連載コラム『大阪アジアン映画祭2019見聞録』第3回
女性の存在が根本から問い直されている昨今、意欲作が次々と発表されています。
しかし若手女性の映像作家の活躍は目覚ましいものがありますが、男性監督の作品でも繊細なまでに登場する女性キャストの描写が成功した作品は存在します。
映画『シスターフッド』は男性の西原孝至監督による作品。2019年の第14回大阪アジアン映画祭の「インディフォーラム」部門でも上映されました。
西原孝至監督のドキュメンタリー畑で培われた観察眼を活かした作品は、多くの観客を未知の領域に連れ出す渾身の一作です。
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CONTENTS
映画『シスターフッド』作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【監督】
西原孝至
【キャスト】
兎丸愛美、BOMI、遠藤新菜、秋月三佳、戸塚純貴、栗林藍希、SUMIRE、岩瀬亮
【作品概要】
学生団体「SEALDs」の活動に迫ったドキュメンタリー映画『わたしの自由について』(2016)で高い評価を得た西原孝至監督待望の新作。
当初はドキュメンタリー作品として企画が進み、2017年の#MeToo運動を機に劇映画パートを撮影。オムニバス形式でタイプの異なる女性たちの日常を切り取りながら、ドキュメンタリーと劇映画の境界が次第に曖昧になっていきます。
映画『シスターフッド』あらすじ
“フェミニズム”をテーマにした新作の取材を受けるドキュメンタリー映画監督の池田(岩瀬亮)。
記者の中には辛辣な意見もあり、手応えが摑めないでいました。
ある日、彼はパートナーのユカ(秋月三佳)から母親の介護をするためにカナダへ移住するとを告げられます。
しかしあまり動じる素振りもみせずにやり過ごします。
一方、ヌードモデルの兎丸(兎丸愛美)は、友人の美帆(遠藤新菜)の大学で講義を行った池田のインタビューに応じます。
カメラを向けられた彼女は、自身の境遇を赤裸々に語りだします。
さらに地道な歌手活動を続けるBOMI(BOMI)にもインタビューした池田は、今まで見過ごしてきたものに気づかされ、カナダへ発とうする恋人の元へひた走るのですが…。
言葉をもつことともたないこと
映画の冒頭に興味深いやり取りがあります。
新作ドキュメンタリー作品の監督として取材を受ける池田ですが、記者からの質問は辛辣なものです。
一言で言ってこの映画は何が言いたかったのか。その問いに池田はうまく答えられません。
しかし言語化出来ない感情をすくいとるのが映画です。映画は抽象的なことを具体化していく作業です。その力を信じなければ映画監督は務まらないでしょう。
そういう気持ちはないですかと、逆に問われた記者は自分は鈍感だからと言うことしかできません。
モワモワっとした人間の感情とゆっくり時間をかけて向き合うために映画というメディアはあるはずです。
ドキュメンタリー映画はそのときほぐしのプロセスを描きます。
そうした映画のあり方自体を問い直そうとする本作の西原孝至監督の試みは具体的にはどのようなものなのでしょうか。
ドキュメンタリーと劇映画の“臨界”
もともとドキュメンタリー映画として撮影が進められ、後から劇映画パートを付け加えたという本作は確かにドキュメンタリーと劇映画との境界が極めて曖昧になっています。
近年、そうしたボーダーレスな作品世界が多くみられますが、本作と他の凡百の作品が決定的に違うのは、監督がその曖昧な領域に細心の注意を払いながら足を踏み入れていることです。
広告的には、「ドキュメンタリーと劇映画が混在した実験的なモノクロ映画」ということになるのでしょうが、西原監督は形式上はドキュメンタリーと劇映画のあわいを漂いながらも、その実、明確な“フィクション”を目論んでいます。
池田のパートナーのユカが興味深いことを言っています。「そこはいつも現実となった夢の中」。
この台詞から西原監督が意図するものを読み取れば、現実と虚構の“臨界”がついにみえてくるでしょう。
映画監督が映画監督を描くこと
ドキュメンタリー監督の池田は、西原監督の思考を体現した存在です。
監督自身の思考プロセスを登場人物に委ねる例で真っ先に浮かぶのがフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』(1963)です。
この作品が映画監督のための映画と言われるのは、フェリーニが思考していたことがそのまま映画監督のグイドというキャラクターに受け継がれているからです。
これをみればフェリーニの思考のすべてが分かります。
ただ、フェリーニがフェリーニである所以は、所詮、映画は作り物であるという映画の“作為性”に徹していたことにあります。
本作の西原監督はフェリーニに比べればナイーブすぎるかもしれませんが、そのことがかえって映画にある“真実味”を加えているのです。
参考映像:フェデリコ・フェリーニの『8 1/2』(1963)
西原監督の手法
本作の鮮やかなモノクロームは虚構世界を際立たせますが、一方で西原監督が今まさに思考しているという現実があることによって、この作品には鮮やかなグラデーションが生まれています。
西原監督は、池田のドキュメンタリー制作を通して、自身の思考を整理しながら映像素材を再構築していくのです。
それは池田大学の講義で引用する佐藤真監督の言葉にそのまま示されています。
その意味で本作は西原監督の思考の過程を追ったドキュメントであるでしょうし、作為が施された実際の映像は紛れもない劇映画としての輪郭をはっきり描くことになります。
そうしてその思考の軌跡を辿りながら、画面上に痕跡を残していくのが池田というキャラクターの役目なのです。
だから当然彼は、ドキュメンタリーの人物としての精彩を欠いたフィクショナルな存在であり続けなければなりません。
曖昧ではない女性たちの選択
映画のラストでは空港を彷徨うことになるマージナルな池田に比べて、女性たちは揃って“多様性”を生きています。
彼女たちはそれぞれ個別の選択をしていきますが、それは個性ではなく、人生を生きるための強い意志です。
その場をやり過ごすことばかりの池田は決断するのがあまりに遅すぎました。
女性たちがドキュメンタリーの人物として精彩を放つことが出来たのはそれを怠らなかったからです。
彼女たちがカメラの前で赤裸裸に語る時、西原監督はドキュメンタリストして向き合い、いざ人生の選択をする瞬間にはしかるべき演出家として俳優に芝居を付けています。
西原監督のそうした選択によって本作はドキュメンタリーと劇映画の境界を漂うという曖昧さを見事に解消しているのです。
まとめ
多様性という言葉ばかりが安易に流通する今の社会では、もう一度“共生”というキーワードが問い直されなければなりません。
人が生きていくためには必ず他者の存在が必要です。映画ではそうした自分ではない誰かの真実の姿を垣間みることが出来ます。
言語化出来ない、人間にとって“大切な何か”を発見するにはそれなりの時間がかかるでしょう。
しかし「ドキュメンタリーと劇映画が混在した」本作が超越する時空間の中で、観客はそれぞれの何かを見出していくはずです。
西原監督が意図した多様性とは、ひとりひとりが自分ではない誰かと向き合っていく姿勢を整えていく生き方のことではないでしょうか。
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