連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第20回
こんにちは、森田です。
今回は『カメラを止めるな!』につづき“感染拡大中”の映画『若おかみは小学生!』のヒットの要因を分析してみます。
9月21日に公開して以来、おもに口コミで評判が広がり、新規上映や再上映が相次いでいるアニメーションです。
一見、絵柄からして「子どもむきでは?」と感じられる本作が、なぜ老若男女を問わず支持を受けているのか。
その理由を考えていきましょう。
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映画『若おかみは小学生!』のあらすじ(高坂希太郎監督 2018)
原作は児童書作家、令丈ヒロ子による児童文学シリーズ。
2003年から2013年にかけて、講談社青い鳥文庫より全20巻が刊行されました。
交通事故で両親を亡くした小学生6年生の少女・おっこ(CV:小林星蘭、以下同)が、祖母の営む旅館「春の屋」に引きとられて「若おかみ修行」をすることに。
旅館に住み着く幽霊のウリ坊(松田颯水)、美陽(遠藤璃菜)、小鬼の鈴鬼(小桜エツコ)たち、そして劇中で訪れる3組の客との出会いを通し、成長の契機をつかんでゆきます。
具体的には現在の「喪失」を共有し、未来の「成熟」を直観し、過去と「和解」を果たすという過程です。
この普遍的なビルドゥングスロマン(自己形成物語)は、2018年6月に開催された「アヌシー国際アニメーション映画祭」のコンペティション長編部門に正式出品されました。
アニメーション映画祭としてはもっとも長い歴史を持つ同映画祭では、2008年に『つみきのいえ』(加藤久仁生監督)が短編部門のグランプリに輝いたことで、話題になりましたね。
また、韓国の第20回プチョン国際アニメーション映画祭においては、優秀賞と観客賞をW受賞。
これらの評価は、質の高さを裏づけるひとつの指標になるでしょう。
ジブリ作監の高坂希太郎 × 『聲の形』脚本の吉田玲子
監督は、長年スタジオジブリ作品の作画監督を務めていた高坂希太郎。2007年に発表した短編アニメ『茄子 スーツケースの渡り鳥』以来、11年ぶり初の長編監督作となります。
そして脚本を担当するのは、『映画 聲の形』(2016)、『リズと青い鳥』『のんのんびより ばけーしょん』(2018)など、少年少女たちの繊細な心理描写に定評がある吉田玲子。
ジブリで培った技術と思想を持つ高坂監督が、みずみずしい脚本を書く吉田玲子とタッグを組む。
まずはこの事実だけで、世評の高さとヒットの一因をうかがいしれます。
「少女と風呂と仕事」の前例 『千と千尋の神隠し』
「小学生が温泉街の旅館で修行をする」という筋書きは、「少女が湯屋に雇われ親のために働く」物語である『千と千尋の神隠し』(2001)を想起させます。
高坂監督は『千と千尋』で作画監督を担っており、その主題と宮崎駿監督の思想に影響を受けていることは間違いありません。
千尋は、入湯を拒否されるほど汚れた来客(神=マレビト)の面倒をみて(1)、「カオナシ」というバケモノとつきあいながら(2)、みずからの働きで湯婆婆と敵対関係にある少年ハクも救い(3)、最後に現世に戻るための選択をします(4)。
一方でおっこも、「花の湯温泉は誰も拒まない」という教えにしたがいどんな客でも最善のもてなしをし(1)、ユーレイや鬼たちと交流しながら(2)、事故の加害者である家族までも受け入れ(3)、被害者の立場をこえた「若おかみ」としての一歩を踏みだします(4)。
高坂監督が人間の成長を見つめるこの視点は、監督デビュー作の『茄子 アンダルシアの夏』(2003)からすでにあらわれていました。
映画『茄子 アンダルシアの夏』(高坂希太郎監督 2003)
ヨーロッパ3大自転車レースのひとつ、スペインの“ブエルタ・ア・エスパーニャ”を題材にした本格自転車アニメーションです。
舞台はスペイン・アンダルシア地方。炎天下のなか過酷なレースが繰り広げられています。
主人公のペペ(大泉洋)にとっては、スポンサーからの解雇をちらつかされた背水の陣です。
負けられない戦い。やがてレースは故郷の村にさしかかります。
彼は以前、兵役中に地元の恋人を兄に奪われていて、そのショックから生まれ育った町を飛びだしていました。
村の教会では今まさにその結婚式が。人生を賭けた大一番に、自分の過去が交差することになります。
「奪った者」との和解
ペペの成長が確認できるのは、兄と元恋人を赦すのでも拒むのでもなく、自分を応援すること、自分と並走することを“受け入れる”という姿勢です。
これは『若おかみ』のおっこが、事故の加害者を旅館に招き入れた決断にも共通しています。
つまり、「自分の仕事」を見つけることで、「自分の大事なものを奪った相手」を受容できるようになったといえます。
これが高坂監督の考える「成長=自立」の構図でしょう。
高坂監督が込めた想いと成長へのステップ
監督自身も、公式パンフレットに自分の考えを明かしています。
「おっこという主人公は、自分の存在を前へ出していくキャラクターではないんです。むしろ自分を引っ込めて、お客さんのために頑張れるキャラクターなんです。人の影響もうけやすくて、オープンな心のキャラクター。そこが原作の魅力だと思ったので、そこを表現することを一番の目標にしました」
よく「成長」というと「自己実現」に近いイメージが脳裏をかすめますが、実際のところは「だれかのために」動いたことが自分にかえってくる軌跡ではないでしょうか。
「自己とは他己」とまで表現してしまうと言いすぎかもしれませんが、“自己を引っ込める”ように他者に適切に応対していった結果、“自己があらわれる”ことには極めてリアリティがあります。
「自己」は自分だけでは見つけられない。他者とのかかわりのなかでみずからの存在が開示される。
その最たる例が「仕事」であることを、高坂作品は教えてくれます。
おっこと3組のお客 成長の過程で見たもの
おっこは3組の接客を経て「自己」を獲得してゆきます。
最初は母親を亡くしたばかりの親子、神田家を迎え入れたとき。
娘のあかね(小松未可子)は当初、かたく心を閉ざしていたものの、おっこが元気づけようとつくった温泉プリンを食べてだんだんと元気に。
2組目の占い師、グローリー・水領(ホラン千秋)も恋人にふられて傷心していましたが、おっこが懸命に働く姿に触発され、やる気をとり戻します。
そして、事故の加害家族と図らずも対面したのが、3組目です。
病院食に飽き飽きとしていた父親・木瀬文太(山寺宏一)のために、減塩・低カロリーながら味が濃く感じられる料理を考えるおっこ。
その課題が果たされたあと、彼が交通事故をおこした運転手であることに気づきます。
家族のほうもいたたまれないでしょう。当然、文太と妻はすみやかに去ろうとしますが、事情を知らない息子だけが帰らないと駄々をこねる始末。
おっこは、そんな3人に対してこのように語りかけます。
「花の湯温泉は誰も拒みません。どうぞ、泊っていってください」
「現実」を見つめ、「未来」を見通し、「過去」をふり返る
一連の出会いは「現在」と「未来」と「過去」を象徴している。
そう、高坂監督は前掲のパンフレットに記しています。
「たとえば最初のお客さん、神田あかねはおっこと同い年で、『現在のおっこ』と同じ悩みの中にいるキャラクターです。2番めのお客さんの占い師、グローリー・水嶺は『未来のおっこ』です。彼女が人のために占うように、おっこは人のためにおもてなしをしている」
すなわち、おっこはまず「現在=あかね」と向きあい、つぎに「未来=水嶺」を目標に自己を形成していったといえますね。
でも、それだけではまだ不十分なようです。
「そして3番目のお客さん、木瀬文太の息子・翔太は『過去のおっこ』です。おっこが『現在のおっこ』の背中を押す。『未来のおっこ』がおっこを抱きしめてあげる。そして、おっこが『過去のおっこ』を抱きしめてあげる。そういう形でおっこの姿を描ければと考えました」
「過去=翔太」を抱擁してはじめて、彼女は「成長した自分=若おかみ」の像を手に入れられた、そんなプロセスが確認できます。
さきに「未来」に出会うのが肝で、「大人=将来の自分」にされてありがたかったことを「過去」に恩返ししたかたちです。
また高坂監督は、文太に関してもこのように言及しています。
「彼は、自分の代わりなんかいくらでもいると思いながら働いている人でもあり、それがおっこの一生懸命な接客で、自分を受け止められていると感じる」
文太はトラックの運転手です。監督の言葉によれば、そこに「代替可能性」が見いだせます。
おっこが「仕事」によって「自己」を発見したように、文太もまた「おっこの仕事」によって「疎外されていた自分」に近づけるようになったということです。
まさしく、「仕事」は自他ともに「かけがえのない存在」を与えてくれるものとして機能しているのがわかります。
被害者と加害者をつなぐ神楽と温泉
被害者と加害者の垣根を越えられる場の重要性。
このメッセージは、物語の最初と最後に描かれた「神楽」にもみてとることができます。
花の湯温泉街では、町の子どもが神社で舞う神楽が毎年の恒例となっており、おっこは事故の前に両親と見て、若おかみとなった後に舞台に立ちます。
神楽とは神に歌舞を奉納する神事ですが、この町では温泉の起源とともに伝承されてきました。
言い伝えによると、村人が村の子どもを殺めた山犬を追うなかで怪我を負い、山中で見つけた温泉につかり傷を癒すことにはじまります。
しかし、そこには山犬も入っていました。
仇討ちすべく追跡してきた村人は弓をひいたものの、ついに射ることはできません。
この設定に、おっこと文太の関係が重ねられていることは、言うまでもないでしょう。
どんな者でも受け入れる花の湯温泉。
被害者はもちろんのこと、加害者も傷を抱えていることはたしかなはず。
両者を隔てる垣根の下には、それぞれが生きていることの事実、それを共有している現実が、静かに横たわっています。
赦さず、拒まず、受け入れる。
「仕事」を媒介にして、これほど高い倫理性を打ちだしたことが、本作を世界水準に押しあげた一番の要素です。
おっこと3人の幽霊 成長の先に見えなくなったもの
おっこが着実に「若おかみ」の姿になっていくにつれ、それまで自分を導いていたユーレイや鬼がよく見えなくなっていきます。
映画『異人たちとの夏』(大林宣彦監督、1988)や『ゴースト/ニューヨークの幻』(ジェリー・ザッカー監督、1990)などの定番お化け映画もそうですが、残された者が「内的な死」から回復するためにいったん異界へのチャンネルが開かれ、その危機を脱するとユーレイたちは消えていく“決まりごと”にもみえますね。
しかし本作は「退行」をともなう心理的なプロセスをなぞるばかりでなく、「神の領域に属していた少女が、人間の土地に根を張る」という大事な意味が込められています。
おっこが最後に子ども神楽を舞うことは、同時にもう神楽に立てないことを示します。
神に近い少女だけが許された奉納の歌舞は、また来年、別の児童に託されます。
つまり役目を果たしたおっこには、ユーレイや両親と通じる力はすでにありません。
しかし「神の力」を失う代わりに、彼女は「我を忘れて仕事をするときの力強さ」を得ています。
同様に、3人のユーレイは消えますが、彼らが結んだ3組の縁は現世に残りつづけます。
このさきおっこは、「人間が人間に捧げる舞=仕事」を使命とし、数々のミッションをこなしていくことでしょう。