連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』第19回
一人の炭坑画家の絵画を通して見た、日本最大の産炭地の栄枯盛衰。
今回取り上げるのは、2019年5月25日より東京・ポレポレ東中野ほか全国順次公開の、『作兵衛さんと日本を掘る』。
2011年5月にユネスコの「世界記憶遺産」(世界の記憶)に登録された炭鉱絵画・山本作兵衛が遺した2000枚もの絵画を軸に、日本の近現代史を追っていきます。
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CONTENTS
映画『作兵衛さんと日本を掘る』の作品情報
【日本公開】
2019年(日本映画)
【監督】
熊谷博子
【キャスト】
井上冨美、井上忠俊、緒方惠美、菊畑茂久馬、森崎和江、上野朱、橋上カヤノ、渡辺為雄、青木裕子(朗読)、山川建夫(ナレーション)
【作品概要】
日本初のユネスコ世界記憶遺産になった、山本作兵衛の記録画と日記を通して、日本の近現代史を追っていくドキュメンタリー。
国策として進められた石炭産業の栄枯盛衰を、炭坑夫の視点から見つめてきた作兵衛が描いた2000もの絵画や、彼を知る者の証言などを交えて振り返ります。
監督の熊谷博子は、過去に2013年のNHKドキュメント『三池を抱きしめる女たち 戦後最大の炭鉱事故から50年』や、映画『三池~終わらない炭鉱の物語』(2005)など、日本の炭鉱産業の歴史を追ったドキュメンタリー制作に定評があります。
映画『作兵衛さんと日本を掘る』のあらすじ
日本最大の産炭地として知られた、福岡県の内陸部にある筑豊炭田。
この地で幼い頃から炭鉱夫として働いてきた山本作兵衛は、60歳半ばを過ぎてから、自らが体験した労働や生活を後世に伝えるべく、独学で画家となります。
そんな折、昭和40年代後半から、国のエネルギー政策は石炭から石油へと移行。
それにより炭鉱は次々と姿を消していき、同時にかつての炭鉱夫たちも転機を迎えることとなります。
次第にエネルギー供給を原子力発電に依存していく中で、作兵衛は後の自伝で「底の方は少しも変わらなかった」と記しました。
作兵衛が記した「底」とは何だったのか?
本作では、作兵衛が手がけた炭鉱の記録を描いた絵画とともに、生前の彼を知る人々などの証言も交え、日本の過去と現在、未来を「堀って」いきます。
日本初のユネスコ世界記憶遺産登録者、山本作兵衛
1892(明治25)年に福岡県嘉麻郡で生まれた山本作兵衛は、7歳から坑内に入り、13歳で炭坑夫となります。
約50年間で21の炭鉱を転々としながら働いた作兵衛は、働いていた位登炭鉱が1956(昭和31)年に閉山したの機に、画家の道を歩むことに。
以降、独学で画力を磨いた作兵衛は2000枚もの絵を描き、「炭鉱に生きる」「筑豊炭坑絵巻」などの画文集を残します。
1984年12月に92歳でこの世を去りましたが、2011年5月、ユネスコは作兵衛の絵や日記など697点を、日本人として初の世界記憶遺産に登録しました。
ちなみに、他に世界記憶遺産されたものとしては、フランスの人権宣言や、ヴェートーべンの「第9」の自筆楽譜、アンネ・フランクの日記などがあります。
なお、作兵衛を追ったドキュメンタリーとしては他に、『炭鉱に生きる』(2011)、『坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~』(2014)などがあります。
参考映像:『坑道の記憶~炭坑絵師・山本作兵衛~』予告
子孫のために生気あふれる炭鉱の記録絵画を遺す
作兵衛が画家の道を目指したのは、昭和30年代になって働いていた筑豊の炭鉱が閉山してしまってから。
12人の孫に恵まれた作兵衛は、彼らにヤマの生活や作業風景を伝えるには絵が最適と、63才にして資材警戒の夜勤を勤めつつ、その合間に独学で画力を磨いていったのです。
作兵衛の絵は、「下手と言ったら下手で。稚拙すぎると言えばすぎる」という、同じ画家である菊畑茂久馬の劇中の証言が示すように、決して上手いとは言えないかもしれません。
しかしながら、男女関係なく上半身裸になり、作兵衛のように子供も一緒になって働いた者たちの生気あふれる日常を、克明に伝えます。
本作では、そうした作兵衛の絵に合わせて、つるはしを振る音や炭鉱を運ぶ音などの環境音や、ピアノやヴァイオリンによる音楽を盛り込むことで、当時の状況を想起させる試みがなされています。
埋もれさせてはいけない、炭鉱夫が抱えてきた苦悩や悲しみ
明治から昭和40年代まで、日本のエネルギーの基幹産業として、経済を支えてきた炭鉱業。
しかし、炭鉱夫と呼ばれた作業員たちは、日々過酷な状況の下にいました。
狭い坑道の中でふんどし姿の男の炭鉱夫が掘っていき、女鉱夫が掘り当てた炭鉱をレール上の石炭籠で運んでいく作業を繰り返しますが、予期せぬ落盤事故により命を落とす危険性も伴います。
実は女性が鉱夫として働くことは、昭和初期に禁止されていました。
しかし筑豊の女性たちは、それでは生活がままならないと、隠れて、いやむしろ堂々と男と一緒に炭まみれとなっていたのです。
そんな女坑夫の絵姿を、記録文学者の上野英信は、「筑豊の聖母子」と評しました。
にもかかわらず、福岡県内では炭鉱夫という職への偏見・差別があったといいます。
作兵衛の三女である井上冨美は、結婚する際に父親が炭鉱夫をしているからとして嘲笑の対象にされ、その考えは今なお残っていると語ります。
また、作兵衛の孫にあたる井上忠俊は、若い頃は自分が筑豊出身だということを隠したくなる気持ちが少なからずあったと吐露。
さらには、炭鉱が廃れてしまったことで、どうしても「暗い、イメージが悪い」という理由から、筑豊という地名そのものを変えるべきだという声も上がったという、驚くべき事実も明らかとなります。
だからこそ、炭鉱の歴史や、炭鉱夫が抱えてきた苦悩を埋もれさせてはならないと、作兵衛は黙々と絵を描き続けたのです。
辛く厳しい労働こそ誇り
劇中では、長年、炭鉱で働いてきた生き証人たちにもクローズアップします。
当然ながらその多くは年老いているも、炭鉱夫として働いていた頃を懐しむ際の表情は、皆明るく、活き活きとしています。
なかでも撮影時104歳だった橋上カヤノは、夫と8人の子全員に先立たれても、「貧乏が一番の力になった」と、年齢を感じさせない力強さで回想。
辛く厳しい労働だったはずなのに、彼らはそれを誇りにし、貧しいながらも確かな幸せを感じていたかのようです。
まさにそれは、作兵衛の絵に描かれた「彼ら」と同じなのです。
生前は酒を愛し、酔いが回ると歌を口ずさんでいたという作兵衛。
本作では、そんな彼の肉声による歌「ゴットン節」が、まるで主題曲のように使われています。
ゴットン節とは、筑豊の炭鉱夫の間で歌われていた、いわゆる労働歌のことで、つるはしの音や石炭を運ぶ車の音が、「ゴットン」と聞こえることが歌名の由来とされています。
歌詞だけでも数百近くあるとされ、過酷な炭鉱現場の実態や暮らしや、恋愛事情にまで触れたものもあるというゴットン節。
この歌を歌いながら、日本の底を支えてきた者たちの輝かしい歴史が、『作兵衛さんと日本を掘る』に詰まっているのです。
次回の連載コラム『だからドキュメンタリー映画は面白い』もお楽しみに。