「史上最高の文学100選」で1位に輝いた小説を苦節30年を経て映画化
夢に生きる男と現実に生きる男による遍歴の旅を描いた摩訶不思議なロードムービー『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』。
映画製作が長きにわたって難航したことから、「史上最も呪われた映画」とも呼ばれた作品です。
監督テリー・ギリアムが、その作家人生の大半を費やしたとされる作品は、監督その人と同化するほどの映画となりました。
テリー・ギリアムが生涯をかけて遂に完成した作品には、私小説ともいえる、人生の在り方が投影されています。
CONTENTS
映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』の作品情報
【公開】
2018年(スペイン・ベルギー・フランス・イギリス・ポルトガル合作映画)
【原題】
The Man Who Killed Don Quixote
【監督】
テリー・ギリアム
【キャスト】
アダム・ドライバー、ジョナサン・プライス、ステラン・スカルスガルド、オルガ・キュリレンコ、ジョアナ・リベイロ、オスカル・ハエナダ、ジェイソン・ワトキンス、セルジ・ロペス
【作品概要】
イギリスのコメディグループ「モンティ・パイソン」の唯一のアメリカ人メンバーとして知られる映画監督、テリー・ギリアムが1985年に映画化を試みるも実現に至らなかった幻の映画『ドン・キホーテを殺した男(原題)』。
構想15年、第1次クランクインから18年の時を経て、ついに完成にこぎつけた念願の一作。この前途多難な制作背景から本作は「映画史上最も呪われた映画」として知られています。
物語は、自らをドン・キホーテと信じる老人と、若手映画監督の奇妙な旅路を描きます。ドン・キホーテと思い込む老人ハビエルを、ギリアム作品の常連であるジョナサン・プライス。若手監督トビー役を「スター・ウォーズ」シークエル三部作(2015~19)のカイロ・レン役で知られるアダム・ドライバーが演じます。
その他のキャストとして、『異端の鳥』(2019)ドラマ「チェルノブイリ」(2019)のステラン・スカルスガルド、『ある天文学者の恋文』(2016)のオルガ・キュリレンコらが脇を固めます。
映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』のあらすじとネタバレ
現代のスペイン。巨大な風車や巨人の手のセットが組まれたロケ地で、コマーシャルの撮影が行われていました。
ドン・キホーテが風車へと突っ込んで行くシーンの撮影中、思うような画が撮れないと、新進気鋭の若手CM監督トビーは頭を悩ませていました。
撮影を一時中断した夜、トビーは他のスタッフと共にレストランで会食をしていました。
そこへ訪問販売に来たジプシー風の男から、10年前に自身が制作した学生映画「ドンキホーテを殺した男」の海賊版DVDを入手します。
その後トビーは、世話を頼まれたボスの妻ジャッキーとホテルの部屋でロマンチックな関係になりかけるも、海賊版DVDが気になりだします。
CM製作の責任者であるボスの妻ジャッキと関係を結びかけたその時、ボスが部屋へ戻ってきました。帽子を目深に被り、血相を変えて逃げていくトビーを、ボスはレストランにいたジプシー風の男と見間違えます。
トビーは海賊版DVDを観て、学生映画制作当時のことを回想していました。
映画制作当時、トビーは映画でドン・キホーテ演じるのに最適な素人を探し、街で出会ったハビエルという古い靴屋を役に抜擢。
それから彼はラウルのバーに行き、ラウルの娘アンジェリカをドゥルシネア姫役にキャスティング。しかしラウルは、まだ15歳の娘をトビーのような男の映画に関わらせることを良く思っていませんでした。
場面は現在に戻り、トビーは映画を撮影した町がロケ地から近いことに気付き、バイクを借りて町に戻り、現在の様子を確認しに行きます。
ラウルの店には、アンジェリカはおらず、彼女は女優を夢見て都会へ行き、そこで堕ちぶれたという。
ここまで、映画内では現地のスペイン語で会話がされていましたが、トビーは作劇上の都合を優先。第四の壁を破って字幕を押しのけ、英語での会話に切り替わります。
町から少し離れた村で「キホーテ、ここにあり」との看板を見つけるトビー。気になって中へ入ると、そこにはかつてドン・キホーテを演じたハビエルが当時のままの姿でいました。
ハビエルは自身を400歳を超えるドン・キホーテと思い込んでおり、トビーのことを御者のサンチョ・パンサであると思い込んでいるようです。
ハビエルの狂人ぶりを目の当たりにしたトビーは、衝撃のあまりその場を立ち去ってしまいます。撮影現場に戻ってきた彼を待っていたのは、ジプシー風の男を警察へ突き出す寸前のボスでした。
パトカーでジプシーを連行しようとする警官に、トビーは呼び止められます。近所の村で起きた火災にバイクに乗った男が関与してるとの通報を受けたからです。ジプシーと共にパトカーに乗せられるトビー。
そこへ愛馬ロシナンテにまたがったハビエルが助けにやってきます。警察の追跡を逃れたトビーは、ハビエルとの冒険を余儀なくされます。
ハビエルに対し、「あんたは本物のドン・キホーテじゃない。むかし演じただけだ」と、何度か説得を試みるものの、ハビエルは聞く耳を持ちません。言い合いをする彼らの前を自転車にまたがった女性が通りがかります。
彼女が向かう先にある風車を巨人と勘違いしたハビエルは、風車めがけて愛馬を走らせます。突撃も虚しく、地面へ放り出されるハビエルを、優しく介抱する女性。
彼女に連れていかれた集落では、人々が現世とは思えない古風な暮らしをしています。トビーとハビエルは一晩泊まることになったものの、夜中に今へ出たトビーは礼拝中の家主と遭遇します。
「ムスリムだとばれたら、異端審問にかけられ罰せられる。」このことを内密にするよう家主に懇願されたトビーは「中世期じゃあるまいし」と呟きます。
次の瞬間カトリックの聖職者たちが集落に押しかけトビーとハビエルのふたりが指名手配になっていることを住民たちに告げます。
逃げる身支度を整えるトビーはジプシーと再会。辺りが騒然とする中、聖職者たちはジプシーを追ってどこかへ消え、住民たちはトビーに喝さいを送ります。
翌日集落を出て、旅を続けるトビーとハビエル。ハビエルの取りつく島のなさに辟易するトビーでしたが、道中にスペインの黄金を見つけ大興奮。黄金を追いかけていくうちにハビエルと離れ離れになりました。
たどり着いた滝つぼでトビーが出会ったのは、立派な大人へと成長したアンジェリカ。良い暮らしぶりだと語る彼女の背中には痛めつけられた跡が。
アンジェリカを心配するトビーのもとへハビエルがやってきます。3人を監視する男に気付いたアンジェリカは「戻らなきゃ」とだけ言い残し、ふたりと別れます。
その後ふたりはムーア人の廃都を訪れます。「騎士道の精神を守るために遍歴の旅を続けねばならない」と語るハビエルと「騎士道など元から存在しなかった」と冷笑するトビー。
議論は平行線のまま、ふたりの前に甲冑を着た大男が現れました。大男はそのむかし、ドン・キホーテと剣を交え勝利を収めたと豪語します。
ハビエルは「我こそは正真正銘のドン・キホーテである」と名乗り口上をし、愛馬ロシナンテとともに大男へ向かっていきます。馬の気まぐれな動きによりハビエルは勝利を収めました。
映画『テリーギリアムのドン・キホーテ』の感想と評価
無意味な記号となった古典「ドン・キホーテ」
本作が「ドン・キホーテ」の名を冠する意味は、「モンティパイソン」が得意としてきた古典文学・芸術の再生産の手法に見出すことが出来ます。
それは元の作品に対する解釈や古典としての芸術的価値、意味付けを「ナンセンスなギャグ」として大衆に消費させる。元の作品に込められていた裏の意図や行間を読ませるような演出さえ、全てベタなボケやツッコミ、フリオチという世俗的な表現に落とし込んでしまう手法です。
出版当初は滑稽な小説として受容されていた「ドン・キホーテ」も、時代を経て、哲学的ないし社会批評性といった高尚な意味付けがなされていき、全体主義など厳しい体制への反逆精神や無鉄砲な勇ましさがアナーキズムと結び付けられるような文学作品の代表の顔を持つようになりました。
本作は、そのような意味付け、「インテリじみた高慢さ」を剥奪し、作家の個人的私小説としての価値のみを付与しています。そして時代小説特有のもったいぶった言い回しは、あえて誇張する事で皮肉にしています。
この手法の意図とは、大衆娯楽化。つまり古典となっている元ネタを隅々まで理解しているという前提条件を観客に強制しない娯楽にするということです。
1605年に発表されたセルバンテスの小説「ドン・キホーテ」の存在だけを知っていれば、この映画がモチーフとしたものの役割は済んだも同然です。
それに加えて、本作における「ドン・キホーテ」の受容の仕方が「モンティパイソン」的であるのは、作品に仕込まれた遊び心のようなメタ視点です。
スペインの地元民とスペイン語で話すトビー。画面下に英語の字幕文が出てくると、「こんなモノ要らん」と言って字幕を粉砕してしまうギャグに始まり、トビーがハビエルを追いかける道中、黄金を拾い狂喜乱舞する様は、原作小説が1600年代(スペイン黄金世紀)に発表されたものの代表であることへの目配せでしょう。
「ドン・キホーテ」という題材が選ばれたのは、こうしたメタ視点で描くのに最適な題材であったからであり、元作品が漠然とした高尚さを持つ、箔の付いた作品であるからでしょう。
映画と同化したテリー・ギリアム
前述した紆余曲折により、本作ほど映画とその外側で起きた事情とが重ねられて語られる映画もありません。その影響からか、本作は監督テリー・ギリアムが意識する以上に、作劇内の虚構と現実とが交錯する映画になっています。
主人公トビーが迎える結末の通り、本作は、映画と同化することをテーマとしていました。
原題の『ドン・キホーテを殺した男』とは、トビーが制作した学生映画のタイトル。「映画のタイトル」という外側の現実世界へ向けたパッケージングと劇中劇のタイトルとを合わせることで、トビー自身がドン・キホーテを殺した男となる=作り手と映画とが同化することを意味しています。
これはそのまま本作とテリーギリアムの関係に置き換えることができるでしょう。
本作ラストにおいて、トビー(サンチョ)はハビエル(ドン・キホーテ)の夢を継承することによってドン・キホーテとなります。幻を共有するとは、彼もまた狂人へと成り果てる事を意味します。
映画という幻を追うテリー・ギリアムは、失われた騎士道という幻を追うドン・キホーテであり、彼の幻を追うサンチョ・パンサである。この何層にも重なる現実と虚構とを隔てたマトリョーシカのような入れ子構造が、それらを混同される役割を果たしています。
これこそテリーギリアムが「モンティパイソン」時代から描き続けてきた無意味さを象って意味あるものを描き出すということの真髄です。
また、彼のフィルモグラフィを辿ると、年々自身に近づけた形で、「聖杯を求める話」を描いてきたことが分かります。
劇中のハビエル扮するドン・キホーテの求める聖杯とは、「かつての騎士道」を指しますが、作品自体が求める聖杯とは、「己の狂気を受け入れること」を指します。それは原作小説の台詞でいうところの「最も憎むべき狂気とは、あるがままの人生に折り合いをつけ、あるべき姿のために戦わないこと」です。
人生の本質を説くようなこの壮大なテーマは、テリーギリアムよりひとまわり上の映画作家、アレハンドロ・ホドロフスキーのテーマにも共通しています。ホドロフスキーも同様に個人とその人が求める象徴との結び付きを描き続けていました。
シュールな作劇、演出の角度位しか共通点を持たなそうな2人の作品を順番に観ていくと、年を重ねるにつれ、彼らにとって映画作りとは、セルフセラピーの一面があることに気付かされます。映画作家が映画と向き合い、人間を描こうとするとき、行き着く答えには現実を超えた象徴や夢といった虚像に向き合う話になるのは単なる偶然ではないように思えます。
虚像に向き合う人間の道程は、他の世界が介在する余地がないという危険性をも孕んだ、非常に危うい一線を通り抜けていくものです。言い換えると、「他人の話を聞ずに自分の信じるものを貫け」とも取れます。
しかし、いくら聞き心地が良くとも、自身を肯定しかしない世界で描かれるものは、意味あるものを象った無意味な産物に過ぎません。最終的に騎士道が継承されるという本作の結末に一抹の裏寂しさを覚えるのは、狂気の先には、破滅が待っている可能性もある示唆しているからでしょう。
テリー・ギリアムのあまりにも悲観的な自己認識が垣間見える本作は、製作にまつわる紆余曲折という外側の現実と繋がった映画であることを改めて意識させられます。
まとめ
念願の企画を達成した集大成ともいえる本作は、作り手と映画との同化を見せてているため、「テリーギリアム”は”ドン・キホーテ」という邦題でもしっくりくるのではないでしょうか。
しかし「テリーギリアムはドン・キホーテ」というタイトルにしてしまうと、あまりにも意味付けがメタ化されたタイトルとなってしまい外側にある現実を意識させることが意図的なものになってしまいます。
そのバランスに本作の替え難い無二の魅力があるのだと思います。つまりそれは、偶発が重なったことによる「無意識の映画化」です。
「史上最も呪われた映画」という悪名を背負わされた本作を正しく言い換えるならば、度重なる製作中止を経て、企画が複雑化・単純化を繰り返し、遂には完成した商業作品としての呪縛から唯一解放された映画です。
テリー・ギリアムという映画作家が、映画と向き合い、自身の映し鏡として作中で描いた人間は、正気と狂気を行き来する現実と虚構の中道ではなく、現実と虚構との混同を目指しました。