「嫌われる」とは世間から気にかけられなくなり「無視」されること。『無神論』女性の変革と結末の間にあるギャップの意味に迫る
映画『アメリカで最も嫌われた女性』は、アメリカの「無神論者」マデリン・マリー・オヘアの実話と悲劇を描いています。手掛けたのはトミー・オヘイヴァー監督。主演はメリッサ・レオが務めました。
キリスト教に挑戦状を叩きつけ、大論争を巻き起こしたマデリン・マリー・オヘア。最高裁まで争われた宗教戦争や衝撃的な失踪事件など、彼女の数奇な人生を追います。
実話であり数々のエピソードがあったにも関わらず、いくら調べてもこれほどまでに詳細な情報のない人物はいないのではないでしょうか? つまりマデリン・マリー・オヘアは、それほどまでにアメリカで嫌われた女性なのです。
映画『アメリカで最も嫌われた女性』の作品情報
【配信】
2017年(アメリカ映画)
【監督】
トミー・オヘイヴァー
【原題】
『The Most Hated Woman in America』
【キャスト】
メリッサ・レオ、ジョシュ・ルーカス、ジュノー・テンプル、ロリー・コクレーン、ヴィンセント・カーシーザー
【作品概要】
主演は『ザ・ファイター』(2010年)で、第83回アカデミー賞助演女優賞を受賞した、メリッサ・レオ。メリッサはこのマデリン役を念願にしていたというだけあり、マデリン本人のことを知らない人でも、「本人なのではないか?」と思わせるほどの熱演。
2015年7月にNetflixが出資決定し、2017年3月にアメリカテキサス州のオースティンで行なわれる、大規模イベント「サウス・バイ・サウスウエスト」でプレミア上映されました。
映画『アメリカで最も嫌われた女性』のあらすじとネタバレ
1995年8月27日テキサス州オースティンの自宅から、マデリン・マリー・オヘアとその次男ガース、長男ビルの娘レッド(ロビン)の3人が何者かに誘拐されました。
マデリンが出勤してこないことに不審を抱いた職場のスタッフのロイ・コリアーが、自宅に彼女を迎えに来て事態が明らかになります。
ロイは警察に通報しますが、マデリン達はこれまで予定のない予測不能な行動も多かったため、警察は真剣に対応もせず「雲隠れしているだけだろう」とあしらいました。
さらにロイはマデリンの長男ビルに捜索願を出すよう連絡をしますが、「僕はもう彼らとなんの関係もない」と。
食べかけの朝食や家族同様に大切にしているペットの犬が残されていたことで、ロイは異変を感じていたのですが、誰もマデリンのことに関しては取り合いません。
しかたなくロイは地元新聞社の記者に協力を求めました。
一方、誘拐されたマデリン達は犯人のアジトで主犯格と対面します。その相手はマデリンのかつての部下、デイビッド・ウォータースで、マデリン達はその事実に愕然とします。
ところでなぜマデリンはここまで犯罪性が高いと考えられる状況にあるにも関わらず、軽くあしらわれてしまうのでしょうか?
1955年マデリン・マリー・オヘアは長男のビルを連れて、メリーランド州ボルティモアの実家に帰ってきました。マデリンは未婚のままビルを産み、仕事を探す日々をおくります。
実家の父は敬虔なクリスチャンですが、マデリンは神の存在を信じていません。実力で法学部を出ているのにその知識を活かせる仕事もみつかりません。
父は「祈れ」というだけで、孫のビルを可愛がっていながらも「私生児」と言ってしまい、マデリンとの関係はギスギスするばかりです。その上、マデリンはもう一人妊娠していることを告げ、両親を翻弄させてしまいます。
さらにビルの学校での慣習から、マデリンの無神論が爆発し人生が大きく変わります。
映画『アメリカで最も嫌われた女性』の感想と評価
最高裁まで争われた宗教戦争や衝撃的な失踪事件など、「無神論者」の女性の数奇な人生を描いた映画『アメリカで最も嫌われた女性』。
「あの人は今!?」と、かつて一世を風靡した著名人が、メディアから姿を消すとテレビ番組でとりあげることがあります。それを観た視聴者は懐かしんだり、驚いたりします。
ところがアメリカで「無神論」を論じた1人の女性が、ここまで徹底してなかったことにされ、彼女の存在していたことすら否定しているかの状況に、この映画を観たあとうすら寒ささえ感じることでしょう。
主人公マデリンが主張したように、「宗教の自由」は認め強制をしないことが大切です。
かつて日本が神道を国家権力に利用され無謀な戦争に導くことにもなったので、日本人には理解が早いでしょう。
しかし、無神論もまた強制するものでも、声高に訴え主張し「神」を否定するべきものでもありません。神を心の拠りどころにし救われる人もいれば、子供達に道徳心を諭す教育教材としてもうってつけだからです。
また、アメリカ国民にとって「神」を信じられないものは、野蛮人で無教養、無道徳という意味もあります。ですからマデリンのような存在は庶民にとって都合が悪かったのです。
マデリンは2人の男に捨てられ「神」にもすがる思いになったかもしれませんが、神よりも家族に助けを求めました。
しかし、頼りにしたい父親は神に敬虔なのに娘を蔑むのです。それでマデリンは「神に意固地」になったと思えます。
まとめ
この作品はマデリン・マリー・オヘアの生涯や「無神論者」の主張が及ぼした影響を伝え、称えるものでもありません。
彼女が起こした活動が世の中のあらゆる「神」を信ずる者に不快感を与え、身近な家族の人生すら犠牲にした結果、その家族から見捨てられ、情けをかけた人物からも金欲のために殺害される淋しく虚しい事実だけを伝えた作品でした。
ひとつ教訓にすることがあるとすれば、何においても「意固地」や「強制」は誰も幸せな道に導かないということでしょう。