名匠原田眞人監督のもとに木村拓哉と二宮和也の2大スターが集結し、ベストセラーを映画化!
ここまで聞くと邦画では、たまにありそうな企画と思うかもしれません。
しかし、映画『検察側の罪人』は、ただのエンタメではなく観客にヘビーな問題提起をぶつけてくる快作になっています。
原田監督が言いたかったことは何か、ここではポイントとなるインパール作戦を中心に解説していきます。
CONTENTS
映画『検察側の罪人』の作品情報
【公開】
2018年(日本映画)
【作品】
雫井脩介
【監督】
原田眞人
【キャスト】
木村拓哉、二宮和也、吉高由里子、平岳大、大倉孝二、八嶋智人、音尾琢真、大場泰正、谷田歩、酒向芳、矢島健一、キムラ緑子、芦名星、山崎紘菜、松重豊、山崎努
【作品概要】
雫井脩介の同名小説を『日本の一番長い日』『クライマーズハイ』の名匠原田眞人が映画化。
ベテランの優秀な検察官最上と彼を尊敬し正義に燃える若手検察官沖野。とある老夫婦の殺害事件が発端になり、最上の正義が暴走。2人の検察官が正義をめぐって対立します。
最上を演じるのは木村拓哉、沖野を演じるのは二宮和也。劇中の2人のようにキャラクターも演技アプローチもまるで違う2大スターが激突。
その周りを実力者俳優たちが固め、原田監督独特の早いカッティングと台詞回し、予測不可能な脚本でグイグイ見せていく傑作です。
そして原田監督が現代日本への警鐘も込めたメッセージにも注目です。
映画『検察側の罪人』に込められたメッセージとは
原作から改変された部分も多数ありますが、大きな改変要素としては2つ。
・最上が最後逮捕されない
・最上の祖父と諏訪部の父が太平洋戦争の「インパール作戦」に参加しており、その繋がりから2人は協力関係
なぜ最上が最後逮捕されないラストにしたか
劇場パンフレットなどのインタビューでは木村拓哉や原田監督は、「最上を劇中で断罪しないことで、倫理的な問いを受け手である観客の皆さんに委ねた」と話しています。
確かに本作はあえてモヤモヤするように作られています。
なぜモヤモヤさせるのか、それは観客にそれぞれ考えて欲しいからでしょう。
ラストだけでなく、この映画は展開もカッティングや台詞回しが早い上に、複数の事件が絡み合うストーリーになっています。
検察に関する専門用語の説明も、わかりやすい解説もなく、また、登場人物も多い上に行動の動機も心情もハッキリとはわからない部分も多々あります。
気を抜くとおいてけぼりになりそうで、普通の娯楽作よりも能動的に頭を回転させて作品を見なければならないように、あえて作られています。
映画を見た人同士で「あれってこういうこと?」と確認したり、登場人物たちのように自分の考えをぶつけ合わせたくなるかもしれません。
そのように頭をフル回転させながら最後まで見た結果、「これでいいのか?」と思う結末が待っています。
終盤、最上と対面して沖野が頭をかきむしって「そんなわけない…」とつぶやいたり、ラストショットでは最上と決別した沖野が絶望したかのような雄叫びをあげて映画が終わります。
この段階では心情的に沖野とシンクロしている観客も多かったと思います。
ずっと憧れで多大な影響を受けてきた先輩検察官が道を踏み外してしまい、さらにそれを正当化しようとしている。
それだけでもショックですが、最上を演じているのがずっと正統派ヒーローを演じてきた木村拓哉というキャスティングも効いていると思います。
特にテレビドラマ『HERO』で、ずっと正義の検察官として悪を暴いてきた存在が、事実を隠蔽する悪の側になっている。このショックは木村拓哉のファンであればあるほど大きくなってくるでしょう。
映画『検察側の罪人』はSNS等でも賛否両論
本作は見る人の心を反射する写鏡のようなものとして作られています。
オープニング・クレジットでは、都会のビル群が鏡面のように上下や左右で対象的になって反射し、真ん中に消失点がある映像が続きます。
正義と悪、または真実と虚偽、公と私情、別の観点からの正義同士。
様々なものが対立して、混ざり合い闇に消えていく。そんなストーリーを象徴したオープニングです。
それ以外にも鏡や左右対称を思わせる画面構成やアイテムが登場します。
観客に考えさせるような映画にしたかったのは確かですが、どんなことを考えて欲しいのか。
原田監督はインタビューで「皆さんには娯楽作として楽しんでもらってもいいですが、本作を見て危機感を持って欲しいとも思ってます」と答えています。
本作には今の日本社会とリンクするような問題提起が多数あります。これらの要素は原作にはなく原田監督が付け足したものです。
政治家の汚職、戦前回帰の教育思想を復活させようとする政治家、その陰謀に巻き込まれて自死する人間、民間ホテル企業の極右活動、カルト宗教団体と政治の癒着、検察の暴走、性犯罪者の再犯に冤罪事件など、全ての要素を追い切ることは難しいです。
丹野が「日本の報道の自由度は世界80位」と批判するセリフまであります。(ちなみに原作が発表された段階では50位台)
原田監督は現代の問題を盛り込むだけでなく、さらに日本の組織の問題点を集約したような過去の陰惨な出来事を映画用に付け足しました。
それが太平洋戦争時の「インパール作戦」です。
インパール作戦と現代日本に通ずる問題点
インパール作戦とはどんなものだったのでしょう。本作の劇中でも「日本軍の馬鹿な作戦だ」と沖野が言うシーンがありました。
1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的として、ビルマからイギリス軍がいるインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。
援蒋ルートとはアメリカ、イギリス、ソ連が日本と敵対していた中華民国を軍事援助するために用いた輸送路です。
要は「敵の輸送路を断てば、武器・食糧が不足し敵は弱体化する。」と考えて立てられた作戦だったのですが、
なんと肝心の作戦に参加する日本兵たちに対する補給路が用意されていなかったのです。
具体的な問題点をまとめると
・1944年時点ですでに米軍に負け続け物資が不足していたことで、兵士たちには3週間分の食量しか支給されなかった。
・作戦決行時インドは雨期に入っており、道がぬかるんでいた上にそもそもの予定ルートが過酷なビルマの山道。470キロを踏破しなければならない作戦だった。それを3週間で越えてイギリス軍と戦うという超強行スケジュール。
・補給不足を補うために物資は現地の農民たちから調達した水牛や山羊に運ばせ、食料が亡くなった場合はその肉を食べるという「ジンギスカン作戦」と呼ばれる雑な方策が立てられた。(家畜たちはいざという時の前に、道の途中のチンドウィン川で流され大半が死亡。)
・食料武器共にどんどん不足していき、各部隊が補給を要求するも、上層部は「あとから用意するからどんどん進軍すべし」「食料は敵から奪え」などと無茶な返答を返して作戦を強行した。
こんな有様だったため、日本軍は誰一人インパールに到着することもできず、飢餓や病気でバタバタと死んでいきました。
飢えに耐え兼ね自決する者もおり、7月にようやく撤退命令が出るころには作戦に参加した9万人のうち既に1万人の兵が死亡していたのです。
さらにこの作戦では撤退時の方が過酷を極めました。
食料も尽き、伝染病のマラリアが蔓延し、追ってくるイギリス軍の猛攻も迫ります。
日本軍の撤退路は兵の死骸があちこちに転がり、「白骨街道」と呼ばれました。
そして結果的に進軍時の倍の2万人近くの死者をだしてインパール作戦は集結します。
推定死者3万人、戦病者4万人。以上がインパール作戦が旧日本軍の中でも最低最悪の作戦と言われる所以です。
この作戦を指揮したのは陸軍中将牟田口廉也。彼は最初から無謀な作戦だという現場の声を無視し、大本営の顔色を伺って作戦を決行。
彼は兵が飲まず食わずで進軍している中で、後方の司令部で芸者遊びをしながら作戦指令を出していたという逸話もあります。
さらには補給が足りないという現場の意見に対し「周囲の山々はこれだけ青々としている。日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食糧に困るなどというのは、ありえないことだ」等の発言をしたとも言われています。
牟田口は作戦終了後帰国し、戦後20年後に天寿を全うしました。晩年は「インパール作戦の失敗は部下が無能だったからだ」と言って、生き残りの兵士たちにも一度も謝罪することはありませんでした。
以上がインパール作戦の概要です。
劇中で最上と闇ブローカーの諏訪部が結託しているのは、最上の祖父と諏訪部の父がインパール作戦の生き残りでそこにシンパシーを感じ合っているからです。
そしてインパール作戦を思わせる要素が話の中にもいくつかあります。
上の腐敗を末端の人間が押し付けられる日本の組織的問題点を象徴している事件ですが、劇中でも国会議員で最上の盟友である丹野は与党の腐敗を告発するために自死するという展開になります。
不正を行っていた首相候補で丹野の義父である高島は、劇中で裁かれることはありません。
これだけでもインパールと通ずる部分がありますが、実はインパール作戦と同じように無謀な手に出て追い詰められていくのは、他でもなく最上と諏訪部自身です。
過去の事件の因縁で自分が裁きたい松倉を今の事件の犯人に仕立て上げようとするも、真犯人が他にいることが判明。
それでも松倉を法で裁きたいために、真犯人の弓岡を殺害して行方不明にします。しかし結局、沖野と橘に叛旗を翻され裁判では松倉は無罪になってしまいます。
そして諏訪部の謀略で松倉を殺害。結局憎い男も事件の真犯人も司法の手で裁くことはできませんでした。2人とも死ぬ前に自分の罪を悔いる事もなかったでしょう。
最悪の結果を迎えても最上は、自分は正義の側にいると思い込み、今度は丹野を死に追いやった政治家たちを裁こうとします。
そんな最上に対し、沖野が決定的なNOを突きつけて映画は終わります。
原田監督がインパール作戦を引用したのは、そういう惨事を起こす体質がまだ日本に残っているという事と、正義の側にいる人間でも暴走してインパール作戦のような愚行を起こしてしまう可能性があるという事の両方の問題提起がしたかったからではないでしょうか。
インパール作戦のことを知っている人は「ああ、確かに」とメッセージを読み取るでしょうし、知らなかった人でもこの映画を見て気になって調べることがあればそれだけでも意義があることです。
この話は我々にとって全く他人事ではありません。従業員を低賃金でこき使うブラック企業などはまさにインパール作戦的な物の最たる例です。
今でも我々はインパール作戦に巻き込まれない保証はないのです。
原田監督が「本作を見て危機感を持って欲しい」と言ったのはまさにこういったメッセージでしょう。
沖野のように「これでいいのか?」と常に考え続けるのが大事なのです。
まとめ
ここでは原田監督が独自に込めたメッセージ性について2つに絞って書きましたが、もちろんそれ以外にも読み取れるところは多々あります。
2013年に発表された原作ですが、原田監督は2018年の今発表されることを意識して本作を作っています。
さらに今後5年、10年経っても今作は時代写す鏡として様々な様相を見せる映画となっていくでしょう。
ぜひ今劇場で見て、見た人同士でディスカッションをして欲しい一作です。