連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第57回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年6月25日(金)よりアップリンク吉祥寺、7月23日(金)よりアップリンク京都で公開される映画『ボディ・リメンバー』を紹介いたします。
1人のミステリアスな女性をめぐり2人の男たちが迷い込む虚実被膜の物語。この構造に仕掛けられた3つの罠(見どころ)を示すことで、納得のラストに向かうための彼らの足取りを照らしていきます。
映画『ボディ・リメンバー』のあらすじ
小説家のハルヒコ(柴田貴哉)は新作の着想を得るため、恋人のリリコ(鮎川桃果)と一緒に従姉のヨウコ(田中夢)からある体験談を聞き出します。
それは3年前の夜の出来事。ヨウコが夫のアキラ(奥田洋平)と営んでいるバーに、学生時代からの共通の親友である弁護士のジロウ(古屋隆太)が訪れ、久しぶりに杯を交わします。
再会の高揚感に酔いしれながら、他愛もない昔話で盛り上がる3人でしたが、ふとした瞬間に妙な緊張感が漂います。
実はヨウコとジロウは愛人関係にあり、アキラが目を離した隙をついて2人は抜け出し、高架下で体を重ねます。
アキラはその様子を陰から黙って見つめていました……。
ヨウコ、アキラ、ジロウの3人をモデルにさっそく小説を書きはじめるハルヒコ。
ストーリーが進むにつれヨウコにのめり込んでいく彼の心情をあらわすかのように、映画も徐々に虚実の境を見失っていきます。
つまり、「A.ナレーション(小説の語り)」と「B.インタビュー(現在)」と「C.過去の再現(劇中劇)」とが混ざり合っていくのです。
一方で、リリコは“現実”の世界(B)にハルヒコをつなぎとめようと、ヨウコの過去(C)の調査に乗り出します。
しかし小説(A)は、いよいよハルヒコをヨウコの相手として登場させ、“情事”の結末は混迷を極めていきます。
罠1「映像と音」
一見すると、この重層的な構造や幻惑的な雰囲気を醸し出す華美な映像に目を奪われますが、ABCの変化・融合をもっともよく演出しているのは「音」です。
小説内のアキラとジロウのラストをイメージ化した冒頭の映像から、地鳴りのように響く不気味な効果音は、デイヴィッド・リンチ監督が描くような異世界を予感させ、つづくシーンでは実際に運転席の視点からゆらめく車道を映すという『マルホランド・ドライブ』(2001)さながらの入り口が用意されています。
その道がどこに通じていくのか、あるいは“ドライブ”がどこに向かうのかを知るためには、まず「耳」が役に立つでしょう。
風、時計の針、ハザードランプ。それらが音を立てるとき、ABCのいずれかが支配的になるスイッチが入ります。
とくに銃(声)は重要な音で、本作の最初と最後である変化を遂げており、それが彼らにとっての1つの答えになっています。
罠2「夢と現実」
一方で視覚的には、ヨウコの記憶は「映画の劇中劇」に、ハルヒコの夢は「小説の映画化」にみえます。
しかも、リリコが疑うように記憶自体が信用できないものだとすれば、観客の目に映るのは「フィクションのフィクション化」とでもいうべき映像であり、これは非常に強度をもった作品だといえます。
山科監督も主題の1つに“真実とは何か”という問いを掲げており、単純に事実を積み重ねていっても、答えにはたどりつけないことが示唆されています。
そこで頼りになるのは、ヨウコあるいはハルヒコにとっての「現実感」です。
すなわち、真偽はさておき“現実感のない現実”と“現実感のある夢”とでは、当人にとってどちらがよりリアリティがあるか? という問題です。
ハルヒコの小説では、離婚したヨウコとハルヒコが再会し仲を深めていくのですが、これは映画上のターニングポイントとなります。
記憶を引き継いだハルヒコが、自分にとって手触りのある現実を探しだします。小説にならえば三人称から一人称への移行です。
AとBの境界が揺らいでいるのか、奇しくもハルヒコとおなじ夢を見てしまったリリコは危機感を募らせ、ヨウコは現実から逃れるために夢を見ていた(嘘をついていた)ということを、自分の過去を引き合いに出してハルヒコに伝えます。
しかし、まさにこれこそが事の本質を捉えているのです。
夢は“現実逃避”だという見方に対して、逃げ出したい現実を支えてくれる夢で現に生きられるのであれば、それは“現実の話”だといえるのではないでしょうか。
この意味で夢は現実の一部であり、真実は「両者をつなぐもの」にあることがわかります。
罠3「言葉と身体」
夢と現実が交差する場所。それは「身体」です。身体だけは、確かなリアリティを持ちながら作中に存在しています。
ABCの境界が入り混じる世界のなかで、ヨウコは“彼らの痕跡も私のもの”と語ります。
「痕跡」とはおもしろい言葉で、“かつてあったこと”と“いまはないこと”を同時に証明するものです。
あるとも、ないともいえない両義的なもの。まさに記憶のようですが、身体にはそういった痕跡が、五感を伴って刻まれています。
フィクションが幾重にも織り交ぜられた時空で、役割も設定も見失いカメラの前に立つ俳優たちは、逆にその強烈な身体性を暴露します。
俳優としてのキャリアも積んできた山科監督が追求したもう1つの主題、“俳優が映画から自立する作品”とはこのことです。
ハルヒコが作家として掲げる「あやふやなものを言葉にしたい」という願いは、映画として「リアリティある身体」に込められています。
事実を救済する真実
いわゆる“演技”から解放された本作は、結末さえ自由に変える力を宿しています。
ヨウコの浮気を知ったアキラは、ジロウとどう向き合っていくのか。
彼らの関係を自身に重ねて答えを求めていたハルヒコは、当初あるラストをイメージしていましたが、リリコがいま隣で生きているのにも夢の力が関わっていたことを知り、物語が真に向かうべき方向を模索しはじめます。
ここで言えることは、事実を求めれば“死んだ現実”に辿り着くところを、真実に舵を切ることで“生きた夢”に変えることができた、ということです。
そのなかで、語りの真偽にかかわらず、ヨウコという存在も丸ごと救われます。
それはハルヒコあるいは監督の強いメッセージとして、「物語の救済=真実の提示」こそが創作者の使命であり、俳優の特権であるのだと説いているようです。
そして、罰が与えられうるジロウが弁護士であることを思えば、最終的には観客自身が裁判官となって、登場人物たちを救済する真実を見つけられるかどうかが問われています。最後まで目を離さずにご覧ください。