再生とも堕落とも受け取れる男の人生を描く『ブレスレス』
妻を喪って以降、生きる目的を失っていた男が、人を痛めつける事だけに喜びを感じる女と出会った事で始まる、危険な物語を描いた映画『ブレスレス』。
人によっては嫌悪感を抱くような屈折した物語ではあるのですが、2019年「カンヌ国際映画祭」の監督週間で上映され、その独特の世界観は観客を魅了しました。
また、フィンランドのアカデミー賞にあたる、2020年の「ユッシ賞」6部門を受賞するなど、高い評価を得ている本作の魅力を考察していきます。
映画『ブレスレス』の作品情報
【公開】
2020年公開(フィンランド・ラトビア合作映画)
【原題】
Hundar har inte byxor
【監督・脚本】
ユッカペッカ・バルケアパー
【キャスト】
ペッカ・ストラング、クリスタ・コソネン、イロナ・フッタ、ヤニ・ボラネン、オーナ・アイロラ、アイリス・アンティラ、エステル・ガイスレロバー
【作品概要】
2014年制作の『2人だけの世界』で、フィンランドのアカデミー賞である「ユッシ賞」の、作品賞と監督賞など4部門を受賞した、ユッカペッカ・バルケアパー監督が、危険な世界に溺れる男女を描いたヒューマンドラマ。
主人公のユハを、フィンランドを代表する名優であるペッカ・ストラングが演じており、本作でも「ユッシ賞」の主演男優賞に輝いています。ユハを痛めつける女、モナを演じるのは、数々の映画や舞台で活躍している実力派女優のクリスタ・コソネン。本作でもミステリアスなモナを魅力的に演じています。
映画『ブレスレス』のあらすじとネタバレ
心臓外科医のユハは、夏の長期休暇を、家族と共に湖畔の別荘で過ごしていました。
ユハがうたた寝をしていた時、湖で泳いでいた妻の足に網がからまり、妻は湖の底に沈んでいってしまいます。異変に気付いたユハは妻を助けに湖の中へ飛び込みますが、妻はすでに息絶えていました。
ショックを受けたユハも、湖の中で意識を失いかけますが、偶然通りかかった地元の漁師に救助されます。
数年後。ユハは娘のエリを育てながら、心臓外科医を続けていました。
エリは学校での出来事などをユハに話をしますが、妻を失って以降のユハは、無気力状態でエリの話を聞いていません。エリは、そんなユハを心配していました。
ある夜、ユハは「舌にピアスを入れたい」というエリの願望を叶える為、ボディピアスのお店に同行します。エリが舌にピアスを入れている間に、店内を散策していたユハは、隣接するSMクラブに迷い込みます。
クラブ内にある、トゲの着いたボンテージ衣装に、ユハは何気なく手を触れますが、その瞬間に、ボンデージ衣裳に身を包んだモナに押し倒され、首を絞められます。
窒息する中でユハが見たのは、湖の中にいる美しい妻の姿でした。その瞬間、エリもSMクラブに入って来た為、モナはユハを開放しその場を立ち去ります。
ユハは自宅で枕に顔をうずめ、窒息する状況を作りますが、妻の姿は見えません。
ユハはモナの連絡先を調べ、電話をします。普段は、リハビリテーションセンターの職員として働いているモナは、ユハの電話を取り依頼を受けます。
SMクラブに客として入店したユハは、ボンテージ姿のモナに蹂躙され、鼻と口を手で塞がれ窒息します。
その間、ユハは湖の妻との思い出に浸っていましたが、ユハが握っていたガラス玉を落としたタイミングで、モナはユハの口と鼻を塞いでいた手を放します。
ユハは、モナに次の予約を入れますが、その際に「次は、もっと窒息する時間を増やしてほしい」と望みます。
モナはユハの希望を受け入れますが、その事が後の悲劇に繋がってしまいます。
映画『ブレスレス』感想と評価
妻を喪って以降、生きる目的を失った男が、再び気力を取り戻すまでを描いた映画『ブレスレス』。
美しい湖畔の場面から始まり、少ない台詞ながら、主人公ユハの心情を丁寧に描いた本作ですが、かなり屈折した内容となっています。
ユハは、SMの女王様であるモナに窒息させられた時だけ亡くなった妻の夢を見る事ができる為、妻に会う目的で、モナに窒息してもらう事を求めるようになります。
ここまでだと、妻との再会を求める男を描いた、幻想的かつ、悲劇的な物語と受け止められますが、次第に、モナと出会ってしまった事がキッカケで、ユハがSMの世界にのめり込む展開になっていきます。
最初は、モナにブーツをなめる事を強要され、抵抗していたユハですが、2回目にモナに拘束具を与えられた時は、何の抵抗も見せずに素直に装着し、更にお礼を言っており、完全に目覚めたような様子を見せます。
このユハの変化は何故でしょうか?
妻の夢を見る為に、モナに従っているという捉え方ができますが、他の捉え方として、ユハは最初から死ぬつもりだったとも考えられます。
2回目に、モナに窒息させられた時に、ユハは妻の夢に溺れて、心臓が止まるまで抵抗しませんでした。妻を失って以降、生きる目的も失ったユハは、妻の夢を見ながら、永遠に眠りたかったのかもしれません。
しかし、ユハの命を奪いかけた事でモナは恐怖を感じ、ユハを避けるようになります。これまで、人を痛めつける時だけ、生きる実感が得られていたモナは、ユハの命を奪いかけて以降、SMに恐怖を感じて、何もかもが上手くいかなくなります。
中盤以降は、死を求めるユハが、死の恐怖を知ってしまったモナを追いかける展開となっていきますが、この辺からユハの異常性が目立ってきます。
そしてクライマックスでは、ユハが「自分に何をしてもいい」という条件で、最後に1度だけ、モナに窒息させてもらいます。ユハを窒息させる前に、モナは、拘束したユハの奥歯を1本抜き取るのですが、この辺りから完全に2人の世界が広がっていきます。
本作のラストでは、ユハは拘束具を装着した状態でSMバーに行き、完全にアブノーマルな世界の住人となります。最後に見せる笑顔は、もう死を望んでいない事が分かりますが、新たに見つけた生きる目的が、SMの世界だったのです。
本作は、光や色の使い方が印象的で、それらの繊細な演出によって、ユハの心情を表現しています。序盤の湖の場面では、青を基調とした美しい映像が印象的です。
ユハが妻を失って以降の日常の場面では、全体的に暗い色調となっていますが、モナとのSMクラブの場面は、黒を基調とした赤い光が印象的で、アブノーマルな世界を強調しています。
そして、ユハが新たな世界に目覚めたラストでは、色調が鮮明となり、それまで、全体的に静かな音楽が作中で流れていたのですが、ここからユーロビートのような音楽に切り替わり、ユハが、この世界に生きる目的を得た事を強く印象付けます。ラストでユハがモナに向ける笑顔は、屈折した愛情表現とも受け取れます。
本作は、ユハの再生とも堕落の物語とも、どちらにも受け取れる為、観賞した人によって、印象が大きく変わる作品ではないでしょうか?
まとめ
本作は、家族の形を描いた物語でもあります。とは言え、決して美しい物語ではありません。
ユハは妻を失って以降、本来なら残された娘のエリに愛情を注ぎ「エリこそが生き甲斐である」となれば、美しい家族の物語だったのでしょう。
しかし、ユハが生き甲斐を見つけたのは、SMの世界でした。そもそも、ユハは作品全体を通して、エリの話を全く聞いておらず、エリに興味のない様子です。
逆にエリは、妻を失って以降のユハを心配しており、積極的に話しかけようとします。ですが、ラストではエリにも恋人ができて、話しかけようとしたユハを避けるように立ち去ります。今後も、ユハとエリは父娘という形を続けますが、心が通う事は永遠に無いような印象を受けました。
映画『ブレスレス』は本当に屈折した物語であり、周囲の助けを無視して自分の欲望に走るユハの姿には、嫌悪感を抱く人もいるでしょう。
しかし現代社会を生きるうえで、誰もが仕事や家族だけに、生き甲斐を感じる訳ではないでしょう。誰にも理解されない趣味を抱えて、そこに生きる理由を見出した人がいても、何も不思議ではありません。作中のモナのように、普段はリハビリテーションセンターで人を助ける仕事をしていても、本当は誰かを痛めつけたい願望を抱いている人もいるでしょう。
本作は屈折した物語ではあるのですが、苦しみながら現代社会を生きる人達の姿を、純粋に描いた作品であるとも言えます。