連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第27回
こんにちは。森田です。
中島哲也監督の新作『来る』が、異色のホラー映画として、12月7日の公開直後からさまざまな解釈をされています。
「ぼぎわん」とはなにか、退治は成功したのか、そもそも本作はホラーなのか否か……。
ここでは登場人物たちに襲いかかった恐怖に、村上春樹作品の補助線を引き、彼らが「なにと戦ったのか」を解き明かして、「闇の時代」に生き残る方法を考えてみたいと思います。
CONTENTS
映画『来る』のあらすじ(中島哲也監督 2018年)
『告白』『渇き。』などで知られる中島哲也監督の最新作。「第22回(2015)日本ホラー大賞」で大賞に輝いた澤村伊智の小説『ぼぎわんが、来る』を映画化しました。
悪い子どもを山にさらう化け物“ぼぎわん”が、名状しがたい邪悪な力=“あれ”をふりかざし、中心となる3組の人間たちの命をねらいます。
1組目は田原秀樹(妻夫木聡)と香奈(黒木華)の新婚夫婦。間もなくして生まれた娘の知紗(志田愛珠)にも取り憑くようになり、彼女は物語の鍵を握る存在になります。
2組目は民俗学者の津田(青木崇高)で、怪異現象に見舞われるようになった秀樹が、旧友のよしみで相談を持ちかける相手です。彼はそこで、オカルトライターの野崎(岡田准一)を秀樹に引きあわせます。
3組目はその野崎と同棲中で、強い霊感をもつキャバ嬢の真琴(小松菜奈)です。野崎は彼女を秀樹に紹介するものの、秀樹自身が絶命してからは真琴とコンビを組んで除霊に取りくんでゆきます。
しかしながら、真琴の姉で、日本で最強霊媒師と目される琴子(松たか子)の力をもってしても、“あれ”の禍々しい力を簡単には押さえることはできません。
中島哲也監督と川村元気プロデューサーの意図
当然、“あれ”の正体や目的が気になるところですが、まずは姿かたちがはっきりしている側に目をむけること、すなわち戦う対象(化け物)ではなく主体(人間)を観察してみることはできます。
制作者の立場からも、パンフレットのインタビューでこう述べられています。
中島監督「今回はホラー映画を作ったんだという感覚は、正直自分にはあまりないんですよね。ただただ描きたいのはキャラクター、『人間』の面白さなんです」
川村プロデューサー「たいていの事象がGoogleで検索できる時代になっても、消えない感覚ってありますよね。(…)それってすごく人間的で面白い。情報化がその形式も含めて加速的に進化するなかで、目に見えないものの存在感や価値って、逆に高まっているとも感じるんです」
ここからわかるのは、作品の中心は「人間」であり、彼らが生きる現代という「時代」であること。
それでは、「目に見えないもの」と「時代」とのかかわりからみていきましょう。
これから闇になります
琴子を筆頭に“あれ”を退治するための多くの神職や巫女が問題のマンションに集います。
そのなかで、琴子がとりわけ信頼をおく霊媒師が、逢坂セツ子(柴田理恵)です。
彼女は秀樹たちが住んでいた部屋にあがり、“秀樹”と会話し、その手の甲にナイフを突き刺して、彼がすでに亡くなっていることを告げます。
「痛みがない」ことに悶絶し、自分のいるべき世界へと帰ってゆく秀樹。それを驚きながら見ていた野崎に対し、セツ子はこう語りかけます。
「これから闇になります。信じられるのは痛みだけです」
この言葉が、夜が来る、以上の意味をもっていることは明らかです。
それはおそらく、現実を脅かすような“闇”でしょう。そもそも“あれ”が“来る”のは、日常に“裂け目”が生じ、その境界に弱いところ=人間の寂しい心が存在するからです。
現代は先の見えない「暗い時代」といわれますが、セツ子のいう「闇」の意味をいま一度考えてみる必要があるようです。
村上春樹の短編集『神の子どもたちはみな踊る』から
映画『来る』の人間たちを取り巻く環境を整理してみます。
“あれ”は姿をもたず、合理的な理由もなしに、現実的な暴力を人間たちにふるってくる。
人間たちはそれに対してある程度の備えはできるが(お守り、鏡や刃物など)、完全に予測したり、猛威自体を無化したりすることはできない。
正体を隠したまま、比喩ではなく実際に命を奪える力といえば、自然災害が思い浮かびます。なかでも、物理的にもっとも強大なものは「地震」です。
村上春樹の小説に、地震という不条理な存在を“あれ”として描いた短編集があります。
“after the quake”の英題をもつ『神の子どもたちはみな踊る』(新潮社、2000年)は、もちろんホラー小説ではありませんが、映画『来る』を読み解くうえで役に立つ世界観を共有しています。
それを収録作「かえるくん、東京を救う」と「蜂蜜パイ」からみてゆきます。
毛虫とみみず
「かえるくん、東京を救う」は、文字どおり蛙が東京を壊滅から救うために、地震を防ごうとする物語です。
人間の片桐と手を組んで、地震を起こす“みみずくん”と戦うのですが、“かえるくん”の説明によればこのような存在です。
「みみずくんは地底に住んでいます。巨大なみみずです。腹を立てると地震を起こします」とかえるくんは言った。「そして今みみずくんはひどく腹を立てています」新潮文庫 P160
いったいなにに怒っているのかと、片桐は尋ねます。
「わかりません」とかえるくんは言った。「みみずくんがその暗い頭の中で何を考えているのか、それは誰にもわからないのです。みみずくんの姿を見たものさえ、ほとんどいません」P161
これは“ぼぎわん”が、「悪いことをした子どもをさらう」と言われながらも、その動機がわからないことと似ていますね。
「彼はただ、遠くからやってくる響きやふるえを身体に感じとり、ひとつひとつ吸収し、蓄積しているだけなのだと思います。そしてそれらの多くは何かしらの化学作用によって、憎しみというかたちに置き換えられます」P161
“ぼぎわん”の“憎しみ”も、このようなものではないかと推察されます。蓄積された負のエネルギーが、闇の時代の“裂け目”をついて放出する。
そこで遣わされるのが「毛虫」でしたが、それも「みみず」のイメージと類似性があります。
かえるくんは最終的に「闇」のなかで片桐と戦い抜き、勝利をおさめます。
こちらは、かえるくんがジョセフ・コンラッドが書いたものとして、片桐に贈った言葉です。
「真の恐怖とは人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」
オムライスと蜂蜜パイ
つづく「蜂蜜パイ」では、映画『来る』における田原の家族(秀樹と香奈と娘の知紗)との相似が確認できます。
知紗は両親が不仲であることに傷ついてか、その寂しさを“あれ”と戯れることで紛らわせ、いつしか“あれ”を支配し、また支配される関係を築いてしまいます。
一方で「蜂蜜パイ」に登場する5歳の沙羅も、ある化け物におびえていました。
母親の小夜子は、旧友の淳平にこう説明します。
「沙羅は、知らないおじさんが自分のことを起こしに来るんだっていうの。それは地震男なの。その男が沙羅を起こしにきて、小さな箱の中に入れようとするの」
「それで沙羅が入りたくないというと、手を引っ張って、ぽきぽきと関節を折るみたいにして、むりに押し込めようとする。そこで沙羅は悲鳴を上げて目を覚ますの」P196
“地震男”なる存在がやって“来る”。それはホラーさながらの恐怖を沙羅に与えているようです。
淳平は阪神淡路大震災を映すテレビの影響を指摘するも、小夜子によれば見なくても「地震男はやってくる」とのこと。
知紗が両親の不和をかぎとっていたように、沙羅も言葉にできない“なにか”を親に感じとっていたのでしょうか。
じつは淳平と小夜子は、学生時代から互いに想いを寄せていたにもかかわらず、共通の親友である高槻が彼女と結婚し、沙羅を授かったあとに離婚したという過去がありました。
高槻は一流の新聞社に就職をし、家族という“幸せ”まで得ながらなぜか浮気し、家庭を捨ててしまいます。
淳平と小夜子はいまこそ結ばれるべきタイミングかと思いきや、踏ん切りがつかない状態が長くつづいていました。
「たぶん小夜子は彼の申込みを拒まないだろう。それもよくわかる。しかしあまりにも絶好すぎる、と淳平は思った。(…)彼は迷い続けた。結論は出なかった。そして地震がやってきた」P222
“あれ”の非情な暴力に直面し、淳平は心を決め、小夜子に告白。ふたりが抱きあったところに、また沙羅が言いに来ます。
「おじさんがここに来るように言ったの」と沙羅は言った。
「地震のおじさん」と沙羅は言った。「地震のおじさんがやってきて、さらを起こして、ママに言いなさいって言ったの。みんなのために箱のふたを開けて待っているからって」P233
それでも“地震男”は“来る”のです。“ぼぎわん”がいつでも人間の弱い部分をねらっているように、不気味な箱を開けながら。
淳平は決心します。
「相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても」P237
現実を囲う境界が見づらい「闇」のなかにあっても、ひたむきに「夜明け」を望む淳平。
「これまでとは違う小説を書こう、と淳平は思う。夜が明けてあたりが明るくなり、その光の中で愛する人々をしっかりと抱きしめることを、誰かが夢見て待ちわびているような、そんな小説を」P237
“蜂蜜パイ”とは淳平が沙羅に語り聞かせた2匹の熊のおとぎ話に出てきて、知紗が大好きな「オムライスの国」を夢見たように、互いが互いを必要とする象徴として、一緒につくられるものです。
闇の時代における生き方の3パターン
淳平の決断は、子どもと向きあえず、孤独を抱えて生きてきた野崎と真琴のふたりが、穢れを負った知紗をあの世に返さずに現世に引きとめた選択と通じています。
それは圧倒的な暴力を前に、勝つことはできなくても、自他の痛みを共有しながら、負けない状態を目指すこと。
改めて、野崎と真琴が生き残り、田原夫婦と民俗学者の津田が“あれ”に飲みこまれてしまった差異を探り、「闇の時代」をサヴァイブするための姿勢をうかがってみます。
秀樹と香奈 他人を生きる
秀樹は演じた妻夫木聡さんも言うように、“薄っぺらいやつ”にみえます。
結婚や出産、そして育児。その過程を逐一ブログにつづり、みずからの幸せを他人に誇示しなければ“幸せ”を実感できないタイプです。
しかもその“幸せ”というのもまた、世間一般を基準にしており、「パパの夢は?」と書いたところで言葉に詰まってしまいます。
よく考えればわかりますが、他人がうらやむような幸せをなぞり、それを他人に示して満足を得るとなると、中心は空っぽです。その幸せは常時、上滑りしています。
「ほしいものが、ほしいわ。」
これは1988年の西武百貨店のコピーですが、「自分の欲望は他者の欲望」であることを、よくあらわしていますね。
“あれ”はその「空洞」に入りこんだのです。
秀樹が心身に変調をきたし、妻の香奈も育児ノイローゼのようになり、そのストレスが娘の知紗に伝わり、強大な暴力を招いたわけです。
ここで学べることは、まず自分の内面を「自分の言葉」で埋めることの重要性です。
津田 悪を生きる
一方で秀樹の友人の津田は、“借り物”の陳腐さをよく理解している人間で、世の中がいい加減なら、自分も悪徳に生きて享楽を味わってやろうとするタイプです。
作中では秀樹の相談に乗るふりをして香奈に近づき、秀樹が亡くなってからはより頻繁に彼女と逢瀬を重ねて、知紗を放棄する状況をつくり出します。
津田が最終的に“あれ”の餌食になったのは、人を利用しようとするばかりで、人を心から求めようとしなかったからです。
馬鹿らしいほど辛い時代においては、他人を馬鹿にし自分は孤独に生きるほうが得策に思えます。
しかしそれは、単に傷つくことを恐れているともいえ、その恐怖に“あれ”はつけこんできました。
野崎と真琴 痛みを生きる
そうなると、野崎と真琴はみずからの「傷」をもって「闇」を通り抜けたことがみえてきます。
一見、無頼漢のような野崎は、過去に恋人に堕胎をせまった過去から逃れられずにいました。
真琴は偉大な姉に少しでも近づこうと、神傷を装って自傷行為をしています。またそのせいで、子どもが産めない身体になっています。
そのふたりが、再び苦しい思いをするかもしれないけれど、痛みこそ生きている証であると(野崎は“あれ”を祓う最中にナイフで自分を刺します)、化け物の息のかかった子どもを抱きしめます。
そう、蜂蜜パイの淳平が「相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない」と決意したように。
痛みを信じて生きよ
セツ子の忠告どおり、闇のなかでは「信じられるのは痛みだけ」だったことが、作中では明かされました。
痛みを信じるとは、他人を信じることです。
自分を見つめ、人と向きあうことは、絶えず傷を負う覚悟をもって生きることになります。
姿のみえない圧倒的な暴力と戦う際には、出来あいの物語に逃げこんだり、斜に構えて外から眺めたりしたくなりますが、それではまさしく現実逃避。
揺れる大地を、他人と痛みを分かちあって固め、どんな状況でも「現実」を守り抜く姿勢が問われています。