連載コラム「銀幕の月光遊戯」第68回
映画『横須賀綺譚』が全国順次公開中の大塚信一監督の劇場未公開作『アメリカの夢』が、名古屋シネマスコーレで限定上映されます。また、後日、ネット配信も予定されています。
『アメリカの夢』は大塚信一監督が、『横須賀綺譚』の前に撮った初の長編作品です。
主人公の駿一は、ある日、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなった腹違いの兄がいたことを知らされます。亡くなった兄の残像は、ボクシングの後遺症による視力の衰えと共に、その後の駿一の人生を大きく左右していきます。
主人公の駿一に尾関伸嗣、駿一の腹違いの兄の恋人に小野まりえが扮し、烏丸せつこ、鈴木一功らが脇を固めた、衝撃のヒューマンドラマです。
映画『アメリカの夢』の作品情報
【公開】
2020年公開(日本映画)
*2020年10月名古屋にあるシネマスコーレにて『横須賀綺譚』上映に併せて、一部特別上映。
【監督・脚本】
大塚信一
【キャスト】
尾関伸嗣、小野まりえ、烏丸せつこ、なかみつせいじ、松浦祐也、鈴木一功、亜矢乃、本間浩介
【作品概要】
『横須賀綺譚』で劇場デビューを果たした大塚信一監督がそれよりも以前に作り上げていた初長編作品。
9.11を背景に、人間の生と死、生き方を問うヒューマンドラマ。
主人公の駿一に尾関伸嗣、駿一の腹違いの兄の恋人に小野まりえが扮し、烏丸せつこ、鈴木一功らが脇を固めている。
映画『アメリカの夢』のあらすじ
ボクシングのトレーニングジムで、スパーリングに励む駿一は打たれすぎるという弱点がありました。
テレビでは、9.11の同時多発テロの映像が流れ、駿一は同僚と共にテレビを凝視していました。
それから数年が過ぎ、時は2007年。
駿一が勤める製麺所に、父親が田舎から一人でやって来ました。駿一の父親は、軽い痴呆症を患っており、一人で現れたことに駿一は驚きます。
「お前には腹違いの兄がいて、ニューヨークでフードコーディネーターをしている。今度ラーメン屋を開店する予定なので、お前を紹介したんだが、ニューヨークで働く気はないか?」という父の言葉は駿一をさらに驚かせます。
その後、父の愛人の女性から、兄が9.11の同時多発テロで亡くなったこと、自分と瓜二つであったことを知らされます。さらにランニングをしていた駿一は、兄の恋人だったという真美という女性に呼び止められます。
ボクシングの後遺症による視力の衰えに不安を持つ駿一は、次第に9.11の「暴力」の記憶に囚われ始めます。
人間の「生」と「死」を見つめる
『アメリカの夢』は、現在、『横須賀綺譚』が全国順次公開中の大塚信一監督の劇場未公開の長編第一作です。
『横須賀綺譚』で観られたいくつかの主題が、この未公開作において既に芽生え、存在していたことにまず驚かされます。作品からは、不穏でふてぶてしくさえある佇まいと、真摯で強い意志が伝わってきます。
『アメリカの夢』では2011年のアメリカ同時多発テロ事件が物語の重要なモチーフとなっています。また、登場人物のひとりは神戸出身で、友人や親族を阪神大震災で亡くしたことが語られます。
『横須賀綺譚』では太平洋戦争や、東日本大震災にまつわる人間の「記憶」が大きな主題として語られていましたが、本作では、人間の「生」と「死」の問題に、より直接的に焦点があてられています。
未曾有の大惨事が起こるその瞬間まで、誰も自分がここで命を落とすなどとは思いもしなかったはず。当事者の周辺の人だって同様でしょう。一瞬にして人生を奪われる恐怖、大切な人を失ってしまう残酷さは計り知れません。
一方で、当事者と当事者以外の人とではこのような大きな出来事でも温度差が生じるのも事実です。
登場人物のひとりは、9.11のテロの映像を流すテレビ画面を観ながら、「アメリカ終わったな」と他人事のようにつぶやきます。映像に衝撃を受けながらも、これは遠く離れた国の出来事で、自分たち自身の身が危険なわけではないとでもいうかのように。
そんな中、『アメリカの夢』は「生き写しの腹違いの兄が存在していて、9.11のテロで亡くなった」というある意味トリッキーな事実を主人公・駿一に突きつけることで、想像力の不足と不寛容さを振りほどこうとしているようにも見えます。しかし、駿一は、その新しい出逢いの中で、大きな試練を余儀なくされていきます。訳がわからないほどの混沌とした情景が果てしなく交錯し、物語は複雑さを増していきます。
SF的、ホラー的な要素の面白さ
『横須賀綺譚』は当初、P・K・ディックの「地図にない町」や、小松左京の「戦争はなかった」のような短編映画を作りたいという思いからスタートしたといいます。『アメリカの夢』もまた、こうしたSF的、あるいはホラー的な要素が盛り込まれています
一つは、テロで亡くなった腹違いの兄の存在です。血が繋がっているとはいえ、ごく最近までその存在すら知らず、会ったこともない兄が自分と瓜二つであることに駿一は戸惑います。「ドッペルゲンガー」や「ダブル」的な存在として、いつしか、その存在は、駿一の心の中で大きな位置を占め始めます。
駿一は兄の母親の頼みで兄のスーツを着用し、望まれるがままに兄の分身になってみせもします。兄の恋人だった女性(小野まりえ)と、兄として、共に歩きながら打ち上げ花火を観る情景は甘美で、その儚さゆえに観る者の胸をしめつけます。
兄が人を殺したことを知った駿一は、次第に「人を殺す」ということに囚われ始めます。画面には不意の暴力と不可解な死体がいくつも現れ、映画は不穏さを増していきます。駿一を演じる尾関伸嗣の不敵ともいえる面構えが素晴らしく、過酷な試練を受ける人物を、繊細にかつタフに演じており見事です。彼の佇まいが、映画のスタイルを象っているといっても過言ではありません。
そしてもう一つ、「ドラえもん」の「どこでもドア」を想起させる赤い扉が象徴的なアイテムとして登場します。そのドアは、インチキ宗教家が「扉の向こうには、あなたの望む真実が開けている」と言って信者を騙すのに使用していたいわくつきのものです。
しかし、駿一がドアを開けた時、こちらを観て立っている兄の姿が見えます。ゾクっとする美しささえ感じさせるショットです。
このドアは、あの世とこの世の境界とも取れますし、現実と非現実、過酷な人生と夢見た人生、選んだ人生と選ばなかった人生といった境でもあるのでしょう。
草原に置かれたドア一枚で、こうした空間を作り出す、映画というものの面白さがここにあります。
「幸せより大切なもの」とは何か?
『横須賀綺譚』で最も気になった台詞は、「幸せよりも大切なものがあるだろ?」という主人公・春樹(小林竜樹)の台詞でした。震災に遭い、記憶を失ってしまった元恋人の知華子(しじみ)が、「私は幸せになりたい」と漏らした際、主人公の春樹は彼女にこの言葉をかけるのです。
この言葉は『アメリカの夢』でも登場します。「幸せになりたい」というのは誰もが持つ究極の望みのように思われます。今、幸せと感じていない人にとっては尚のことでしょう。しかし、主人公は「幸せよりも大事なものがあるだろ?」と断言するのです。
「幸せよりも大切なもの」とはなんでしょうか? それは『横須賀綺譚』にしばしば登場する「あったことをなかったことにはできない」という言葉と無縁ではありません。
自分に何が起こったのか。家族はどこにいるのか、自分の夢はなんだったのか、そうしたことを曖昧にしたまま、上辺だけの平穏を得たとしても、それはただのまやかしにすぎないのではないか。
嫌な気持ちになるからと目をつむって観ないようにしたり、面倒なことに背を向けて楽しさだけを追求したり、同調圧力に乗って、思考停止に陥ったり、政治に無関心だったりという私たちの日常の実態を鋭く指摘されたような気分にもさせられます。
さらにいえば「幸せよりも大切なものがあるだろ」という言葉は、虚構の幸せを得て安住するくらいなら、あえて茨の道を突き進んでやるという主人公たちの決意表明とも取れます。
『横須賀綺譚』における春樹が元恋人に投げかけたその言葉の中に、「作家になるという夢があっただろ? そんな簡単に諦められる、そんな程度のものだったの?」という問いかけが含まれているのだとしたら。それはラーメン屋で働きながら映画を撮る大塚信一監督自身の、映画を撮リ続ける宣言でもあるといえるでしょう。
もっとも、大塚監督にそう問いかけてみたら、「それは特に意図していなかったですね」とさらりとかわされてしまいそうですが。
まとめ
瓜二つの兄の母親に扮する烏丸せつこ、兄と駿一のふたりの父親を演じた鈴木一功の存在が映画を秀抜なものにしています。「顔」の映画といえるほど、本作では人々の「顔つき」が言葉以上に雄弁に語りかけてきます。とりわけ、烏丸せつこのクローズアップにある種の凄みを覚え陶然としてしまいます。
駿一と父と兄の母が眺めのいい山道の一角でピクニックをしているシーンがあります。バスケットを横に置いて画面に背中を見せている烏丸せつこ。彼女を画面中央に置いて、父と息子が、急な傾斜を自転車で二人乗りするスリリングな瞬間をノーカットで見せています。最後の打ち上げ花火のように「幸せ」という感情がほんの一瞬だけ爆発し、通り過ぎます、このようなシーンと出会えるからこそ、人は映画を観続けるのかもしれません。
次回の銀幕の月光遊戯は…
2020年10月17日(土)よりユーロスペース他にて全国順次公開される映画『アィヌモシㇼ』を取り上げる予定です。
お楽しみに。