜な夜な友人と出かけては、街の壁などにスプレーで落書きし、“グラフィティ”を製作していました。
ある日、学校から呼び出しを受けたアビーは、セブが退学になるかもしれないと心配し、リッキーにも来てくれるよう連絡を取りました。
リッキーはマロニーに用事が出来たので数時間休ませてほしいと頼みますが、お前は個人事業主なんだから変わりの人間を用意しろと言われ、面談に向かうことができません。ようやく学校にたどり着いた時には、既に面談は終わっていました。
なぜ父親が来ないのかと校長は怒っていたそうです。2週間の停学処分となったセブを叱りつけるヘンリーでしたが、セブは反抗的な態度を取り続けます。アビーは叱らないで諭してほしいと訴えますが、忙しさの中、ヘンリーは激しいストレスを感じ、家族にも声を荒げることが多くなっていきました。
しばらく休養して自分自身を取り戻したいと考えたリッキーはマロニーに休暇を与えてくれるよう頼みますが、「個人事業主なのだから代わりを見つければ済むことだ」と突っぱねられ、休んだ場合は罰金を払うように言われます。
土曜日に12歳の娘のライザが配達車に同乗し、仕事を手伝ってくれたことで、リッキーは家族の大切さを改めて認識します。インド料理をテイクアウトし、セブにも早く帰るよう連絡して、久々の団らんの時間を持ちます。
そんな時、アビーの介護先から連絡が入りました。世話をしてくれる係の人間が現れず、3時間も動けず座ったままでいるというのです。
いかなくちゃと言って立ち上がるアビーを見て、セブは父さんのバンで行こうと提案します。家族4人が乗り込み、音楽をかけて歌い、それは思わぬ楽しい一時となりました。
いつものセブだわと父も母も楽しそうな息子の様子を見てほっとします。
しかし、安心したのも束の間、警察から、セブが万引をして捕まったと連絡が入ります。リッキーはアンに行ってもらうため連絡を取ろうとしますが、携帯が通じません。誰も来なければ有罪になると警官は告げます。
マロニーに今日は配達に行けないと話すと、彼は激怒し、罰金を支払うよう命じました。
警察官は、有罪にならないよう対処してくれましたが、今後何かをした時は、罪を問われると宣告し、「君には最高のものがある。家族だ。中にはそんなあたたかい家族のいないものもいる。恵まれているのだから正しい道を進むように」とせブを諭すのでした。
セブは“グラフィティー”のためのスプレー缶を5本盗んだのでした。家に戻ると、リッキーはセブに説教を始めましたが、セブはずっと反抗的な態度を取り続け、堪忍袋の緒が切れたリッキーはセブの頬をはげしく叩き、「出ていけ!」と怒鳴っていました。セブは家を飛び出しました。
映画『家族を想うとき』の感想と評価
『わたしはダニエル・ブレイク』(2016)を発表後、一度は表舞台から退いたケン・ローチが引退を撤回して描いたのは、新自由主義経済がもたらした人間性を奪う奴隷のような働き方に従事させられる一人の男性とその家族の物語です。
会社でその人・個人を雇用するのではなく、個人事業主として会社と契約するというシステムに隠された搾取の構造を、主人公であるリッキーは見破ることができません。
10年前の銀行の取り付け騒ぎで家と仕事を失い、それでも懸命に働いてきた彼は、この仕事で、生活を立て直そうと考えています。
ところが罰金や弁償がどんどんかさみ、真面目に働けば働くほど負債が増えていくという悪夢のような循環に陥ってしまうのです。
子供の親に対する反抗や、突発的に起こる暴行事件といったエピソードの重ね方は、多少、あからさますぎるように見えなくもありませんが、毎日ぎりぎりの生活をしている中、わずかな出来事が持ち上がっただけで、均衡を保っていたものがバラバラと崩れてしまうことは誰にでも起こりうることでまったく他人事ではないのです。
リッキーに仕事を紹介した男性だって、いつリッキーのような境遇に陥るかわかったものではありません。
それにしても聞かれなかったからと不都合なことを一切説明せず、言葉巧みに労働者に希望をもたせる企業のやり口はまさに奴隷商人の如くといわざるをえません。ケン・ローチはそうした社会の実態を静かに告発するのです。
リッキーたち家族は古き良きイギリスの労働者階級を代表する人々です。彼らのような人々は、新自由主義がはびこる以前は、裕福でなくても誇りを持って、真面目に勤勉に慎ましく生活し、家族で支え合って、幸せを築いてきたのです。
『わたしはダニエル・ブレイク』でも怪我をして仕事ができなくなった気のいい大工が、複雑な福祉システムに適応できず、思うように支援を受けられず、もがく姿が描かれていました。
リッキーもその妻も、ダニエル・ブレイクと同様、新しい社会のルールから落ちてこぼれていく人々であり、そんな彼らに手を差し伸べてくれる行政の人間は誰もいないのです。
もはや、誠実で真面目なだけでは生きていくのは困難で、知恵や、社会を見渡せる力を持たない人は淘汰されていく時代。
ケン・ローチはそうした現実を見つめ、誠実な労働者階級の人々がじわじわと滅びゆく姿をリアルに描き出します。
何の救いも読み取ることができないラストは衝撃的で、そこには絶望しかありません。
搾取する相手に罵声を浴びせ、汚い言葉を使ったと恥じて泣くアビーの心は清らかすぎるのでしょうか。人間の尊厳を踏みつけられ続ける人々に救いはないのでしょうか?
劇中、万引でつかまったリッキーの息子に警官が語った言葉が思い出されます。曰く、「君には最高のものがある。家族だ。中にはそんなあたたかい家族のいないものもいる。恵まれている」
この家族は確かな愛情で結ばれています。父親の職業を歓迎していない子どもたちが、父の心を動かすことに成功する可能性もなくはありません。妻の溢れるような優しさが、彼を支えるでしょう。家族で考え、この狂った社会からサバイバルする方法をみつけることができれば・・・。
この警官が発する台詞が、この家族を救える唯一の手立てとして浮かび上がります。観る者は思わずその言葉にすがりつきたくなるのです。
まとめ
父と母が疲れ果て、ソファーで重なるように眠っている姿を見て、小さな娘はつけっぱなしのテレビを消し、食器を流しに運びます。
父母ははっと目覚めて、「ちゃんとベッドで寝なくちゃ」と身支度を始めます。彼らはそれ以上、娘に何かをさせたりはしません。
限界ぎりぎりで生きていれば、親というものは、子供を自身の都合のよいように動かそうとするものです。
子供に愛情を注ぐ暇もなく、長い間、ひとりで放っておけば、子供は子供時代を失い、早く大人になっていかなければなりません。聡明な子ほど、自分自身の生きたい世界と、家族の都合をはかりにかけて苦しむことになるでしょう。長男には既にその傾向が見え始めています。
しかし、この一家は、とりわけ母親は、子供を子供のまま、そして一人の意志ある人間として育てようとしています。長男にも進学させてやりたいと本気で考えています。もっとも長男は、たとえそう言われても現実的でないだろうと気づいて苦悩しているわけですが。
余裕がなく、追い詰められて行く生活の中で、どのように難しい年頃の子を育てていけばよいのか?
本作は、新自由主義経済社会が生み出した富めるものはより豊かに、貧しいものはより貧しくなる社会を厳しい目でみつめると共に、この時代の子育て、家族のあり方を描いているのです。
怒るよりも諭すということを実行することの難しさと、でもやはりそこを忘れてはいけないと葛藤する姿を、父であるリッキーと母であるアビーに扮したクリス・ヒッチェンとデビー・ハニーウッドが好演しています。
クリス・ヒッチェンは配管工として20年以上働き、40歳を過ぎてから俳優をめざしたという経歴の持ち主です。見事にこのチャンスを掴みました。一方のデビー・ハニーウッドもテレビで小さな役柄を演じていた俳優でしたが、本作のオーディションで選ばれ、映画初出演を果たしています。