講義「映画と哲学」第9講
日本映画大学教授である田辺秋守氏によるインターネット講義「映画と哲学」。
第9講では、「理由」を問うことをドナルド・デイヴィドソンの観点から再考。それを踏まえた上で、アスガー・ファルハディ監督の映画『ある過去の行方』(2013)を分析してゆきます。
CONTENTS
意図はどこにあるか
この講義も9回目となり、今回はいま一度「行為」という本年度のテーマの基本に返って、その語に関連するいくつかの基礎的な概念をみておきたい。現代哲学において、行為の哲学と言語の哲学において目覚ましい議論を展開してきた一人が、ドナルド・デイヴィドソン(Donald Davidson 1917-2003)であることは、誰もが認めるところだろう。
現代哲学にとって「行為」が非常に重要なものになったのは、それが外部に向けられた自己表現の手段だったからだ。近代哲学の伝統では、「内省」から始めるデカルト的なやり方が、カント、現象学に至るまで主流であった。しかし、第三者から見てその人が何を考えているのか、それを明らかにしてくれるのは、その人の行為である。また発話も行為に含めるなら、行為はその人の「意図」が外部化される唯一の方法ということになる。
意図と行為に関して、その発端にヴィトゲンシュタインの有名な問いがある。「私が腕を上げるという事実から、私の腕があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か」(『哲学探究』621節)というものである。「私が腕を上げる」というのは、明らかに私の行為だろうが、それは「私の腕が上がる」という出来事に何かが付け加わったことなのだろうか。多くの人は、その何かを、腕を上げたいという気持ち、すなわち意志、意欲、意図などと考えるだろう。デイヴィドソンはそれに対して、付け加わるものは何もないと答える。私が腕を上げるとき、「腕があがる」ことと「腕を上げる」ことは同じひとつの出来事である。つまり、出来事が行為になるために、出来事それ自体に何かが付け加わるわけではない。では、いったい「腕を上げたい」という気持ち、私の「意図」はどこへ行ってしまうのだろう。デイヴィドソンは明確に答えている。
「私の考えでは、意図は行為の一部分ではなく、その原因である。私が友人に電話をかける行為が友人に謝意を表することになるとき、電話をかけることに何かが付け加わるわけではない。これとちょうど同じように、私の腕が上がる出来事が意図によって引き起こされるとしても、だからといって腕が上がることに何かが付け加わるわけではない。」(『合理性の諸問題』178-9頁)。ここで、意図は行為ではなく、その原因であるというのは、どういうことだろうか。それを理解するには、まずデイヴィドソンの「出来事」についての考えを知る必要がある。
出来事と行為
デイヴィドソンによれば、出来事とは特定の日時に生起する特殊者である。それぞれの出来事は、以前、以後、同時のいずれかに起こる。さらに出来事は、他の出来事の原因あるいは結果となることができる。出来事において典型的な関係は、時間的、因果的なものである。また、出来事は特殊者であるがゆえに、さまざまに記述可能であるという特徴がある。「満州事変」という歴史的出来事を例に取ってみれば、それは「南満州鉄道が爆破された事件」「関東軍による謀略」「日本の軍国主義化のターニングポイント」「日中戦争を引き起こす原因の一つ」などと記述することができる。しかし、このうち満州事変だけに当てはまる記述は、最初の記述だけで、残りは他の出来事についての記述にもなりうる。出来事そのものとそれを記述することが区別されねばならないというのは、デイヴィドソンの根本的な主張である。
一方で、あらゆる出来事が行為であるわけではない。行為に特有なことは、意図があって遂行された出来事だということである。しかし、意図的であるか、意図的でないかはあらかじめ決まっているわけでもない。ハムレットは、垂れ幕の背後にいる人物を意図的に殺害するが、ポローニアスを殺害しようと意図したわけではない。しかし、垂れ幕の背後にいたのはまさにポローニアスであった。なので、ハムレットが垂れ幕の背後にいる人物を意図的に殺害することと、ポローニアスを意図せずに殺害することは同一の行為である。このように、まったく同じ行為が、ある記述のもとでは意図的になり、別な記述のもとでは意図的にならない。意図的な行為というものが最初からあるわけではない(アリストテレスに対する反論。「第1講」参照)。要するに、行為とはある記述のもとで意図的となる出来事のことなのだ。そして、そうした記述のもとで、行為はその理由を与える心的な内容によって正当化される、というのがデイヴィドソンの主張である。ハムレットは、父の復讐を遂げるために王を殺害しようとする意図をずっと持っていたがゆえに、人違いの殺人を犯してしまったのである。
因果性と因果的説明の違い
出来事とその記述の区別は、因果に関しては、今度は因果性と因果的説明とを区別しなければならないという言い方になる。デイヴィドソンは、おおむねヒュームの因果性に関する伝統的な見解を認めている。ヒュームによれば、因果性とは、空間的に隣接し、時間的に継起する二つの出来事がつねに相伴って生ずるとき、人間がそこに認める「必然的な結合」のことである。火事になれば煙が立ち上るとか、濁流に飲み込まれれば人は溺れる、というのが、因果性(因果関係)の典型例である。因果性とは、出来事それ自体の間に成立する関係だ。
これとは違って、因果的説明とは、「ある出来事が起こったのはなぜか」に答えること、あるいは、出来事の結果をその原因によって説明しようとするものだ。その説明には、出来事がある仕方で記述されることを必要とする。そして、うまくいった記述では、行為者が行為した際の目的、つまり意図が明確になる。逆から言うと、行為がなされる際の意図(理由)を述べることは、なによりもその行為を原因によって記述することである。最初にデイヴィドソンが言っていた「意図は行為の一部分ではなく、その原因である」というのは、そういうことだ。これは一般に行為の因果説と呼ばれるもので、意図と出来事のつながりを因果の連鎖として捉えることである。デイヴィドソンによれば、「行為の主たる理由は行為の原因」(『行為と出来事』4頁)である。
ある出来事が行為であるとき、説明になっている記述に是非必要な要件とは何か。その行為を引き起こすにあたっての、その人の信念、欲求、意図を述べることである。「理由による説明力の大部分は、その行為を引き起こすにふさわしい数多くの信念と欲求の組のうち、実際に行為の原因となったのはどのひと組であったかを明示することに由来するのである。」(『合理性の諸問題』184頁)。このとき、特に重要なのは「行為のための理由」(a reason for an action)と「行為を遂行する理由」(the reason why one performs an action)を区別することである。「行為のための理由」があっても、結局は行為がなされないことは日常的に頻繁にあるからだ。殺意があっても、実際に人を殺すことなどほとんどない。実際に「行為を遂行する理由」は、かなり狭く限定されたものになるはずだ。
タイプとトークン:非法則的な一元論
デイヴィドソンは、信念、欲求、意図のような心的なものは、厳密な物理的法則によって扱う領域ではないとしながらも、信念や欲求はたしかに行為を引き起こすと説明している。この関係をどう考えたらいいだろうか。デイヴィドソンはタイプ(type)とトークン(token)の違いに訴えることによってそれを説明している。特定の対象や出来事がある記述を与えられるとき、その個別の特殊者のことをトークンという。そして、そのトークンの集合を何らかの性質や何らかの記述によって共有する「種類」や「類型」がタイプである。ネコ科というタイプは、猫であるという性質を有する特殊者(トークン)の集合だ。
トークンは、特殊者として様々な記述が可能である。だが、まったく同じ対象がネクタイであると同時に誕生日プレゼントであると記述できるからといって、すべてのネクタイは誕生日プレゼントであるとか、すべての誕生日プレゼントがネクタイであるとはいえない。同じようなことが特定の心的出来事についても当てはまるだろう。たとえば、「疑念」という私の現在の信念(トークン)がある種の脳状態という物的出来事であるからといって、「疑念」という信念はすべてこのタイプの脳状態と同一でなければならないとか、このタイプの脳状態の個別例(トークン)は、すべて「疑念」という信念のタイプと同一であると考える必要はない。信念や欲求と、脳状態や神経生理的な状態との間には、一対一の対応関係は存在しないのである。ある個別的な心的状態は物理的状態と同一であるとしても、心的状態のタイプと物的状態のタイプの間にはいかなる関連もない。もともと信念や欲求は、全体論的なものであり、その一部分をとって、ある物理状態と対応させることなどできないというのが、デイヴィドソンの考えである。もっともな見解だろう。デイヴィドソンは、この理論を「非法則的な一元論」と呼び、心身問題に関する自分自身の立場としている。つまり、心と身体(心理状態と物理状態)は同一であるが、そこに厳密な法則性を見出すことはできないという立場である。これは哲学的な論証を抜きにすれば、われわれが持っている直観に近いのではないだろうか。
アスガー・ファルハディ監督『ある過去の行方』
イラン人監督、アスガー・ファルハディの『ある過去の行方』(2013)ほど、意図と行為、出来事の因果関係というものを深く考察している映画はあまりない。映画のプロットはかなり普遍的だ。登場人物の固有名を使わず、確定記述によって個人を示すこともできるだろう。
① 女主人公(マリー=アンヌ)を起点とするなら、妻であり、四年前にフランスを去ったイラン人の夫がいる。
② 夫(アーマド)は、パリで離婚調停を行なうためにイランから再度フランスにやって来る。劇中二人の離婚が成立するので、その後二人の関係は元妻/元夫となる。妻は薬局で働く薬剤師、夫の職業はわからない(おそらくは映画の仕事)。
③ 妻には二人の姉妹の連れ子(姉リュシー、妹レア)がいる。
④ また、夫には知らせていないことだが、妻には現在恋人(サミール)がいる。彼はパリ市内でクリーニング店を営んでいる。
⑤ その恋人の連れ子(息子)がパリ郊外の彼女の自宅に同居している。
⑥ この映画のなかで直接には描かれない重要な出来事がある。映画があたかもその不在を巡って展開される過去の出来事とは、サミールの妻の自殺未遂だ。彼女は病院で植物状態(遷延性意識障害)のまま半年寝たきりである。
『ある過去の行方』を意図、行為、理由という観点から見る
参考映像:アスガー・ファルハディ監督インタビュー映像
(1)われわれが「理由」を求めるのは、ある行為を再記述することによって、理解しがたい行為を理解できるものにしたいからだ。このような因果的説明は、デイヴィドソンが言うように出来事の記述の仕方に大きく左右される。この映画では、サミールの妻の自殺未遂という出来事を巡って、周囲の人間がそれぞれの立場から、それを再記述する様子がつぶさに描かれている。
(2)元夫は義理の娘(リュシー)から、サミールの妻が自殺未遂をはかったのは、自分たちの不倫が「原因」なのではないかと元妻が恐れているということを聞かされる。事態が一変するのは、娘が一種の告白を行なうことによってである。娘は、母親とサミールがやりとりしているメールをサミールの妻に送りつけていたのだ。それこそが、サミールの妻を自殺に追いやった真の「原因」であると娘は思っている。娘はそのことにずっと自責の念を感じていた。
(3)二人の男、元夫のアーマドも恋人のサミールも、サミールの妻がなぜ自殺未遂を犯したのか、その本当の理由を知りたい(別々の理由からではあるが)。似たところのある二人の男の対決は興味深いシーンになっている。走る車の中でサミールが言う。「自分の母親の浮気が原因だと娘が信じているなら、それは勘違いだ。」サミールはその「原因」をある客とのトラブルに求める。だが、もっと根本的な理由=原因は妻が鬱病であることである。「鬱病じゃなければあんなことで自殺はしない」と。サミールが信じている(信じたいと思っている)鬱病は、妻の自殺未遂の直接的な原因なのか、それとも原因を構成する前提条件のひとつにすぎないのか。
(4)過去について、次々と新しい事実が語られる。娘は、サミールの妻が自殺未遂する前日クリーニング店に電話をして、サミールの妻と話していた。すぐさまサミールの脳裏に疑惑が浮かぶ。妻はその日クリーニング店にはおらず、そんな電話の会話などあり得ない。そうだとすれば、娘が話した相手とはいったい誰か。なにかに気づいたサミールは、女性従業員に問いただす。女性従業員の名前はナイマ、アフリカ系の不法就労者である。サミールは電話の相手がナイマであり、彼女が娘にメールを送らせたのだと確信する。「(なぜやったのか)理由を言え」と彼女を問いつめる。ナイマは奥さんの耐え難い嫉妬が「原因」だという。滞在許可書のない自分をサミールが雇ってくれたから、奥さんは自分たちのことを疑っていた、と。しかし、ナイマは奥さんが植物状態なのは自分の所為ではないとも言う。なぜなら、奥さんはメールを読んではいなかったと推測できるから。メールを読んでいたら(マリー=アンヌの職場である)薬局で自殺するか、サミールの前でするはずだ。自分の前で洗剤(毒物)を飲んで自殺を図ったのは、自分に対する当てつけだ、と。
(5)デイヴィドソンが「行為のための理由」と「行為を遂行する理由」を区別していたことを思い出そう。サミールの妻が自殺を行うための理由は、鬱病、客とのトラブル、嫉妬、従業員に対する当てつけといろいろに考えられるが、それこそが自殺未遂を引き起こしていなければならない理由とは何だったのか。サミールはナイマの話を聞いた後、困惑し、その確信を失う。多くの場合われわれは、行為の主たる理由を示すのに、その行為者の信念と欲求と意図、すなわちその人の傾向性を考慮することによってそれを行なう。ところが、サミールの妻は偶発的な誤解によって、つまり彼女の信念や欲求とは必ずしも相容れないような不測の意図によって一瞬にして死を選んだのかもしれない。そして、自殺とはこのような事情のもとにあるのではないかと想像できる(「不合理な原因」)。
(6)注目すべきは、登場人物の多くが、サミールの妻がすでに死者であるかのように、自殺未遂ではなく「自殺」という言い方を頻繁に口にすることだ(幼い息子でさえそうする)。彼女の行為は、あらかじめ彼女の死に先駆けて「自殺」と見なされている。これは行為の記述を圧縮しようとすることだ。だが、彼女が死ぬ以前にそれを自殺として記述するのは不可能である。ラストシーンでベッドに横たわる彼女の姿は、再記述を打ち切ることをかたくなに拒否しているかのようだ。また、彼女の破壊された脳状態を、心的には無であると断じることはできないだろう。とはいえ、かろうじて幹脳の機能だけが生きていること(植物状態)を、特定の心的状態と結びつけることも難しい。
(7)ラストの直前のエピソードは、映画全体のプロットをミニマルに反復するジョークだろうか。映画の冒頭から話題になっていた元妻が手首に包帯を巻いている理由について、元夫はてっきり部屋のペンキ塗りで疲れたせいだと考えていたのだが、彼女は妊娠していてカルシウム不足だからだと答える。表面的な理由と根本的な理由の違い。行為のための理由と行為を遂行する理由。だが、理由を問うことは、必ずしもひとつの行為の説明だけでは終わらない。過去の様々な行為と疑念を巻き込んでしまうのだ。
文献一覧
ドナルド・デイヴィドソン『行為と出来事』(服部裕幸・柴田正良訳)勁草書房、1990年
ドナルド・デイヴィドソン『合理性の諸問題(現代哲学への招待 Great Works)』(金杉武司他訳)春秋社、2007年
サイモン・エヴニン『デイヴィドソン 行為と言語の哲学』(宮島昭二訳)勁草書房、1996年
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』(丘沢静也訳)岩波書店、2013年
田辺秋守プロフィール
日本映画大学 教授、専門は現代哲学・現代思想・映画論。
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボッフム大学、ベルリン自由大学留学。
著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。共訳書に、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス著「フランスの現象学」(法政大学出版局、2009)。
『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。WEBではCinemarcheで講義「映画と哲学」を連載。