人生、何もかもが間に合わない陽子が、
ヒッチハイクしながらでも目指した場所とは
今回ご紹介する映画『658km、陽子の旅』は、『#マンホール』『私の男』の熊切和嘉が監督を務め、第73回ベルリン国際映画祭ベルリナーレ・スペシャル部門に正式招待されました。
また、原案に「TSUTAYA CREATORS’ PROGRAM 2019」の脚本部門で、審査員特別賞を受賞した室井孝介の脚本が採用されています。
青森県弘前市出身の42歳独身でフリーター……。人生を諦め、就職氷河期世代の陽子は人との関わりを断ち、引きこもり生活をしています。
陽子のアパートに突然、従兄の茂が訪ねてきます。22年前、夢への挑戦に反対されたことがきっかけで、絶縁状態だった父が亡くなったことを知らせるためです。
陽子は茂とその家族に連れられ、渋々ながら車で弘前へ向かいますが、休憩で立ち寄ったサービスエリアでアクシデントがあり、置き去りにされた陽子は所持金もなくヒッチハイクで弘前に向かうことに……。
映画『658km、陽子の旅』の作品情報
【公開】
2023年(日本映画)
【監督】
熊切和嘉
【原案】
室井孝介
【脚本】
室井孝介、浪子想
【キャスト】
菊地凛子、竹原ピストル、黒沢あすか、見上愛、浜野謙太、仁村紗和、篠原篤、吉澤健、風吹ジュン、オダギリジョー
【作品概要】
熊切監督と主演の菊地凛子は『空の穴』(2001)から22年ぶりのタッグとなりますが、監督は『バベル』(2006)でアカデミー賞助演女優賞にノミネートされ、その後「パシフィック・リム」シリーズなど、ハリウッドや海外作品に数多く出演し、日本を代表する国際派女優となった彼女へのオファーに緊張したと語ります。
そして、人生の機微を表現し高い評価を得ている竹原ピストルやオダギリジョーをはじめとする豪華俳優陣との共演により、孤独と孤立の中で生きる陽子が、人の情とたくましく生きる姿で更生していく、心揺さぶるロードムービーとなっています。
映画『658km、陽子の旅』のあらすじとネタバレ
薄暗いアパートの一室でパソコンを使い、在宅でカスタマーサポートの仕事をする陽子はレンジで調理するパスタをほおばりながら、画面を見つめています。
もう、どのくらいその仕事をしているのか?陽子はマニュアル通りの回答以外は返すことができず、顧客からは低い評価しか得られません。
そんな彼女の生活は買い物はインターネット通販で済ませ、外部の人間との接触は最小限に留めるように、引きこもったものです。
彼女は宅配荷物を受け取った際に、スマートフォンを落とし破損させてしまいます。とりあえずその晩は、寝床に寝転びながらパソコンで動画配信を見て寝落ちしてしまいます。
翌日の昼、茂と名乗る男が陽子の部屋を訪ねます。茂は陽子が寝ていると知っているかのように、何度も何度もドアをノックし起こそうとしました。
あまりのしつこさに陽子は面倒くさそうに起き上がり、玄関までゆっくり歩いて渋々ドアを開けました。
茂は陽子の従兄で昨日、陽子の父が急逝したという知らせを伝えにきました。陽子の妹が電話が繋がらないと茂に話し、絶対に連れて帰るよう託したのです。
陽子は父の訃報を聞き、驚きでも悲しみでもない、雲をつかむような表情を浮かべます。茂は当たり障りなく「急なことでショックかもしれんが」と慰めます。
しかし、陽子は虫の鳴くような聞き取れない声で「ショックというか・・・驚いて」と答えます。茂は簡単に荷物をまとめて下に来るよう促します。
あまりに時間がかかるので茂は様子を見に来ます。荷造りはできていて茂は持ち物を確認しながら、喪服すら持っていない陽子に「借りるしかないな」とつぶやき部屋を出ます。
茂が乗ってきたワゴン車には、彼の妻と幼い娘と息子が乗って待っていました。陽子はすごすごと後部座席に乗り込み車は発進します。
子供たちは無邪気に陽子に話しかけたり騒いだり、その賑やかさに陽子は戸惑い、大人らしい対応ができないありさまでした。
茂はそんな陽子に帰省するたびに、子供たちと叔父さんに会いに行っていたと教えます。そして、その度に叔父さんは「亜麻色の髪の乙女」を口ずさんでいたと歌います。
そして、途中立ち寄ったサービスエリアで陽子は、子供の頃に家族旅行でも来たことを思い出します。
楽しい家族旅行になるはずでしたが、自動車の中で歌うと父親から「うるせー!黙れ!」と怒鳴られ、楽しい気分が台無しになった思い出です。
陽子は子供に怒鳴る父親に嫌悪感を抱き、そんな苦い思い出しかないことを思い出しつつ、駐車した場所へ戻りますが、そこにあるはずの茂の車はありませんでした。
茂がちょっと目を離したすきに、息子が遊具でケガをしてしまい、陽子を置いて病院に行ってしまったのです。そんなことも知らない陽子は右往左往するだけです。
唯一持っていた小銭入れには2,000円ちょっとしかなく、仕方なく公衆電話から実家へ電話をしましたが話し中でした。
陽子は掛け直すこともせず、思案した結果ふと目についた女性に、うつむき加減の無作法な口調で「青森に行きたいので、乗せてくれませんか」と頼み、ヒッチハイクで青森を目指し始めます。
『658km、陽子の旅』の感想と評価
『658km、陽子の旅』の主人公陽子にはセリフがほとんどなく、少ししゃべったとしても何を言っているのかわからないほど、ぼそぼそという感じでした。
ヒッチハイクをしていく中でもそれを指摘されるシーンがあり、陽子自身も人と関わらなくなったことで、対応力を失ったと実感しています。
陽子は現代社会の底辺に追いやられた、俗にいう“負け組”の人という見方ができますが、それは失敗を糧にし充実した生活を送る、“勝ち組”の人から見える印象なのだと感じます。
陽子のような人は格別、初めて見るタイプの人ではありません。ある意味、自分の中の一部分であるとすら感じるでしょう。そのくらい人との関わりを最小限に、孤独になってしまう人が多い社会だからです。
陽子は夢の実現のため反対を押し切り18歳で上京し、その時父親は42歳だったと語ります。自分が42歳になった時にその父が亡くなり、葬儀に向かいながらその父の幻と対峙します。
偶然、ヒッチハイクする羽目になってしまったかのようですが、それは父親が娘に再び生きる術を与えていたように感じました。
何もかも間に合わない、陽子の人生とは
茂が帰省すると叔父さんに会いに行っていたと言い、「亜麻色の髪の乙女」を唄いながらよく聞かせてくれたと教えます。陽子が家族旅行で歌を唄うと父から「うるさい」と言われしまいますが、この曲ではないでしょうか?
陽子は歌ってる子供に「うるさい」なんて言うことないのに・・・と、不満を漏らしていましたが、陽子が家を出て行くと父は、娘がよく歌っていた曲を口ずさむようになったのだとわかります。
父が陽子の上京をなぜ反対したのか・・・子供からすれば頭ごなしに聞こえたことも、実は親だからこそわかる面が多いからです。おそらく陽子は要領が悪く、何もかも遅れ気味な性格だったのではないでしょうか?
陽子が頑なに東京で何かを成し遂げようと、それまでは故郷に帰らないと決めたのも、そんな父への反抗心だったことが伝わりますが、最後には顔向けできずに帰省できず終わったようでした。
東北の無口で無骨な父親というイメージが間違いでなければ、不器用で無努力な陽子の性格から、夢への実現は難しいと思うはずで、そのことを上手く諭せなかったのでしょう。
陽子は上京しそのことを身に沁みて実感しつつ、バックボーンでもあった父への反抗心すら失い、体たらくな生活の中、死を知らされ父の想いを知らしめるようにこの旅ははじまります。
陽子がどんな夢を持ち何を描いて上京してきたのか・・・作中で詳細は何も語られていません。知らないことで、同じように夢を持ち挫折した人なら共感できる作品です。
しかし、夢が破れても人は模索しながら働き、生きていかなくてはなりません。大抵の人はそれができて、平均的な生活を送ることができます。
陽子のように完全に引きこもりになってしまうには、それなりの事情があったことが想像できます。
最初に出会った女性はシングルマザーでデザイナーをしている女性です。失業してもなお精力的に仕事を探し、子供との生活を守ろうとするたくましさがありました。
次に出会った若い女性は“何不自由ない生活”をしているようなのに、何故かヒッチハイクで旅をしています。時々、着信メロディが流れてくることから、過干渉の親から逃げたのかもしれません。
陽子は父子家庭だったのでしょうか?作中では母親の存在を感じません。父と妹の三人暮らしだったと想像すると、妹は地元での自立を確立できたようです。
陽子が父子家庭の娘だとしたら、最初に出会った女性は“父”と同じ立場で、次に出会った若い女性は親から逃げ出した“自分”です。
そして、ライターの男性と肉体関係になった時、以前にも同じような状況があったようだと指摘されます。そのシーンで陽子の夢はアイドルになることだったのかも?と想像できました。
歌を歌うのが好きで歌をうたっては、父からうるさいと言われていたとすれば、父は出て行った娘が良く歌っていた歌をくちずさんでいたのだと・・・わかります。
陽子は芸能プロダクションに応募し、アイドルにしてあげるとそそのかされ、肉体関係を要求されていたとすれば、ライターの男が言っていたことと繋がり、人間不信にもなるでしょう。
見知らぬ自分を助けてくれた老夫婦は、未曾有の災害のあとも近所の人を気遣い、何でも屋の女性も自分の生きるべき土地と感じ、震災ボランティアに来たまま移住しました。陽子はそんな人たちの中で共存する大切さと優しさを知りました。
陽子は人の真心に心から感謝を示すようになり、人から知恵を得ながらヒッチハイクを続け、心のわだかまりをアウトプットしました。
この作品は陽子がヒッチハイクを通じて、自分の過去、父親と対峙するような形です。そして、この旅が感情を失い素直になれない娘を学ばせ、故郷に帰らせるきっかけをくれたのです。
まとめ
『658km、陽子の旅』は単調でセリフも少なく、菊地凛子の演技力と脚本が醸し出すメッセージ力で、鑑賞者の想像力をかき立たせました。
それは死してもなお、娘を案じる父親の愛情が、陽子の更生に導くような映画と感じたことです。
陽子のように夢破れる人が大半ではありますが、中でも彼女は気づくのが遅く、次にシフトチェンジできなかった顛末が描かれ、父の訃報によって孤独な生活から、現実に引き戻されます。
引きこもってしまう理由や状況は人それぞれ違いますが、確かに引きこもりの大人は存在しています。そして、このままではダメだと抜け出す努力を始める人もいます。
陽子は父の死とサービスエリアでの置き去りにされるという、稀有なアクシデントから人生の更生が始まりました。
父が教えたかったことが実際に陽子に届くまで、随分と時間がかかり、父娘の確執は解けましたが、孝行には間に合いませんでした。
その代りに陽子のこれからは、父の暮らした家で墓守をし供養する…。それが彼女の役目なのかもしれませんし、陽子も東京には戻らないはずです。
『658km、陽子の旅』は若い頃には気づかない親心、人との関わりを断ってしまう人生の顛末、強制的に人と関わることで甦った感情と成長を描いていました。