ヴィスコンティ没後45年封印された幻の名作が、本邦初公開となるイタリア語バージョンで復活!
ノーベル文学賞作家アルベール・カミュのベストセラー「異邦人」をイタリア映画界の至宝ルキノ・ヴィスコンティ監督がマルチェロ・マストロヤンニ主演で映画化した作品『異邦人』。
20世紀文学の映像化作品の最高傑作とも謳われる本作は、現代人の生活感情の中に潜む不条理の意識を巧みに描いています。
主人公の孤独さを描いたヒューマンドラマでありながら、宗教的背景や政治的側面も持ち合わせたイタリア・ネオレアリズムの系統を継ぐ本作は、新たにデジタル復元版として日本では初となるイタリア語バージョンで2021年3月5日(金)より新宿シネマカリテ、池袋シネマ・ロサにて公開されました。
映画『異邦人』の作品情報
【公開】
1967年(イタリア・フランス映画合作)
【原作】
アルベール・カミュ
【原題】
Lo Straniero
【監督】
ルキノ・ヴィスコンティ
【キャスト】
マルチェロ・マストロヤンニ、アンナ・カリーナ、ジョルジュ・ジェレ、ベルナール・ブリエ、アルフレッド・アダム、ジョルジュ・ウィルソン、ブリュノ・クレメール、ジャン・ピエール・ゾラ
【作品概要】
原作はフランスが生んだノーベル賞作家アルベール・カミュによって1942年に発表され、現代の社会機構の中にある矛盾と現代人の生活感情の中に潜む不条理の意識を描いたことで、世界中で「不条理の哲学」として論争を呼びました。
カミュの死後に製作された本作を手掛けたのはルキノ・ヴィスコンティ。20世紀文学の傑作の映画化に数年構想を練った上で、最高のスタッフ、キャストを集めて実現させました。カミュの未亡人が指名したことからも、映画作家としてヴィスコンティが現代ヨーロッパを代表する芸術家であったことが伺えます。
監督のフィルモグラフィで言うと、豪華絢爛な超大作『山猫』(1963)と『地獄に堕ちた勇者ども』(1969)『ベニスに死す』(1971)『ルートヴィヒ』(1972)からなる「ドイツ三部作」の間に製作されました。
主演はイタリアで絶大な人気を誇る国際的なトップスター、『8 1/2』(1965)『甘い生活』(1960)で知られるマルチェロ・マストロヤンニ。コメディ作品での軽妙な演技から、本作で久しぶりに感銘深い演技を見せています。
共演のアンナ・カリーナはフランスのヌーヴェル・ヴァーグ作品で当時から知られており、公私を共にしたジャン・リュック・ゴダール監督と離婚。脚本家にして俳優のピエール・ファーブルと再婚する間に本作に出演しました。
映画『異邦人』のあらすじ
第二次世界大戦を目前にしたフランス統治下アルジェリアの首都アルジェ。会社員のムルソーは、アルジェ郊外の老人施設から母親の訃報を受け取ります。
遺体安置所でも通夜でも、彼は遺体と対面しませんでした。
その翌日、ムルソーは偶然再会したマリーと海水浴に行き、映画を見て一夜を共にします。
その後彼は、同じアパートに住む友人とトラブルを起こしたアラブ人をたまたま預かっていたピストルで射殺しました。
太陽がまぶしかったという以外、ムルソーも理由を述べません。
裁判所の法廷では殺害については何も言及されず、ムルソーの母親の葬式にいた目撃者の一人は母親が亡くなったとき、彼が感情を示さなかったことを証言します。
ムルソーの行動は非人間的で不道徳であるとされ死刑を宣告されました。
映画『異邦人』の感想と評価
フランス領時代のアルジェリア
本作の舞台は1930年代末期のアルジェリア。第二次世界大戦を目前にした当時、アルジェリアはフランスによる植民地化から100年を迎えていました。
本作の舞台となる首都アルジェはフランス人居住区として多くの入植者がおり、原作小説著者のカミュもそこで育ったフランス系アルジェリア人でした。
公用語であるアラビア語は統治国フランスにより制限されており、1920年代からイスラム教徒が国内で増加していき、宗教改革者によって国内において少なからず影響力を持っていました。
30年代はメッサリ・ハジを始めとする独立運動家によってナショナリズムが進み、アルジェリア人民党がフランスで働く労働者階級の間で組織されました。こういった流れは後に社会主義とイスラムの文化が融合する形でアルジェリア独立として結実します。
一方アルジェリア統治国であるフランスは、原則として政教分離であったものの、事実上優勢な宗教を尊重する寛容令方式でカトリックが大多数を占めていました。当時はアルジェリア国内の裁判もフランスが代理という形をとっていたため、法廷ではカトリック式の宣誓がとられていました。
裁判でムルソーが明かした母親を養老院へ預け、親の庇護から自由の身となった年は1936年。
当時のフランスでは、ドイツでのナチスによる政権獲得の影響を受けたファシズム運動への反対運動として、反ファシズムを掲げたフランス人民戦線が樹立していました。
アルジェリア統治国であるフランスをムルソーの母親に置き換えることで、彼が何から自由になったのかが分かります。
実際のアルジェリアでは、前述したようにイスラム圏での民族自決が活発化していき、独立に向けての運動が進んでいました。
ムルソーは裁判の結果、彼自身が人々から憎悪で迎えられることを望んだのは、彼自身が急進であれ、保守であれ、アルジェリアのすがたでいることを放棄したかったからではないでしょうか。
映画において、しばしば背景となる季節は心情、社会情勢を表していることがあります。
おぞましい夏の暑さは彼を苦しめ、視界を奪うほどの汗、光が、劇中では殺人に至る直接の動機として描かれています。それらを振り払うことで新たな極地、人生の真理をムルソーは見つけました。
彼の罪を裁く法廷では、その場にいる傍聴人全員が手を扇ぎ、暑さをなんとか凌ごうとしていました。暑さとは植民地に求められる旧体制の象徴ではないかと考えられます。
タイトルの異邦人とは、体制側にとっての理解し得ない他者を指し、同時にアルジェリア人から見たアルジェリアに住むフランス人でもあり、そして異教徒ですらない無神論の背教者を意味しているのではないかと考えられます。
貴族階級出身のヴィスコンティが映し出す中産階級の人間味
ムルソーは、養老院から母親が亡くなった知らせを受けてからというものの、恋人からの求愛も、会社での昇進も、全て拒絶し虚脱状態のまま日々を送っていました。
貧しい家の出身であるムルソーは「学生の頃にあった野望も情熱も学校を辞めて失ってしまった」と言います。彼は全てが無意味であると達観し、他者との断絶した個人主義を獲得しました。映画の主人公でありながら、観客の共感を徹底して拒絶する彼を理解するにはどうするべきか。そもそも理解する必要はあるのでしょうか。
監督のヴィスコンティは、本作は感情に溺れたセンチメンタリズムではないと語ります。
ムルソーの生(それは同時に性)への倦怠、生きる喜び、人間を取り巻く不条理に反抗しないものへの軽蔑といった普遍的な現代性こそが作品のテーマであり、時代設定から30年経って製作された映画版においても変わらず、現代の若者のありのままを描いています。
イタリア映画界におけるヴィスコンティはネオレアリズモ作家として知られ、内戦による恐怖と破壊を乗り越え、新しい未来を築こうとする社会で現れる問題や現実に向き合ってきました。
貴族階級出身のヴィスコンティが、本作では中産階級の社会を題材にしています。
中産階級の若者を描くうえで、彼が果たすべき必要があったのは支配者階級、つまり自分自身の否定。それは知識人として政治的論争に係わるべきだというネオレアリズモの責任を果たすためです。
そして旧体制の破壊をすることで、人間は人間らしい生き方ができると考え、階級制度の否定、社会主義の需要を広めました。
ヴィスコンティは本作においてテーマを複雑に描いていました。
不条理への反抗こそ人間らしさ、生の在り方であると、生を諦めたムルソーを通して描いていたのです。人間社会に対する諦観から、反抗すらネガティブなものとして描いていたのです。本作において善悪とは非常に空虚なモノであると後半の裁判のシーンから伝わってきます。悪をもって悪を制することすら、現実は許してくれませんでした。
まとめ
今回のデジタル復元によってDVD化されていなかった『異邦人』がほぼ完璧な形で鑑賞することが出来ました。
デジタルリマスタリングによって、ムルソーの殺人衝動を駆り立てた、むせかえるような夏の暑さが、画面から滴る汗、乾きとともに鮮明に伝わってきます。
『異邦人』は舞台となるアルジェリアの社会情勢や宗教思想からひとつの読み解きができる作品です。
しかし、他者からの理解すら無意味であるムルソーに言わせれば、理解され、救われることに価値などないでしょう。
小説から脚色されたのは脚本だけではなく、映像による説明も含まれます。ヴィスコンティの描いた『異邦人』は、理解を許さぬニヒリストを耽美的に描き、デカダントという輪郭を与えました。
映画『異邦人』はデジタル復元版として2021年3月5日㈮より新宿シネマカリテ、池袋シネマ・ロサにて公開!