連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第59回
こんにちは、森田です。
今回は、2021年7月30日(金)より全国公開された『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』を紹介いたします。
シリーズ史上初の学園ミステリーにして集大成ともいえる本作のテーマを時事的に、かつ劇場版の歴史を踏まえて解き明かしていきます。
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映画『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園』のあらすじ
全寮制の小中一貫校「私立天下統一カスカベ学園」を舞台に、一週間体験入学することになったしんのすけたちの希望と不安が、一足先に迎えた彼らの青春ドラマとして描かれます。
幼稚園児のまま時が止まっているかのようにみえた作品世界に、いよいよそれぞれの進路選択の局面が訪れます。
みんなとずっと一緒にいたいけど、自分の人生もそこはかとなく気になり始めて揺れ動く心。
今回、この葛藤がもっとも先鋭にあらわれるのが風間くんであり、彼は「みんなで一緒に“天カス学園”に入学すること」を夢見て、かすかべ防衛隊5人そろって良い成績を収められるよう立ち回ります。
というのも、体験入学の優秀者には正式な入学資格が与えられることになっているからです。しかし、風間くんを除きいわゆる「エリート街道」に興味があるのは、誰もいません。
特に、いつもの調子で遊び呆けるしんのすけとは徐々に軋轢が深まっていき、大喧嘩の末、風間くんは夜中に寮を飛び出してしまいます。
心配になったしんのすけたちは彼を探し回り、キャンパス内の時計塔の中で倒れているを見つけます。しかし、意識を取り戻した風間くんはしんのすけ以上の“おバカ”になっており、そのお尻には噛み跡がありました。
聞けばほかにも同様の被害者がいることがわかり、しんのすけたちは「カスカベ探偵倶楽部」を結成し、“吸ケツ鬼”の正体をあばくべく調査に取りかかります。
時事的なテーマ「AIとブルシット・ジョブ」
そもそもおバカとエリートをどのように判断するかというと、校内を巡回しているオツムンというAIロボットが、生徒の素行に応じて「エリートポイント」なるものを加算または減点していくという仕組みがあります。
テストの成績はもとより、芸術のセンスやスポーツの勝敗、そして道徳や品行なども評価の対象です。
こうなると人々は数値化されやすい作業のみに専念するようになります。そして自尊心を満たすだけの不要なタスクが次々に増えていきます。
これは現代のブルシット・ジョブ(無意味な労働)を示唆する非常にアクチュアルなテーマです。
また生まれ持った身体能力で付与されるエリートポイントなどは、それによってコミュニティー内の待遇が変わるという意味でも“メダル数”を想起させ、これも時事的な要素をうまく取り入れているといえます。
作中では、しんのすけたちの世話係を務める生徒会長の阿月チシオが、得意だったマラソン競技ができなくなり、「天組」から「カス組」へ落とされたことが説明されます。
「エリート」というコインの裏には「分断」が色濃く刻まれているのです。
一貫したテーマ「同一化への抵抗」
この分断をどうするか。“全員エリートになればいい”と吸ケツ鬼は考えました。
カスカベ探偵倶楽部は、学園ナンバーワンのサスガに残された手がかりの解析を依頼したのですが、今度はしんのすけが吸ケツ鬼に囚われてしまい、トイレのラバーカップのような機械でお尻を狙われる事態に。
噛まれる寸前のところで風間くんが間に入り、しんのすけの代わりに二度目の吸ケツを受けてしまいます。
すると、彼はおバカを通り越し“スーパーエリート”に変貌し、吸ケツ鬼は快哉を叫びます。
実はこれは手っ取り早く生徒をエリートにさせるための装置でした。
この手の“催眠”は、映画クレヨンしんちゃんのルーツに関わっています。
劇場版第一作の『アクション仮面VSハイグレ魔王』(1993)ではある光線で人々が「ハイグレ人間」になる状況が描かれ、シリーズ屈指の名作と謳われる『嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』(2001)では、ある匂いで大人たちがみな幼児退行してしまいます。
シリーズの最初が「みんなおバカに」という展開だったことを振り返りますと、今回の「みんなエリートに」は現代版のアンサーと受け取れるでしょう。
そして、しんのすけはどの作品においても、そのような「同一化」から逃れるように動き回ってきました。
みんなが一緒であることの怖さ。あるいは、簡単に熱狂してしまうことへの恐れ。
気を抜けば自分が楽なほうへ、問題を忘れられるほうへ流される大人たちに対し、5歳児の曇りなき眼は終始一貫して“なにか変”と観察し続けてきたといえます。
しかも囚われている人たちを否定せずに解放してしまうところが実にクールで、毎度の見どころです。
本作では、エリートの行動原理や価値基準に従っていくと、傍からはおバカにみえるという転倒(脱構築)を見せてくれます。
全力疾走の集大成
それはスーパーエリートになった風間くんの“どんな手段を使っても勝つ”という姿勢に如実に示されます。
大好きな風間くんを守るため、「全生徒エリート化計画」を阻止したいしんのすけ。
そこで、マラソン(焼きそばパン争奪競争)で勝負し、カスカベ探偵倶楽部の誰か一人でも風間くんよりはやくゴールできたら、計画を諦めるという約束をとりつけます。
風間くんの身体はオツムンらAIによって強化され、序盤から圧倒的スピードでリードします。“近道はないが裏道はある”とはオツムンの甘言ですが、まさにこれがここでいうエリートの道です。
対するしんのすけたちは、園児らしく早々に肩で息をしながらも、ロボットになった風間くんの背中を必死に追いかけます。
その様子をモニターで観戦する生徒たち。無駄だ、勝てるわけない、せっかくエリートになれるのに邪魔をするなと、嘲笑するばかりです。
劣勢のなか、チシオが文字どおり応援に駆けつけます。
彼女は走る際の形相を笑われ、自信をなくし、競技から遠のいていましたが、しんのすけたちの走りに感化され、なにも恥じることはないと、4人を担いで走り出しました。
顔を歪め、転んでは起き上がり、傷だらけになりながら自分たちの未来に向かって走り続ける姿は、前述した「オトナ帝国」のラスト、しんのすけが東京タワーの階段を全力で駆け上がった名場面を思い起こさせます。
一方で、今回の全力疾走はひとりではありません。オツムンの妨害を一人ひとり体を張ってかわし、しんのすけにバトンをつないでいきます。
そしてついに、ゴール目前の競技場トラックで、風間くんとしんのすけは肩を並べます。
青春は筋書きのないミステリー
風間くんはすでにスーパーエリート状態を解除されています。しんのすけの流した汗が、オツムンのAIチップに当たり、ショートしてしまったからです。
これは象徴的かつ見事な演出です。単なる塩水と言い切れない、生理現象を超えた人間的な何かが、AIを打ち破る。
遠回りしたけれど、なぜかしかるべきゴールにたどり着いている。ときには必要な間違いもある。青春とはこのようなもので、AIにとってはただの謎です。
本作が“ミステリー映画”と銘打たれているのも、それがゆえんです。
そのため、吸ケツ鬼の正体が終盤を待たずにサスガだと明かされても、ミステリーは続きます。
チシオとまた同じクラスになりたい。ただその一心でエリート装置を作り上げたサスガ。彼を狂わせた“恋”という不可思議な感情はじめさまざなま“魔法”が、より大きな謎として立ちはだかるからです。
風間くんとしんのすけの“友情”もそうです。まったく違うタイプなのに、互いの必要性を知っているふたり。
デッドヒートの末、焼きそばパンを手にしたのは風間くん。でも、舌を伸ばして中身を食べたのはしんのすけ。この関係がすべてを物語っています。
いま見るべき“五輪”映画
本作は、エリート(競技シーンにかぎっていえばアスリート)の独善性を批判しつつ、その努力を認めながら、みんなで盛り上がれる映画です。
あらゆる立場の人々を否定せずに解き放つという離れ業を披露しており、しんのすけ、ネネちゃん、マサオくん、ボーちゃん、そして風間くんの5人が紡ぐ大団円が、大人の胸にも響く“五輪”を描いています。
最後に、髙橋渉監督が本作に寄せたこの言葉を引き、まとめの代わりとさせていただきます。
特に大人のみなさん、もっとムダだと思われることをやるべきですよ。自分自身のために。