雄大なシルクロードの風景の中で、私の心は迷子になった。
黒沢清が、『Seventh Code』(2013)、『散歩する侵略者』(2017)でもタッグを組んだ前田敦子を主演に迎え、一ヶ月に渡るウズベキスタンオールロケを敢行。
異国の地を進む前田敦子が圧倒的な魅力を放つ映画『旅のおわり世界のはじまり』をご紹介します。
映画『旅のおわり世界のはじまり』の作品情報
【公開】
2019年公開(日本映画)
【監督】
黒沢清
【キャスト】
前田敦子、加瀬亮、染谷将太、柄本時生、アディズ・ラジャボフ
【作品概要】
2017年、ウズベキスタンと日本の国交樹立25周年記念行事として日本とウズベキスタンの合作映画の話が持ち上がり、オファーを受けた黒沢清監督が自ら脚本を書き下ろした。
前田敦子を主演に迎え、一ヶ月に渡るウズベキスタンオールロケを敢行。異国の地を進む前田敦子が圧倒的な魅力を放っており、黒沢清監督でしか撮れない作品であると同時に、まったく新しい黒沢映画となっている。
映画『旅のおわり世界のはじまり』のあらすじとネタバレ
藤田葉子は、バラエティ番組のリポーターとして、ウズベキスタンに来ていました。朝、葉子がメイクを終え、外に出るとスタッフの姿が見当たりません。あわてる葉子に声をかけてきたのは名刺を持ったウズベキスタン人の男性でした。
男性は葉子を連れてくるよう頼まれていたらしく、葉子をバイクに乗せ、ロケ先であるアイダル湖に向かって走り出しました。カメラマンの岩尾、ディレクターの吉岡、ADの佐々木らスタッフは先に着いていて、淡々と彼女を迎えます。早速台本が手渡されました。ジャージの上にゴム胴長を履き、葉子は湖に入って行くと、カメラに向かって笑顔を向けました。
「みなさーん、こんにちはー。今、私はユーラシア大陸のど真ん中、ウズベキスタン共和国に来ていますー」
ついで、地元の漁師と共に、湖に潜むと言われている怪魚・ブラムルの捕獲を試みますが、何度やっても捕まえることができません。漁師は女性が船に乗っているからだ、魚は女性の匂いがきらいだ、と言い、いい絵がとれない一行は、お手上げの雰囲気にいらいらが募っていきます。
町に戻り、チャイハナ(大衆食堂)でのロケに移りますが、店の女性からは、いきなり言われても今は燃料がなく料理が作れない、と取材を拒否されます。
吉岡は、見た目だけ整えてくれればいいと紙幣を握らせ、なんとかOKをもらいますが、出てきたものは米が生のままのものでした。
それでも、美味しそうに食べてみせる葉子。取材が終わり、撤収していると、店の主人が薪を抱えて戻ってきて、調理が可能になったようです。
女性が完成品を持ってきますが、吉岡はテムルにもういらないからと伝えるように言います。テムルの困った顔を見た岩尾がみんなで食べようと受け取りました。さらに女性は食べ物がはいった紙袋を葉子に手渡してくれました。
一行は、町の小さな遊園地にやってきて、くるくる回転する絶叫マシーンの撮影を始めました。葉子が一人で乗っているのを見た現地の責任者は「未成年の少女を一人で載せてはいけない。とても危険です」と心配しますが、吉岡は「彼女は少女じゃないです。自分の意志で乗ってるんです」と相手にしません。
マシーンが動くと、思った以上に激しいもので、葉子はへとへとになってしまいますが、岩尾は「もう一回」と無慈悲に支持を出します。「少女の脳が破裂してしまいます」と危惧する責任者に対して「だから少女じゃないんだってば」と吉岡は不機嫌そうに言い返します。
何度も撮り直しをくらい、ふらふらになった葉子は、それでも、笑顔で、最後を締めくくりました。
ホテルに帰った葉子に佐々木が食事はどうしますか?と声をかけてきますが、葉子は「バザールに行けばなにか手に入ると思うので」と応えます。
地図を持って、バザールに向かう葉子ですが、バスに乗るのも一苦労。ようやくついたバザールでは、強引に商品を進められ、それを逃れるように葉子は駆け抜けます。目的の店につくと、さっさと買い物をして黙って店を出ました。
ところが、途中で迷ってしまい、なかなかホテルに帰ることができません。あたりも暗くなってきて、心細くなった葉子は、路地の一角で、家の裏庭につながれた一匹のヤギに出会います。
なんとかホテルに戻れた葉子は、東京の恋人へラインを送ります。彼女は、ウズベキスタンの人々にも、撮影スタッフにも心を開こうとはせず、考えるのは遠く離れた恋人のことばかり。
翌日も怪魚の捕獲に挑戦しようとアイダル湖にやってきますが、漁師が船を出さないと言って、撮影が止まってしまいます。「ようするに金がほしいんだろ?」と吉岡が言うと、テムルは「金ではなく彼の気持ちの問題です」と応えました。「どうしてこの国のやつは融通が聞かないんだ」と怒り出す吉岡。
その時、葉子は昨日のヤギを思い出し、「旧市街地の一角につながれたヤギがいたんです。ミルクをとるために一匹だけ連れられてきたと思うんです。とても哀れで。あのヤギを草原に返してやるというのはどうでしょう」と提案します。「それ、いいかもな」と岩尾は言い、一行は、葉子の案内でヤギのところへやってきます。
飼い主に金を払うと、好きにしてくれていいという返事が帰ってきました。ヤギの名前はオックというのだそうです。葉子が柵に入って、ヤギをなでるところを撮影したあと、トラックにヤギをのせて、一行は草原に向かいました。
ヤギを草原に離し、カメラを止めた時、一台の車がやってきました。降り立ったのは、ヤギの元飼い主たちです。もうこのヤギは誰のものでもないから私達がいただくと彼らは言います。
「何してるんですか!」と葉子が血相を変えて走り出し、「約束が違うぞ」とスタッフが詰め寄ると、「こんなところに離しても野犬にやられてしまうだけだ」と元飼い主の女性は言い、葉子は「そんなこと聞いていません」と大声を出しました
「あんたたちは撮りたい映像を撮ったからいいじゃないか」と女性は言います。吉岡が紙幣を握らせると、なにか言いながら、元飼い主たちは帰っていきましたが、葉子は釈然としない気持ちをいだきました。
一行は首都のタシケントに移り、美しいホテルに落ち着きますが、Wi-Fiがつながらず、恋人に連絡がとれない葉子は、葉書をしたためます。
ロビーに葉子が座っていると、テムルがやってきました。いつしか話題が東京の葉子の恋人のことになり、テムルに何をしている人ですか?と問われ「海上消防隊」だと葉子は応えました。
テムルはウズベキスタンには海がないから海に憧れるといい、海は素敵なところですか?と尋ねますが、葉子は「ずいぶん危険なものと聞いています」と応えます。「結婚するんですか?」と聞くテムルに葉子は少しだけはにかんで「そのつもりです」と応えました。
葉書を投函するために郵便局に出かけた葉子は街をあてもなく歩き、噴水のある建物の前に出ます。すると、耳に美しい歌声が届きました。導かれるままに、その建物に入っていく葉子。いくつもの美しい部屋を通り抜け、歌声のするところに来ると、一人の女性がオペラを歌っていました。
葉子は客席にそっと腰をかけます。葉子の視線には、ゆっくりと舞台へと歩いていき、オーケストラの演奏で「愛の賛歌」を歌う自分自身が映っていました。夢見心地でしたが、やってきた警備員に声をかけられ、逃げるように立ち去りました。
翌朝、ホテルで朝食をとろうとしていると、岩尾が葉子に声をかけてきました。うかない顔をしている葉子を見て岩尾は「ホームシックか?」と尋ねてきました。
「そんなんじゃないです。でも仕事面でいろいろ難しいことがあって。今のお仕事はやりがいがありますけれど、本当にやりたいことと、どんどん離れていってしまっているように思うんです」と応えます。
「本当にやりたいことって?」「歌です」「歌手? それなら同じことだろ。観客に歌を届けるのも、視聴者にレポを届けるのも」「心のあり方が違うんです」2人はそんな会話を続けました。
岩尾は自分自身も本当はドキュメンタリーが撮りたかったんだと語り、「でも今もドキュメンタリーを撮っている、君を撮っていると面白いよ」と言うのでした。
水族館でブラムルを撮影する予定が、直前になって拒否されてしまった撮影隊。その時、テムルが、ナボイ劇場はどうでしょう?と話し始めます。
ナボイ劇場は、第二次大戦直後、捕虜としてシベリアに抑留されていた日本兵が、タシケントに送られ、建設に関わったものだそうで、彼らは真面目で全力をあげて敵国のために奉仕し、ロシア人もウズベキスタン人も皆驚いたそうです。
その日本兵の話を聞いてから、もっと日本人のことが知りたい、日本と関わる仕事がしたいと思い、今の仕事を選びました、ナボイ劇場は自分にとって特別な存在なのですとテムルは熱心に話します。
そういうの、うちの視聴者には受けないんだよね、と言う吉岡に「吉岡くん、撮るものなくなっちゃうよ」と岩尾が声をかけました。
葉子は「私、そこに行ったかもしれません」と言って、昨日の出来事を話し、一行は町へと向かいました。車の中で吉岡が「葉子さん、一度自分でカメラ回してみる?」と言い、葉子は佐々木からハンディカムを受け取りました。
タシケントの大きなバザールの取材で、葉子はカメラを持ちながら進み、調子よくリポートしていきます。ところが、あまりに人が多く、撮影隊がついていけなくなってしまいます。そうとは知らず、葉子はどんどん一人で進んでいき、挙げ句に、みかけた猫を追いかけて完全に一行と離れてしまいます。それでも、カメラを回し続ける葉子。
誰もいないところで撮影していると警官に尋問され、言葉が理解できない葉子は咄嗟に逃げ出してしまいます。警官に追われる羽目になり、最後は小川の橋の下に身を隠しますが、とうとうみつかって警察署に連行されてしまいます。
映画『旅のおわり世界のはじまり』の感想と評価
2017年、ウズベキスタンと日本の国交樹立25周年記念行事として日本とウズベキスタンの合作映画の話が持ち上がり、オファーを受けた黒沢清監督は、オリジナルのシナリオを書き上げました。
『旅のおわり世界のはじまり』のストーリーを大雑把に要約すると次のようになるでしょう。
仕事で異国を訪れた若い女性は、異国の人々に心を閉ざし、日本から来た撮影隊にも打ち解けようとしません。東京にいる恋人にしか心をゆるさず、人生に迷っている彼女が、さまざまな経験をしていくうちにウズベキスタンの人々の優しさと暖かさに触れ、次第に自己を解放していく物語。
実に“記念映画“に相応しい内容ではありませんか。ですが、実際のところ、ストーリーはそのままなのにまったく違った映画になっているのです。黒沢清にしか描けない、黒沢映画以外の何者でもない作品とでも申しましょうか…。
なにより、ヒロインを演じる前田敦子の特異性が際立っています。
冒頭、メイクを終えて外に飛び出すと、日本人スタッフが誰もおらず、その瞬間、彼女は溢れるような運動力を見せます。ただ呆然と佇むのではなく、瞬時に動き出すのです。
異国の地サラマンドルのバザールではまるで突進のような買い物をし、道なき道を進むかと思えば、度々、車道を大胆に横切り、ガードレールを乗り越えさえします。
さらにハードな絶叫マシーンに何度も乗せられ疲れ果てビニール袋に嘔吐しながら、さっとビニール袋をゴミ箱に捨てると、すたすたと現地の野次馬の中を歩いていくタフな様子はどうでしょう。
前に進めば一人で爆発的に進んでしまい、他者を置き去りにし、挙げ句に追われる身となってしまう、こんなヒロイン、見たことがありません。
異国の地で、誰ともコミュニケーションをとろうとしない彼女は圧倒的に孤独で、冷たいぎすぎすした雰囲気の撮影隊と、バックに流れる物悲しい音楽も相まって、序盤はどこか不安な寂しさがつきまといますが、彼女は少女のように華奢に見えながら(実際、現地の人には未成年の少女と見られています)、その生き方はタフでハードボイルドでさえあります。
中盤、加瀬亮扮するカメラマンの岩尾が彼女に自分がドキュメンタリー志望だったことを告白したあと、「今もドキュメンタリーを撮っている。面白いよ、君を撮るのは」と言うシーンがあります。
これは、黒沢清監督自身の言葉と言えるのではないでしょうか。
“前田敦子を撮るのは面白い” そんな黒沢監督の心の声が聞こえるようです。
まるで前田敦子のドキュメンタリーではないかと思わせるくらい、本作における前田敦子は圧倒的で、一時も目が離せないのです。
ところで、タイトルの『旅のおわり世界のはじまり』を見て、『世界のおわり旅のはじまり』ではないのかと思った人も少なくないでしょう。というのも黒沢映画では大概世界は終焉を迎えていて、人々は決まって旅に出るからです。
本作でもウズベキスタン・タシケントの警察署のテレビに、東京が燃え盛る場面が映し出されます。それを観たヒロインは「原発!?」とテレビの前で悲鳴を上げます。
石油コンビナート火災であることがわかり、大事故であるにせよ、原発事故でなかったことで”世界“はかろうじて救われるのです。
ラスト近く、共に進む撮影隊に向かって「ちょっと先を見てきますね」と言い残して前田敦子はどう見てもちょっと先とは見えない距離を一人でずんずん進んでいきます。彼女が前進すると、もう誰も追従できません。
そこで彼女は遥か彼方の草原で、一匹のヤギを目撃します。野に放ってやったオックに違いありません。ここで私たちは“心がすっと降りてくる瞬間”を目撃するのです。高らかに歌い上げられる「愛の讃歌」。
黒沢映画でこれほど美しい世界の始まりが描かれたことに静かな感動を覚えました。
まとめ
前田敦子と行動をともにするのはカメラマン役の加瀬亮の他に、染谷将太がディレクター役、柄本時生がAD、アディズ・ラジャボフが現地人との交渉役に扮し、とてもいい味を出しています。
染谷将太は冒頭から微動だにせず立っていて前田敦子に微塵も関心を示しません。彼女を置いて行ったのも彼なのでしょう。実にいけすかない役なのですが、徐々に人間の弱さが現れてくるところに旨さを感じました。
アディズ・ラジャボフは、ウズベキスタンの国民的人気俳優です。
彼が演じたのは、日本人撮影隊と現地の人々をつなぐ役割を果たすコーディネーターですが、通訳という以外にも、双方の考え方の違いや文化の違いでもっとも苦労したのは彼に違いありません。
前田敦子がホテルの窓を開けた途端、強い風が入り込んでカーテンが泳ぐショット、前田敦子の横顔のアップに、ずっと聞こえていた噴水の音が消え、かすかに女性の歌声が聞こえてくるシーンなども忘れ難いものがあります。
黒沢監督には是非、もう一本、前田敦子主演で映画を撮ってもらい、歌うシーンを入れて、『Seventh Code』 、『旅のおわり世界のはじまり』と共に、前田敦子歌唱三部作を完成させてもらいたいものです。