アートを凌駕し、ファッションそして音楽をも刺激する天才アーティスト、バスキア。
没後30年を迎え、その秘密に迫るドキュメンタリー映画が誕生しました。
バスキアが注目を集める前の1970~80年代ニューヨークの社会やアートにスポットを当て、初期の秘蔵作品、影響を受けた詩や音楽などを交えながら、アーティストとして世界へ羽ばたいていく姿を映し出します。
CONTENTS
映画『バスキア、10代最後のとき』の作品情報
【公開】
2018年(アメリカ映画)
【原題】
Boom for Real: The Late Teenage Years of Jean-Michel Basquiat
【監督】
サラ・ドライバー
【キャスト】
ジャン=ミシェル・バスキア、アレクシス・アドラー、ファブ・5・フレディ、ジム・ジャームッシュ、ケニー・シャーフ、アル・ディアス、リー・キュノネス、ジェームズ・ネアーズ、パトリシア・フィールド
【作品概要】
10代のバスキアに焦点を当てたのは、『豚が飛ぶとき』(1993)で独自の世界観を表したサラ・ドライバー監督。
彼女自身も、バスキア同様にニューヨークが変わる瞬間を生きた監督です。
2018年のバスキア没後30年を記念し、1978年から81年頃のニューヨークでバスキアが友人のアパートを転々としつつも、ストリートに作品を刻みつけていたバスキアに焦点を当て、天才アーティスト誕生の秘密に迫ります。
映画『バスキア、10代最後のとき』のあらすじとネタバレ
1970年代のニューヨークのビル群。
その頃のニューヨークは財政が破綻し人々の生活水準が悪化、裕福な白人達は郊外へどんどん移住していました。
結果あちこちで暴力や犯罪が蔓延。
そんなニューヨーク・イーストヴィレッジに、一人の青年が夢と野望だけを抱えてやってきました。
彼こそが、ジャン=ミシェル・バスキア。
実家を飛び出して来た彼は、友達の家を転々と泊まり歩いていました。
無法地帯化したニューヨークは若者にとって、既成概念を破壊し、新しい時代を自らの手で創り出すビッグチャンスにあふれています。
ニューヨークのストリートでは、パンクロックやヒップホップ等の音楽、そしてファッション、文学やアート、揺れ動く政治と人種問題が日々目まぐるしく入れ代わっていました。
そして多くの若きアーティストたちが磁石に引き付けられるように集まります。
バスキアの元ガールフレンドのアレクシス・アドラーによると、絵画だけではなく部屋の冷蔵庫や壁、ドアそして外のゴミまでが彼の創り出すアート作品となっていました。
廃墟のような街並みの中、スプレーを持って、壁に高速で何かを描くバスキア。
色とりどりのメッセージとイラストが描かれた地下鉄が走ります。
バスキアは、グラフィティにこだわらず、詩や絵を組み合わせ新しいスタイルを生み出していました。
彼は友人アル・ディアスと“SAMO”というグラフィティアートのユニットを作ります。
攻撃的かつ観念的な詩は、人々の好奇心をそそり、ニューヨークの街で話題となりました。
バスキアは公共性の重要さを知っていたんです。
その後バスキアは音楽に夢中になります。
グラフィティ・アーティストでヒップホップMCも務めていたファブ・5・フレディとも、バスキアは親交を深めます。
バスキアとバンド“グレイ”を組んだアーティストのマイケル・ホフマンは、「彼はバンドの端っこで演奏していて、前に出なかった」と懐かしそうに話します。
さらにノイズ音楽にも興味を持っていたバスキア。
当時のバンドの映像も流れます。
バスキアはコラージュしたポストカードやペインティングしたTシャツを手作りして売り歩きました。
既製品の服にペインティングをし“マンメイド”というブランド名をつけて、ファッション・デザイナーであるパトリシア・フィールドの店でも販売。
ソーホーのレストランでバスキアがポストカードを売っていると、アンディ・ウォーホルが買ってくれました。
その頃ニューヨークのダウンタウンは、疲弊したビルが画家、ミュージシャン、彫刻家、パフォーマー、ダンサーなど若いアーティストの発信場所になっていました。
若者と年上のアーティストは刺激を受けあい、学び合うことができました。
毎晩のようにパーティーやクラブにアーティストが集まり、ドラッグも街中で当たり前のように売られていました。
ドラッグを友人と吸いながら話しているバスキアの姿が映ります。
映画『バスキア、10代最後のとき』の感想と評価
バスキアの生涯と魅力とは?
バスキアと聞いて思い浮かべるのは、ある日本企業の社長が、バスキアの絵『Untitled』を123億円で落札したニュース。
そのニュースが世界中を駆け巡ったことで、多くの人々がその画家を知りました。
『Untitled』には黒く塗りつぶされた頭蓋骨と、あまりの激しさと挑発的な荒さが描かれ、一度見たら忘れることができません。
それほどの衝撃を与えるバスキアの魅力とはどこにあるのか。
それを紐解くために、この映画ではバスキアの才能が開花し始める10代の頃を辿ります。
今や世界の資産家の垂涎の的となっているバスキアは、1988年27歳の時にヘロインの過剰摂取が原因でこの世を去りました。
ドラマティックな成功から早すぎる死に散ったその生涯。
ジュリアン・シュナーベル監督が劇映画『バスキア』(1996)で、タムラ・デイヴィス監督がドキュメンタリー映画『バスキアのすべて』(2010)で彼の生き様を描いてきました。
参考映像:ジュリアン・シュナーベル監督映画『バスキア』(1996)
アート界のスター、ジュリアン・シュナーベルはバスキアの親友でした。
初の映画監督作である『バスキア』で、親友のシュナーベルから見たバスキアの生涯を映画化しました。
ポップな演出とアートと音楽がマッチしているクールな映像。
また、ジェフリー・ライト、ベニチオ・デル・トロ、デビッド・ボウイ、デニス・ホッパー、ゲイリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、ウィレム・デフォーという、今では考えられない程の豪華キャストです。
参加映像:タムラ・デイヴィス監督の映画『バスキアのすべて』(2010)
デイヴィス監督の『バスキアのすべて』は、有名アーティストの友人たちの言葉でつづられたドキュメンタリーです。
若くして才能を開花させ、著名人たちと交際するなど華やかな生活を謳歌しながら、一方で人種差別に苦悩していたバスキアの光と影が映し出されていました。
そして、本作『バスキア、10代最後のとき』は10代最後のバスキアを追うという、過去の2作とは全く異なるスタンスで撮っています。
グラフィティ・アートやその他の活動
SAMO
映画では、壁や地下鉄などの公共施設の場にスプレーで絵やメッセージや詩、記号などを描いていたバスキア。
バスキアとアーティストのディアスが組んだユニット“SAMO”が作り出すグラフィティ・アートは、新しい表現として認められていきました。
グレイ
アーティストのマイケル・ホフマンと結成したバンドで、バスキアはバンドの隅でもっぱらサックスやクラリネットを吹いていました。
当時クラブでは、ヒップホップやパンク、ノイズなど新しい音楽シーンが生み出され、多くのアーティストが交流し、アートと融合していきました。
マンメイド
「MANMAID(人工的)」という服飾のブランドを立ち上げます。
バスキアは、名前の如く既製品にペインティングしたり、コラージュしたポストカードを売り歩きました。
既存の価値観を取り去り、新しいものや表現を追求するバスキアの原点とも言える表現です。
バスキアが押し着せられた表現を払拭し、新しい表現を模索し掴み出した時代が、正に「10代、最後のとき」でした。
まとめ
「必要なら、いかなる手段でも」という言葉が入ったポスターを、バスキアは部屋に飾っていました。
アフリカ系アメリカ人の公民権運動の活動家のマルコムXの言葉です。
「必要なら、いかなる手段でも」の言葉通り、野心と夢に突き進んだ“10代、最後のとき”のバスキア。
現代でも既存の表現に満足せずに、新しいものを生み出してほしいという、バスキアの熱いメッセージを受け取りに行きませんか。