アリーチェ・ロルヴァケル監督の『幸福なラザロ』は
2019年4月19日(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次公開
前作『夏をゆく人々』(2015)ではトスカーナ地方で養蜂場を営む一家のひと夏を情感たっぷりに描き切り、第67回カンヌ国際映画祭で見事グランプリを受賞したアリーチェ・ロルヴァケル監督。
世界が注目するロルヴァケル監督の映画『幸福なラザロ』は、現代に蘇った“聖人ラザロ”の彷徨の物語です。
言葉にならない深い感動が押し寄せてくる映画体験に、多くの観客が魂の浄化を覚えるのではないでしょうか。
CONTENTS
映画『幸福なラザロ』の作品情報
【日本公開】
2019年(イタリア映画)
【原題】
Lazzaro felice
【脚本・監督】
アリーチェ・ロルヴァケル
【キャスト】
アドリアーノ・タルディオーロ、アニェーゼ・グラツィアーニ、アルバ・ロルヴァケル、ルカ・チコヴァーニ、トンマーゾ・ラーニョ、セルジ・ロペス、ナタリーノ・バラッソ、ガラ・オセロ・ウィンター、ダービット・ベネント、ニコレッタ・ブラスキ
【作品概要】
『夏をゆく人々』(2015)で大きな注目を集めたイタリアの新星アリーチェ・ロルヴァケル監督の作品。
リアリズムとファンタジーが入り交じる寓話世界は“マジックネオレアリズモ”と評され、本作を観た巨匠マーティン・スコセッシ監督はその才能に驚き、プロデューサーに名乗りを上げました。
第71回カンヌ国際映画祭では、パルムドールを受賞した是枝裕和監督の『万引き家族』(2018)とともに話題となり、脚本賞を見事受賞しています。
映画『幸福なラザロ』のあらすじとネタバレ
20世紀後半のイタリアの小さな村。
大洪水の影響で外の社会から隔絶された渓谷にあるその村では、すでに政府によって廃止された小作制度による搾取が、事実を隠蔽するデ・ルーナ侯爵夫人(ニコレッタ・ブラスキ)によって続いていました。
純朴な村人たちは毎日たばこ農園で過酷な労働を強いられていますが、中でも働き者の青年ラザロ(アドリアーノ・タルディオーロ)は特別でした。
彼は、誰の言うことも素直な心で受け止め、頼まれればどんなことでも引き受けてしまうため、村人たちからもバカにされていました。
ある日、侯爵夫人と子息タンクレディ(ルカ・チコヴァーニ)の一行が村にやってきます。
村人たちは搾取する側の人間に一切関わり合おうとしませんが、ラザロだけは違います。
何もすることがなく暇を持て余しているタンクレディの相手を自ら買って出たラザロは、彼を自分の秘密の隠れ家に連れて行きます。
そこでタンクレディは、母親に反抗するため、自身の狂言誘拐をラザロに持ちかけます。彼はもちろん承諾し、早速脅迫文をでっち上げますが、狡猾な侯爵夫人には通用するはずもなく、すぐに狂言だと見破られてしまいました。
隠れ家に身を潜めるタンクレディの元に食べ物を運び続け、暇の相手も務めるラザロ。
彼の献身的な姿をみたタンクレディは「俺たちは兄弟だ」と冗談めかしますが、ラザロはそれを真摯に受け止め、二人の絆は深まっていきます。
しかし、ある夜、珍しくラザロが高熱を出してしまい、タンクレディの元へ食べ物を届けることが出来ませんでした。
翌朝、まだ熱が引かない身体に鞭打って隠れ家に駆けつけようとしたラザロでしたが、不意に足を滑らせ、そのまま深い谷底へまっさかさまに落ちてしまいます。
映画『幸福なラザロ』感想と評価
土の匂いがするイタリア映画
燦々と降り注ぐ太陽の光。揺らめきをもたらす風とその音。そして土の匂い。
平面なスクリーンからでもその土地がもつ空気伝わってくるのがイタリア映画であり、他のヨーロッパ映画に比べてもこの特徴は顕著なものです。
土地の空気が画面に立ちのぼる映画の例としては、エルマンノ・オルミ監督がいます。
第31回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『木靴の樹』(1979)の画面からは、オルミ監督の出身地でもあるベルガモ地方の土の匂いが薫ってきます。
参考映像:アリーチェ・ロルヴァケル監督『夏をゆく人々』(2015)予告編
前作『夏をゆく人々』ではトスカーナ地方の養蜂場一家の姿を描き、本作『幸福なラザロ』でもイタリアのとある小さな農村の風景を描いたアリーチェ・ロルヴァケル監督も、土地の空気を鮮明に映し出しました。
彼女はその柔軟な感性で、前半部の農村風景の土の匂いと後半部の都市風景の生々しさを見事に調和させます。
オオカミが意味するもの
映画の中で主人公ラザロが困難な状況に陥ると必ず傍らに登場するのがオオカミ。獰猛なイメージの強いオオカミですが、実はイタリアという国を象徴する動物なんです。
古代ローマの建国者、ロムルスとレムス兄弟がオオカミによって育てられた神話は有名です。双子の兄弟が雌オオカミの乳を飲む姿を活写した銅像は、ローマ誕生の象徴として長く語り継がれてきました。
この歴史を踏まえると、ラザロの傍らにオオカミが寄り添う意味も分かってきます。
ラザロには両親がいません。彼が生まれてすぐに亡くなっているのか、彼を捨てたのかも定かではありませんが、祖母の手によって育てられたらしいという描写があるのみ。
侯爵家の子息タンクレディが狂言誘拐の最中、ラザロに「半分兄弟」だと言うシーンがあります。
つまり、女好きの父が遺した腹違いの兄弟だろうと彼は冗談めかすのですが、それはただの冗談では済まず、実はラザロも高貴な血筋の生まれだったと考えることも可能です。
そこから、この物語をラザロの貴種流離譚として捉えることも出来るわけです。
いずれにせよ、ラザロがただの人間ではないことは、彼のあまりに純朴すぎる、素直で清らかな心根と、澄んだ瞳の美しさからも想像がつきます。
“聖人ラザロ”の肖像
そもそもこの映画では、ラザロは“聖人”として扱われています。
村の人々はいつでも、ラザロ、ラザロとその名を繰り返し何度も呼び、彼が珍しく熱を出した時にもまるでご利益を求めるかのようにラザロの額をさするのです。
このラザロの聖人像は、『ヨハネ福音書』に登場する“蘇りのラザロ”に由来しています。死後4日目に、キリストの奇跡によって蘇生した聖人です。
さらにもう一人、タンクレディという名前も繰り返し呼ばれています。
この名前を聞いて、イタリア映画ファンがすぐに思い浮かべるのは、ヴィスコンティ監督の歴史劇『山猫』(1963)に登場する青年貴族タンクレディです。
『山猫』でタンクレディを演じていたのはアラン・ドロンで、そのドロンが同じくヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1960)で演じていたロッコという青年は、本作のラザロにとてもよく似た心根を持つキャラクターです。
ヴィスコンティ監督が描く“聖人ロッコ”を象徴するのがミラノの大聖堂の屋上で流す涙でしたが、ラザロが再会した仲間のグループから離れ一人月明かりの下で流す涙は、より一層の無垢さ・純真さを感じさせます。
驚くべきことに、二人の“聖人”の涙には、「右頬を一粒だけ伝い、そのあまりの美しさに多くの観客が心打たれてしまう」という共通点が存在します。
この偶然の一致をロルヴァケル監督が意識していたとは考えづらいですが、こうした読み方を出来ることが本作の豊かさを物語っています。
聖性を帯びた画面
本作は“聖人ラザロ”の存在によって映画としてのトーンが決定付けられていますが、画面自体は物語の進行にしたがって次第に聖性を湛え始めています。
前半部ではたばこ農園と風光明媚な自然の風景を中心に、収穫の様子や村人の暮らしなどを延々リアリズムで捉えていき、タンクレディに食べ物を運びに行ったラザロが足を滑らせ深い谷底へ落ち、彼の傍らにオオカミが現れる後半部への導入のあたりから明らかに画面の雰囲気が変わります。
時が移ろい、舞台が田舎の風景から北イタリアの大都市へ転ずると、ラザロの聖人像は一層色濃いものとなります。
訪れた教会では、聖人ラザロだけを祝福していたかのように、彼が去った後の教会内部からは音楽が消えてしまいます。
しかし、彼は何よりも再会した兄弟の不義理に心を痛めています。その時ラザロが流す涙が放つ聖性に、スクリーン越しにそれを浴びた観客は随喜の涙を禁じ得ません。
たとえラザロが人々の酷い仕打ちに倒れたとしても、それは彼の新たな生、すなわち“復活”を意味しています。
そして、無惨な姿のラザロの元を離れ、車と車の間をくぐり抜け道路をひた走るオオカミは、“聖人ラザロ”の孤高の魂を古都ローマの“古巣”へ連れ帰ったのでしょう。
まとめ
2019年はルカ・グァダニーノ監督『サスペリア』、ジャンニ・アメリオ監督『ナポリの隣人』、 シルヴィオ・ソルディーニ監督『エマの瞳』などイタリアの巨匠監督の作品が続々公開されており、すでにイタリア映画豊作の年になっています。
しかしそうした巨匠監督たちの作品に並んで、アリーチェ・ロルヴァケル監督の『幸福なラザロ』はエモーションを強く感じさせる作品です。
この風変わりな寓話世界を観客が何の違和感もなく受け入れられるのは、
からです。ロルヴァケル監督が、一人の農夫の不思議な冒険譚として描いた聖人像は、人間が本来持っているはずの健やかで優しげな心根でした。