変わりゆく時代の中で、私達が忘れてしまった信仰とは。
映画『聖なる泉の少女』は、実際にジョージアのアチャラ地域に昔から口承で伝わってきた物語に基づいた作品です。
むかしむかし、泉の水で人々の傷を癒していた少女がいました。いつしか彼女は他の人々のように暮らしたいと願い、自らの力を疎ましく思うようになります。
物質文明がもたらした、自然崇拝の衰退。少女の選んだ道とは?そして物語の結末は?
深い霧に包まれた森と湖、美しく幻想的な村に伝わる伝承を、神秘的に描いた映画『聖なる泉の少女』を紹介します。
映画『聖なる泉の少女』の作品情報
【日本公開】
2019年(ジョージア・リトアニア合作映画)
【監督】
ザザ・ハルバシ
【キャスト】
マリスカ・ディアサミゼ、アレコ・アバシゼ、エドナル・ボルクバゼ、ラマズ・ボルクバゼ、ロイン・スルマニゼ
【作品概要】
ジョージア地方に太古の時代から語り継がれてきた物語を基に描かれた映画『聖なる泉の少女』。監督は、『ミゼレーレ(神よ、我が憐れみたまえ)』のザザ・ハルバシ監督。自ら脚本も手掛けています。主人公のツィナメ役を演じるのは、マリスカ・ディアサミゼ。2017年の東京国際映画祭コンペティション部門に選出された際には監督と共に来日しています。
映画『聖なる泉の少女』のあらすじとネタバレ
ジョージア(グルジア)の南西部、アチャラ地方の山間にある小さな村。水面に山々が写り込む美しい湖に1人の少女の姿がありました。
「神の霊は水面を歩いていた」。聖書の一節が浮かびます。
少女の名はツィスナメ(愛称ナメ)。彼女は、この地で先祖代々続く「聖なる泉」の守り人の家系です。
その日は冷たい雨の降る日でした。ぬかるんだ道を村人たちが、意識を失った男を担ぎ、聖なる泉にやってきました。
父・アリは儀礼の準備を始めます。泉が沸く木に掲げられた松明に息を吹きかけ灯し、結界を張り、場を清めます。
ナメは泉の水を汲み、倒れた男の元へ。その水を手に浸し、男の顔をなでるように触れて行きます。すると、男は目を覚ましました。
村人たちは、ナメのことを「良い癒し手」だと言っています。父もナメを跡継ぎにと考えていました。
ナメには3人の兄がいます。兄たちは、聖なる泉の守り人としての人生ではなく、家を出て町に住み、それぞれの道を歩んでいました。
キリスト教の司祭となったギオルギ。イスラム教指導者のヌリ。そして、教師のラド。信仰も生き方も自由な兄たちを、ナメは羨ましくもありました。
ある晴れた日、父アリが聖なる泉の水位が低いことに気付きます。泉にはどこから来たのか、ずっと長く生きる白い魚が住んでいました。
聖なる泉の聖なる魚。アリは守り抜くことに命をかけていました。魚を木の器に移し、町へ魚の餌と水質の調査に出かけます。
アリの留守の間、山道で車の故障で肩に火傷を負った男・メラブが、ナメの元にやってきます。
聖なる泉の水で、傷をいやすナメ。村人ともあまり交流を持たないナメは、普通に接してくれるメラブに好意を抱きます。
村人たちが、歌い踊りながらナメの横を通り過ぎて行きます。ナメの心もどこか浮かれていました。
山々が霧に包まれる日、いつものように儀式の準備をする親子。しかし、松明に火が灯ることはありませんでした。
「私の代で聖なる泉が枯れようとしている」。父アリは体調を崩してしまいます。久しぶりに家に集まる兄弟たち。
「父とは求めるものが違うんだ」。兄たちの心境も複雑です。
ナメはひとり聖なる泉の元へ。息を吹きかけると松明が灯りました。夜空には綺麗な月が出ています。
映画『聖なる泉の少女』の感想と評価
山々に囲まれた霧深い村の、壮大で幽玄な自然の中で伝承されてきた「聖なる泉」。そして、泉に生きる白い魚。すべてが神秘的で美しい光景です。
映画の冒頭で、山から小滝となって流れる水が、澄んだ色から徐々に白く濁っていきます。その水の色の変化に気付いた時、恐怖を感じました。
映画の中では直接的に原因は語られませんが、映像により、それは水力発電所の建設によるものだと分かります。
水の汚染で枯れてしまう「聖なる泉」。同時にそれは、その土地に代々伝承されてきた自然崇拝の衰退に繋がっていきます。
この映画は、実際にジョージア地域に伝わってきた、泉の水で人々の傷を癒していたと言われる少女の物語を基に描かれていますが、その伝承の中の少女は、普通の人の生活がしたいと、自ら力の源だった泉の魚を解き放ち、最後には信仰を捨ててしまいます。
映画『聖なる泉の少女』のナメはどうでしょう。伝承の少女と同じように普通の生活を望み、やはり最後には、泉の魚を放ちます。
しかし、ナメの場合、原因は他にもありました。土地開発による水の汚染です。汚染は驚異の速さで進み、気付いた時にはすでに「聖なる泉」に異変をもたらしていました。
父親アリは、「聖なる泉」の異変の原因が分からないまま、泉を守ろうと必死になり体調を崩してしまいます。
そんな中、ナメは普通の少女のように、恋をし、オシャレに興味を持ち、兄たちのように自由に生きたいと願います。
しかし、泉の枯れた原因を知ったナメは、怒っているように見えました。泉から飛び出た魚を、桶にいれ湖に運び放つシーンは、魚と一緒にナメも自分のいる場所を失くしたように悲しげでした。
古代から伝わる自然崇拝の例は世界中にあります。日本にも、すべてのものに神が宿るとされる「八百万(やおよろず)信仰」がありますが、時代と共に忘れられています。
また、ナメはそうであったかは謎ですが、霊的世界と交信するシャーマンの存在もあり、古代には自然と人間がもっと近い存在でした。
物質文明の発達は、私たちに便利な生活をもたらしてくれましたが、その反面、人間と自然との距離が離れてしまったように思います。
その結果、自然が上げている悲鳴に気付かず、その怒りは地震、噴火、津波、台風被害と、今まで経験したこともない自然災害となり、人間に襲い掛かっているのかもしれません。
まとめ
古代から伝承される自然崇拝を通して、人と風土の絆の深さを描いた映画『聖なる泉の少女』を紹介しました。
清らかな水が湧く森で、人々は泉の力を信じて暮らしていました。そこには自然への敬意があり、また自然からの恩恵を得ていました。
物質文明によって忘れられてしまった自然崇拝。想像を超える自然災害が起こっている現代だからこそ、人知を超える力を信じたくなります。