ビル・ゲイツも賞賛した世界的ベストセラーを映画化した『あさがくるまえに』をご紹介します。
監督はフランスの若手女性監督、カテル・キレベレ。臓器移植をテーマに、センシブルでリリカルな映像を見せてくれます。
1.映画『あさがくるまえに』作品情報
【公開】
2017年(フランス・ベルギー映画)
【原題】
Reparer les vivants
【監督】
カテル・キレベレ
【キャスト】
タハール・ラヒム、エマニュエル・セニエ、アンヌ・ドルヴァル、ドミニク・ブラン、ギャバン・ヴェルデ、ガラテア・ベリュジ
【作品概要】
ユニフランス主催のフランス映画祭2017のゲストとして注目を集めた新鋭女性監督カテル・キレベレによるヒューマンドラマ。
夜明け前、シモンは恋人が眠るベッドをそっと抜け出し、友人たちと合流してサーフィンに出かけた。しかし、帰り道で自動車事故に巻き込まれ、脳死と判定される。病院に駆けつけたシモンの両親は医者から臓器移植コーディネーターのトマを紹介されるが、戸惑いを隠せない。一方、パリで暮らす音楽家の女性クレアは重い心臓疾患を抱え、かかりつけの医師から臓器移植の登録をすすめられていた。
2.映画『あさがくるまえに』あらすじとネタバレ
フランス北西部の街、ル・アーヴル。
夜明け前、シモンは目を覚まし、隣に眠っているガールフレンドの横顔をみつめました。彼女も目を開け、二人は見つめ合いました。
ガールフレンドは再び目を閉じました。シモンはiPhoneで彼女の寝顔を撮ると、窓をあけ、外に飛び降りました。
シモンはスケボーの少年と合流し、さらに友人の車に乗り込んで、海へ向かいました。
ウエットスーツに着替え、サーフボードを抱え、三人並んで海へと走っていきます。
サーフィンを終え、車に乗ったシモンは、友人の肩に持たれて目を閉じました。運転している少年の目もしょぼしょぼしています。
目の前に伸びる車道が波に代わったかのように見えた時、突然激しい音が響きました。
シモン以外の少年はシートベルトをつけていたために、軽い怪我ですみましたが、シモンは脳内出血が激しく脳死と判定されます。
両親に連絡を取った医師は、シモンが蘇生する可能性は無いことを説明。両親に移植を待つ患者のために臓器の提供を求めます。
医師に変わって、移植コーディネーターのトマが説明しますが、父親は声を荒げて帰るぞと妻を連れて出ていきます。その後姿にトマは「時間の猶予は限られています」と声をかけるのでした。
帰りの車中。看護士から息子さんの携帯ですと渡された携帯がなりました。ガールフレンドからでした。
学校の前でたむろしている女の子たちの中の一人をまっすぐに見つめる少年、シモン。
「一緒に歩いていい?」シモンは自転車を押しながら、少女と歩きます。少女はケーブルカーに乗り込み、じゃぁねとシモンに声をかけました。
シモンは大急ぎで自転車に乗り、急な坂道を懸命に漕いで登っていきました。ケーブルカーの終点までくると、階段に何事もなかったかのように立って待ちます。
彼の姿を認めた少女はにっこりと笑って、二人はキスを交わしました。それが二人の馴れ初めでした。
トマのもとにシモンの両親が帰ってきました。臓器が誰に渡るかなどは教えられないという形式的な説明を聞いたあと、「目だけはやめて」と母が言い、トマは「お約束します」と答えました。
両親は移植に同意しました。「特にしたいことがあれば」とトマは両親に問いかけました。
たくさんのチューブを繋げられたシモンを挟んで両親はベッドに横になり彼によりそうのでした。
パリ。音楽家のクレールは自分の心臓が末期的症状であることを自覚していました。
彼女には二人の息子がいます。しっかりものの兄は側で母親を支え、弟は遠方から時々返ってきます。
その夜は、母を真ん中に三人並んでテレビで放映されている『E.T.』を観ました。
病院の検診で、前回より心臓が膨れていると医師に告げられます。生き延びるには心臓移植しかありません。
もう若くない自分が人の心臓を使ってまで…。しかし、医師は登録しても心臓は数が少ない。先が読めないのに変わりないのだと告げるのでした。
良くなっているかのように電話で弟に報告している母を見て、兄は「なぜ嘘をつく」と問い詰めます。「中間試験があるのに心配させたくない」と母は答えました。兄は弟が中退したことを知っていましたが、母に告げることは出来ません。
クレールはあるコンサート会場にやってきました。料金を払ったあと、受付の青年にお金を渡して、三階席まで運んでもらいました。
ステージにはかつての恋人(女性)がピアノを演奏していました。終演後、二人は言葉を交わしました。
女性はクレールが病気であることを知り、「黙っていたのは傲慢だわ」と憤りました。しかし、クレールは「私といたら今のあなたはいない」と言うのでした。
3.映画『あさくがくるまえに』の感想と評価
『あさがくるまえに』は臓器移植というデリケートで重いテーマを扱い、終盤には生々しい手術シーンもありますが、のめり込むような熱さや、あるいは客観視するクールさとも違い、ひたすら静かに、繊細に、「命」「生」「死」を見つめています。
冒頭、少年は窓からスルリと飛び降りると、あっという間に駆け下り、自転車を押して画面に現れた時はもうとても小さい姿となっています。
その高さに驚く間もなく、カメラは右上の木々にゆるゆるとパンして行きます。この導入部は後に趣を変えてもう一度繰り返されます(それがまた素晴らしいのです!)。
物語の三分の一くらいのところで、少年と少女の馴れ初めを描くシーンが唐突に登場します。少女は街の有名なフニクレール・デュ・アーヴルというケーブルカーに乗ります。
彼女の家が丘陵地にあることが容易に想像でき、少年の姿をあっという間に小さくしたあの高さを理解することとなります。
口数少なく、あまり多くを語らない少年の登場シーンはほんのわずかですが、私はあっという間にこの少年にひきつけられてしまいました。
(あとから考えると彼はまるでル・アーブルの案内人のように街を上り降りし、海と丘陵地の空気を運んでくれたのです)。
獰猛な生き物のように激しく押し寄せる波の間にいる少年は、生と死の間に立っています。少年は波を乗りこなし、克服し、無事生還してみせますが、交通事故で命を落としてしまいます。
感情の吐露を映画は最小限しか描かないにも関わらず、そこに展開する映像は声なき声を雄弁に物語っているように感じました。
映画の中で、人々はしばしば互いに寄り添います。少年を挟んでベッドに横たわる両親、病気の母を間に挟んでテレビを見る兄弟、この兄弟は母の手術を待つ間も互いにもたれあって眠っていました。
そういえば、亡くなった少年もまた、車の中で友人に肩を借り、眠っていたのでした。
人が触れ合うことで生まれる温もりと、愛情の証がそこには満ちているように思えました。
そして映画は、この二組の家族のみならず、登場する医師や看護士らのバックグラウンドをも示唆します。
わずかなエピソードが綴られるのみなのですが、それぞれの人生が垣間見え、皆、懸命に生きているのだ、ということを実感させるのです。
まとめ
カテル・キレベレ監督の二作目に当たる『スザンヌ』(2013)は、父と妹の愛を受けながら、彼らを悲しませる方向に突き進んで行ってしまうスザンヌという女性の半生を描いた作品でした。
なぜ、彼女はこのような生き方をするのだろう? と多少、戸惑いながら画面を見つめていたのですが、彼女の孤独と、愛を渇望する様が最後にはひしひしと伝わってきました。
監督は決して、言葉で語らせず、エピソードを重ねることで、その心情を浮き彫りにしていきます。映画は映像で語る、という信念すら感じました。
この『あさがくるまえに』も、同じことが言えると思います。
移植コーディネーターのトマの手術中の行為には心動かされずにはいられません。この人、どこかでと思ったら、黒沢清の『ダゲレオタイプの女』の主人公を演じていた役者でした。
心臓移植を受ける女性も見覚えがあると思ったら、グザヴィエ・ドラン作品でおなじみのアンヌ・ドルヴァルでしたね。
巧みな大人の俳優と、まだ無名の若い俳優、いずれもがとても魅力的に描かれています。
ところで、手術を受ける女性とその息子たちがテレビで『E.T.』を見ているシーンがあります。
参考映像:スピルバーグ監督の代表作『ET』予告編(1982)
ダンスの場面になって、三人のうち誰かが「ここで乗るの」なんて言いながら笑顔で鑑賞している。そのシーンがとても良いのです。
映画の中の映画、そしてそれを観る人たちの姿っていうのは、どうしてこう心踊るものなのでしょうか。