ようこそ、愛と破滅の世界へ。
フィリピンのスラム街を舞台に、『岸辺の旅』『淵に立つ』の浅野忠信が扮する冷酷な殺し屋と、『闇のあとの光』のメキシコ人女優ナタリア・アセベドが演じる娼婦の逃避行を描いたクライム・ラブストーリー。
暴力に生きる罪人と、堕落に生きる娼婦。愛と破滅の先にあったのは救いのない結末と、あるはずの無いほんの僅か救いでした。
ノワール色に満ちた異色の恋愛映画『壊れた心』をご紹介します。
映画『壊れた心』の作品情報
【日本公開】
2017年(フィリピン・ドイツ合作映画)
【原題】
PUSONG WAZAK:Isa Na Namang Kwento Ng Pag-ibig Sa Pagitan Ng Puta At Kriminal
【脚本・監督】
ケヴィン・デ・ラ・クルス
【撮影】
クリストファー・ドイル
【キャスト】
浅野忠信、ナタリア・アセベド、エレナ・カザン、アンドレ・プエルトラノ、ケヴィン・デ・ラ・クルス、ヴィム・ナデラ
【作品概要】
マフィアが宗教と暴力によって支配するフィリピン・マニラのスラム街を舞台に、冷酷な殺し屋と組織に飼われていた娼婦の逃避行を描く、ベルリン国際映画祭で上映され注目されたクルス監督の短編作品を原案に制作された作品。
監督と脚本には、“フィリピンのデジタル映画の父”にして、第3期黄金時代に突入したと言われるフィリピン映画界を先導する鬼才ケヴィン・デ・ラ・クルス監督。
撮影には香港映画の名匠ウォン・カーウァイ監督の『恋する惑星』(1994)『ブエノスアイレス』(1997)などの撮影を担当したことで知られ、“生ける伝説”と称されるオーストラリア出身のクリストファー・ドイル。
主演にはハリウッドから日本のインディペンデントまで幅広く活躍し、国内外でその名演が高く評価されている浅野忠信。
映画『壊れた心』のあらすじとネタバレ
マフィアのボスであり新興宗教の教祖でもあるゴッドファーザーが支配する、フィリピン・マニラのとあるスラム街。
殺し屋は愛人や友人、そして暴力とともに日常を過ごしていました。
しかし殺し屋の「仕事現場」に偶然出くわしたのを機に、愛人は彼を突き放してしまいました。
やがて、殺し屋は一人の娼婦と知り合います。彼女が喉にバロット(孵化直前のアヒルの有精卵を茹でたもの。フィリピンの名物料理)を詰まらせた客を助けたにも関わらず八つ当たりされ、その手当てを殺し屋がしてあげたのがきっかけでした。
パレードの日。呑んだくれていた殺し屋は、愛人と娼婦が二人で踊る姿を見つめていました。
その後、情事に耽る殺し屋と愛人。しかし愛人の顔は娼婦へと変わり、果てる殺し屋。彼の心は娼婦へと移りつつありました。
映画『壊れた心』の感想と評価
本作は具体的な台詞をはじめ、台本がほぼ存在しない中での役者たちの名演。
そして名撮影監督クリストファー・ドイルによるスタイリッシュな映像。それだけでも驚きなのですが、この作品の魅力は決してそれだけではありません。
ストーリーの内容を端的に言ってしまえば、「罪を犯し続けてきた男が運命の女と出会ったことで自らの生活を省みて、そこからの脱却を試みようとするも悲劇的な結末を迎える物語」。
「ノワール物では」「ラブストーリーでは」という前書きをつけなくとも、非常にありふれた内容の物語だと勘違いしてしまいそうになりますが、映像の随所に散りばめられた宗教的イメージによって、そのありふれた物語の様相は変化してゆきます。
フィリピンはキリスト教徒、特にローマ・カトリック教会の信徒が多い国で知られています。
国民の90%近くがキリスト教徒であり、これは東南アジアの国々の中では珍しいのだそうです。
その理由はかつてフィリピンがスペインの植民地であったことに由来します。
フィリピン出身であるクルス監督が制作した本作にも、キリスト教にまつわる宗教的イメージが見られます。
聖母子像の絵画、ローマ教皇のような装いをした白人の客、燃え盛る十字架とそれに括りつけられた人形と、挙げればキリがありません。
特に、冒頭のオープニング・クレジットで提示される登場人物名は注目する必要があります。
殺し屋は「CRIMINAL」。「罪人」を意味します。
娼婦は「WHORE」。そのまま「娼婦」を意味しますが、マグダラのマリアをはじめ聖書には度々娼婦が登場します。また「邪教に迷う」と訳されることも。
そして極めつけは「ゴッドファーザー(GOD FATHER)」。キリスト教の伝統的な教派において、洗礼式に立会い、神に対する契約の証人となる人間のことを意味し、日本語では「代父」とも訳されます。
フランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」シリーズでご存知の方もいらっしゃるのでしょう。
そう、一見ノワール色のラブストーリーのように見えますが、実際は宗教叙事詩めいた物語でもあるのです。
さらに、劇中で描かれる幻想の風景。殺し屋は馬のマスクを被っており、娼婦は悪魔のような翼を生やしています。
馬の頭を持つ人間は、馬小屋で生まれた逸話で知られる「神の子」イエス・キリストそのものであり、悪魔のような翼はそのまま人々に堕落をもたらす悪魔を表しています。
しかし、たとえ悪魔の翼を生やしていたとしても、殺し屋にとって娼婦は自らの生活を省みる機会を与えてくれた救いの聖母に変わりありません。
聖女の衣を纏った娼婦の姿、そしてそれを脱いで淫らに客を誘惑する姿を敢えて映し出したのがその証明でしょう。
殺人を生業とするイエス・キリスト。悪魔の翼を生やし、男を堕落させる聖母。
エンディングで映し出される数々の新聞記事にもある通り、フィリピン国内の決して「良い」とは言えない治安や犯罪事情を絡めながら、クルス監督は「キリスト教へのアンチテーゼ」という形で「贖罪にして救いの物語」を提示したのです。
それは「壊れた心」、本作のエンディング曲の歌詞になぞらえるなら「壊れた魂」のための物語なのです。
まとめ
この感想レビューでは、特にキリスト教を通しての宗教的イメージを重視して作品解説をしましたが、本作にはキリスト教の他にも様々な宗教に基づくイメージが描写されています。
それらに気づき、新たな解釈へと辿り着いた時、『壊れた心』は新たな姿、もしかしたら貴方だけの姿を見せてくれるでしょう。
『壊れた心』、ぜひご鑑賞ください。