講義「映画と哲学」第2講
日本映画大学准教授である田辺秋守氏によるインタネット講義「映画と哲学」。
第2講でも、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の名作『デカローグ』(1989~90)を題材に、「悲劇的な行為」について、哲学を通じて考察をしていきます。
悲劇について
前回(第1講)に引き続いて、「行為」について述べるが、今回は行為の中でももっとも劇的な行為についてである。つまり悲劇の行為、「悲劇的な行為」について。ここでも出発点はアリストテレスである。
まず悲劇(tragedy)とは上演される劇(ドラマ)である。現実の出来事ではない。しかし、われわれは現実が悲劇のドラマに似ているとき、比喩的にそれを「悲劇」と呼んでいる。アリストテレスは、『詩学』という著作のなかで、すぐれた悲劇の作り方を解説している。悲劇の制作には、いくつかの決まりごとがある。簡単にひとを驚かせることや、あり得ないような飛躍を用いないこと。筋(ミュートス)を統一すること。比喩などの表現を使って力強い言葉遣いをすること。ギリシア人に馴染みのある場所、共通の話題(伝説や歴史上のエピソード)を用いることなど。
アリストテレスは、悲劇を見る観客の反応についても述べている。というか、アリストテレスは、観客に対する効果から悲劇を定義しようと考えているようにすら見える。まず、観客にはドラマで演じられる行為を観るという快楽がある。人間はまねること(ミメーシス)を楽しむ動物である。さらにもっと複雑な快楽がある。演じられているさまざまな感情をみずから感じ、そしてそれらの感情から自分を浄化することである。「悲劇は、憐れみと恐れを通じて、これらの感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」(『詩学』第6章)。ドラマが虚構(フィクション)であるということがこの解放をもたらすのだろう。悲痛な感情を、それを生み出すものに対して距離をおきながら経験すること、それは痛みや不幸を実際に経験するのではなく、虚構化された仕方で経験することである。これは一種の感情の純化である。この感情の転化によって、「悲劇の快楽」(「憐れみと恐れから生じる快楽」)が生まれる。
行為・出来事・運命
人間は自らの行為を通して不可避的に不幸や破滅に導かれることがある。ドラマとしての悲劇は、こうした人間の行為の再現(ミメーシス)である。ただし、アリストテレスによれば、悲劇はだれにでも訪れるものではない。悲劇の主人公は、徳と正義において優れているわけではなく、悪徳や邪悪さのゆえに不幸になるのでもない。その中間にあって、一種の「過ち」のゆえに不幸へと変転する者が主人公に選ばれる。また、その者は大きな名声と幸運を得ているという条件が付く。アリストテレスはあまり強調しないが、たいてい優れた才覚を持った者である。それこそヒーロー/ヒロインの原形であって、英雄と呼ばれるような人である。
さて、自分の意図とは関わりなく起こることを、出来事と言おう。自分の意図した行為が出来事を引き起こすこともあるが、われわれはたいてい出来事に従って生きている。自分の意図に反しているが、どうしても自分が逆らうことのできない状況や出来事が、「運命」である。悲劇は、英雄の行為と運命との二つがなければ成立しない。一方においては英雄に敵対的するもの(「理由のない運命」)があり、他方に英雄に特有な性格(英知、傲慢、反抗心など)が存在することで、はじめて悲劇は成立する。
悲劇の筋
アリストテレスは、悲劇の筋(ミュートス)には、必ず逆転と認知と苦難(パトス)が存在しなければならないという。あるまとまった行為がなされ、それまでとは反対の方向へ転じる「行為の転換」が逆転である。逆転と同時に、あるいはその後である発見(自覚)が英雄自身に起こるのが認知である。認知とは、「無知から知への転換」である。その過程には必ず苦難(苦痛な、破滅的な経験)が待ち受けている。
アリストテレスは、逆転と認知は物語の筋の構造そのものから生じるものでなければならないという。すなわち、それらは先に生じた出来事から、必然的な仕方で起こる結果であるか、あるいはありそうな仕方で起こる結果でなければならない。そもそもドラマの形式で描く詩作(ポイエーシス)には、起こりうる可能性のある出来事を再現するという点に優位性がある(歴史の叙述と比較して)。これが今日でもドラマの核心にある深遠さだ。
アリストテレスが引き合いに出す模範的な例は、ソポクレスの『オイディプス王』である。神託によって父親殺しと母親との近親姦を予言されたオイディプスは、それを避けるためにコリントスを永久に去るが、放浪の間に知らぬまま予言は実現されてしまう。今やテーバイ(本来の故郷)の王になっているオイディプスのもとにある男がやってきて、オイディプスの本当の素性を明かす。それによって、事態の劇的な逆転(幸福から不幸への転換)と真相の認知(父殺しと近親姦の自覚)が同時に生ずるわけである。
悲劇の巧拙
それでは、どのような出来事が恐れと憐れみを誘うのか。敵対する者同士の行為には、苦難が生じるかもしれないが、憐れみを誘うものはない。互いに親しくもなく敵同士でもない人たち(無関係な人たち)の場合においても憐れみは生まれない。しかし、親しい関係にある人たち(兄弟、親子、友人)の間において苦難があるなら、恐れや憐れみが生じるだろうとアリストテレスはいう。
ところで、『ニコマコス倫理学』と重なる論点であるが(第1講で触れた)、行為はまず、自分が何をするか知っていて行為する場合がある(意図的な行為)。つぎに、恐ろしい行為をしているのに知らずにそれを実行し、あとになってそれを認知する場合がある(意図に反する行為)。さらに、何も知らないために取りかえしのつかないことをしようとし、実行する前に認知する場合がある(意図に反する行為に気づいてやめる)。アリストテレスはこのほかに別の仕方はないという。なぜなら、行為は実行するかしないか(行為/行為でない)さらに、それと知りながらするか知らずにするか(意図的/意図的でない)だからである。アリストテレスは、それと知りながらそれをしないというケースを取り上げないが、その理由はすぐにわかる。悲劇の作劇上の巧拙を序列にしてみればはっきりとする。
①もっとも稚拙なのが、最後のケース、つまり自分が何をするか気づいていて、それを企てながら実行しない場合である(意図した行為の断念/未遂の行為)。これはまったく悲劇的ではない。というのは、そこではなんの苦難も生じないからである。
②これよりましなのは、自分が何をするか自覚していて、実行した場合である(意図した行為の完遂)。典型的なのは「復讐」や「計画的殺人」などである。「王女メディアの子殺し」(エウリピデス『メディア』)。
③もっと優れているのは、知らずに実行し、実行したあとでそんなはずではなかったと認知する場合である(意図に反する行為の実行)。この場合、その認知は人を驚愕させ、恐れと憐れみが生ずる。「オイディプス・ケース」。
④しかし、最も優れているのは、知らずに取りかえしのつかないことをしようとし、実行する直前に認知する場合である(意図に反する行為の中断)。この場合、不幸が主人公に差し迫り、それは不当であるがゆえに、観客に恐れと憐れみが生ずるのだが、最後に不幸は回避されるので、観客が感じる不合理が解消される。第1講で取り上げた『デカローグ2』はこれに近い。
さて、率直に言って、アリストテレスが最も優れている作劇としてあげる④は、むしろ悲劇性を弱める解決のように感じられる。これは現代でも多くの映画に見られる結末である。最後に観客を安心させるからだろう。③こそ悲劇性を純化するプロットのように感じるのだが、どうだろうか。
ここでは③に従ってまとめてみるが、悲劇にはまず「優れた人間」が登場し、自分の意図したことを何とかして成し遂げ、成功し、幸福を得ているという前半の筋がある。ところが、中間のところで状況は急変し、自分の意図に反した大きな力(運命・神力)が働き、ヒーロー/ヒロインはそれに対して全力で反抗する。しかし、最後にヒーロー/ヒロインは運命に屈服し、破滅とともに自分の無力(無知)を認識することになる。結局、悲劇的な行為とは、自分の力の及ばない出来事に対してあくまでも自分の意図を押し通そうとしてなす「反抗」という行為になろう。
『デカローグ1ある運命に関する物語』
アリストテレスの悲劇論は、現代のドラマにおいてどの程度有効なのだろうか。第1講で取り上げた『デカローグ』シリーズの、第1話「ある運命に関する物語」を範例として検証してみたい。
大学教授のクシシュトフと天才児である十歳のパヴェウは、二人だけで暮らしている(母親は不在だが、その理由は示されない)。ときおり、叔母のイレーナ(クシシュトフの姉)がパヴェウの世話を手伝っている。敬虔なイレーナとは違って、クシシュトフは論理と科学の信奉者だ。彼は無神論者であり、万物は計量できると信じている。パヴェウも父親と同じようにコンピューターと計算に夢中だ。クシシユトフはパヴェウがクリスマス・プレゼントのスケート靴を使う前に、近くの池の氷の厚さを一緒に計算してみる。しかし、ふたりが入念に計算したにもかかわらず、氷は不可解にも割れて、パヴェウは溺れ死んでしまう。クシシュトフは息子を亡くしたあと、建築途中の近くの教会に足を運び、絶望と怒りのあまり、黒いマドンナの祭壇を引き倒す。
『デカローグ1』の行為論的な解釈:現代における悲劇的行為?
悲劇の筋からすれば、この映画の前半では、成功したインテリの父と天才の息子ふたりは、満足した生活をしている(父親には若い恋人もいる)。そこに不吉な出来事が少しずつ蓄積され、あるところで急変が起こるのである。
映画には最初から、「意図に反した力」を暗示するものが、不吉な兆侯として現れる。池のほとりで座っている「謎の男」、凍死した犬、腐ってしまった牛乳、勝手に電源が入るコンピューター。
最も不思議な兆候は、池での事故と同時に起こる。クシシュトフが自宅で仕事をしていると、インク瓶が割れ、青いインクが机の上にある論文に広がる。クシシュトフは何か不吉なものを感じる。まさにその時、彼はサイレンを耳にする。窓からは消防車が池の方に向かっているのが見える。が、彼はすぐには池へと向かわない。それをすれば、彼自身の「過ち」を認めることになるからだ。
逆転の最大の設定は、突然池の氷が割れてパヴェウが溺死することである。クシシュトフにとって、池の氷が割れてしまうことは、自分の意図にまったく反しているが、起こってしまった出来事であり、どうすることもできない。まさにそれは運命的な出来事である。事故を回避するために計算を行ったのに、計算が無意味であったことを知る。氷はただ割れるべくして割れたという真相の認知は、しかし、彼にとっては「世界の計算可能性」が過ちであったと突きつけるものなので、とうてい納得できない(自覚にならない)。
父親がスケート靴を与えたことが原因で息子の溺死を引き起こしたという因果をとれば、息子の死は父親に責任があるという見方も成り立つ。しかし偶然起こった事故は、意図に反したことである。そのため、この行為(スケート靴を与えた)は道徳的には許されるのであり、悲劇の筋からすれば、憐れみと恐れを呼び起こす。アリストテレスによれば、憐れみは不当に苦しむ人に、恐れは自分に似た人に感じるものなので、観客にとって悲劇性は強い。もちろん③のプロットだ。
しかし、クシシュトフは、アリストテレス的な意味での悲劇の主人公とは言いにくい。クシシュトフには近代的な懐疑の精神があって、古代の英雄のように傲慢でも、独善的でもない。クシシュトフは計算するだけでなく、事故の前夜、念のため氷の状態を自分で確認さえしている(懐疑主義者の最たる行動)。けれど、あらゆる蓋然性を吟味し、事故(偶然性)さえも予防しようとするその態度そのものが運命によって指弾されたのだとも言える。
最後のシークエンスでは、「運命の力」との対決という意味合いが強くなる。息子が失われた後、クシシュトフは知らず知らず建設途中の教会に向かい、絶望と怒りのあまり、祭壇を引き倒す(反抗の意志)。倒れた蝋燭が黒いマドンナの聖像にかかる。滴る蝋が聖母の「涙」となり、聖母が泣いているかのように見える。しかしそれはあたかもそう見えるだけであって、奇跡のようなものではない。そもそもクシシュトフは神を信じていないのだから、苦難に対する怒りは、誰にも向けようがない。神は不在である。だから偶然生じた「聖母の涙」はいっそう皮肉めいている。現代劇では、古代のように神(神々)を実在として扱うことはもはやできない。現代ではこれらの認めがたい苦難は、不条理(absurd)という言葉で表現するしかない。映画はそのことをはっきりと描いている。
参考文献・映像資料
・アリストテレス『アリストテレス全集18 弁論術・詩学』
(堀尾耕一、野津悌、朴一功訳)岩波書店
・ソポクレス『オイディプス王』
(河合祥一郎訳)光文社古典新訳文庫
・エウリピデス『ギリシア悲劇 Ⅲ エウリピデス(上)』
(松平千秋訳)ちくま文庫
・クシシュトフ・キェシロフスキ監督
『デカローグⅠ 第1話「ある運命に関する物語」』紀伊国屋書店
田辺秋守プロフィール
日本映画大学 准教授、専門は現代哲学・現代思想・映画論。
早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程満期退学。ボッフム大学、ベルリン自由大学留学。
著書に「ビフォア・セオリー 現代思想の〈争点〉」(慶應義塾大学出版会、2006)。共訳書に、ベルンハルト・ヴァルデンフェルス著「フランスの現象学」(法政大学出版局、2009)。
『カンゾー先生』(今村昌平監督、1998)ドイツ語指導監修。週刊「図書新聞」映画評(「現代思想で読む映画」)連載中。WEBではCinemarcheで講義「映画と哲学」を連載。