ふたりの女にフォーカスした『戦争と女の顔』
2015年ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチのデビュー作『戦争は女の顔をしていない』。
映画『戦争と女の顔』は、『戦争は女の顔をしていない』を読んで衝撃を受けた監督のカンテミール・バラーゴフがその本を原案にして書き上げた、戦後を生きるふたりの女の物語です。
『戦争は女の顔をしていない』は第二次世界大戦の独ソ戦に関わった女たちへのインタビューをまとめたノンフィクションです。
本の方は作者の故郷、現在のベラルーシの女たちの話ですが、映画は1945年、終戦直後のレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)が舞台のオリジナル脚本です。
CONTENTS
映画『戦争と女の顔』の作品情報
【公開】
2022年(ロシア映画)
【原題】
Dylda
【監督・脚本】
カンテミール・バラーゴフ
【製作】
アレクサンドル・ロドニャンスキー
【キャスト】
ヴィクトリア・ミロシニチェンコ、ヴァシリサ・ペレリギナ、アンドレイ・ヴァイコフ、クセニア・クテボア、イーゴリ・シローコフ、コンスタンチン・バラキレフ、ティモフェイ・グラスコフほか
【作品概要】
独ソ戦の前線で戦っていたふたりの女、イーヤとマーシャ。映画はふたりの負った心の傷や身体的な問題を中心に、戦争が終わってもなお苦しみ続ける人々の様子を明らかにしていきます。
主役のふたり、イーヤ役のヴィクトリア・ミロシニチェンコとマーシャ役のヴァシリサ・ペレリギナは共に本作が長編デビュー作。ミロシニチェンコは英題でもある「BEANPOLE(のっぽさん)」そのままの長身、控えめでほとんど笑わないイーヤの苦しみを体現しています。
ペレリギナ演じるマーシャは怒りや悲しみ、時にしたたかな悪女の顔を見せ、その豊かな表情はまさに「女の顔」のタイトルにふさわしいものです。
監督のカンテミール・バラーゴフは本作が長編2作目で、製作当時はまだ20代後半でした。巨匠アレクサンドル・ソクーロフの演出ワークショップに参加し、数々の短編映画やドキュメンタリー映画を製作したのち、デビュー作『Closeness』(2017)でカンヌ国際映画祭FIPRESCI賞を受賞。本作も第72回カンヌ国際映画祭で監督賞などを受賞したほか、世界各国映画祭でも数々の賞を受賞しています。
映画『戦争と女の顔』のあらすじとネタバレ
1945年、第二次世界大戦・独ソ戦後のレニングラード。
軍病院で看護師をしている“のっぽ”のイーヤは、戦場での体験がトラウマとなりたびたびPTSDの発作を起こしますが、院長の信頼も厚く、全身麻痺の患者ステパンからも慕われています。
院長は幼子を抱えるイーヤのため、ひとり分の食料がもらえるよう配慮してくれます。イーヤは帰宅し、息子パーシュカを預かってくれていた隣人に謝礼を渡すと、共同台所に向かい夕食の準備です。
鍋が見つからなかったり、イーヤに言い寄る老人がいたりと快適ではありませんが、可愛いパーシュカとふたりで懸命に生きていました。
翌日はパーシュカを連れて出勤です。市電に乗り病院に着くと、パーシュカの面倒は病室の患者たちがみてくれます。皆は動物のジェスチャークイズで盛り上がりますが、犬すら見たことのないパーシュカは鳥くらいしか当てられませんでした。
その夜、パーシュカは覚えたばかりの犬の鳴き真似をしてイーヤにじゃれついてきます。ふたりは追いかけっこをしてイーヤがパーシュカに覆いかぶさり、動物のように顔をなめ始めます。
すると突然発作が起き、イーヤの身体がパーシュカを圧迫、パーシュカはそのまま動かなくなってしまいました。
後日、戦場から親友のマーシャが戻ってきました。たくさんのおみやげを持ってきた彼女こそ、パーシュカの実の母親なのです。
現地で生まれたパーシュカを送還されるイーヤに託し、彼女は夫を殺したドイツ軍と戦っていました。黙っているイーヤからようやくパーシュカの死を聞き出したマーシャは、踊りに行こうと彼女を誘います。
あいにく店は休みでしたが、若い男二人組にナンパされ、マーシャとイーヤはその車に乗り込みます。イーヤを気に入っている男と彼女をふたりきりにさせ、マーシャは気弱そうなもうひとりの男サーシャを強引に後部座席に引きずり込み性交します。
そして後遺症なのか鼻血が出てしまいます。
怒って戻ってきたイーヤがサーシャを車から引きずり出して殴り始めますが、マーシャはそれを止めてイーヤと立ち去ります。戻ってきた男は「腕を折られた」と笑っていました。
ある日、公衆浴場でイーヤはマーシャの下腹部に大きなキズがあるのを見ます。どうしたの?と尋ねますがそれには答えず、マーシャは子どもがほしいと言います。心の支えに、と。
マーシャは軍病院で働かせてほしい、と院長に頼みにやってきました。イーヤの戦友だと知ると院長は、子どもを失った悲しみを癒やしてあげてほしいとマーシャに言います。
ある日、患者のステパンの妻ターニャが病院にやってきました。イーヤが案内すると、ステパンは悲しげな目でターニャを見つめます。
3人の子どものうちひとりは亡くなり、ステパンも死んだと報せを受けたと言うターニャ。
そんな折、病院に政府高官の女性リュボーフィが慰問にやってきました。お供についてきた息子はあのサーシャです。
マーシャはサーシャと笑みを交わしますが、再び鼻血が流れ出て倒れてしまいます。
目を覚ましたマーシャは院長にキズを見られ、被弾したものだと白状します。そして妊娠の可能性をほのめかしますが、院長にその器官はもうないだろうと言い当てられてしまいます。イーヤはそのやりとりを黙って聞いていました。
その後、院長室にステパンとターニャがやってきます。連れて帰りたいというターニャの思いもむなしく、全身麻痺のステパンは自分がもう人間ではないと言い、死を望んでいます。
院長はターニャに、枕を押し当てて窒息させればいいと言いますが、もうこれ以上辛い思いはさせたくないと彼女は拒みます。「話は終わった」と院長はふたりを追い返します。
その夜、院長はイーヤにこっそり薬を渡して言います。「これが最後だ」と。院長は、回復の見込めない患者の希望で安楽死を請け負っていたのです。それを実行するのがイーヤの役目。ふたりはこの大きな秘密を共有していたのです。
ターニャが病院を去り、イーヤはステパンのもとを訪れます。彼の意志が堅いことを確認し、その首筋に注射をするイーヤ。
最後にタバコをふかし、その煙をステパンに吸わせます。一回、二回。三回目にはもう彼は吸い込みませんでした。イーヤがそれを見届けふと顔を上げると、空きベッドに横たわりその様子を凝視していたマーシャと目が合ってしまいました。
映画『戦争と女の顔』感想と評価
戦闘も戦場も登場しない反戦映画
ロシア語の原題 『Dylda』 は、戦後の社会を生き抜いていく女性たちの、ぎこちなさ、醜さ、品のなさを意味する言葉だそうです。
監督のバラーゴフはイーヤを長身の女性に設定したことについて、ぎこちなさを表現したかったといいます。ぎこちなくて品がない…まさにイーヤ、そしてマーシャです。
なぜふたりが前線に行ったのか、行かなければならなかったのか。それについてこの映画は何も語りません。淡々と彼女たちの行動を追い、ドラマチックに盛り上げたり観客の心に直接的に訴えてきたりしません。
そして偉大なる指導者も登場せず、戦争映画にありがちな女性に対する性犯罪もほぼありません。(唯一イーヤに好意を抱くおじいさんのボディタッチくらい)映像の質感と演者の表情だけで戦争を語っているというところが、この映画の秀逸なところで若き監督の手腕に驚かされます。
原案著作『戦争は女の顔をしていない』によって、戦争やその中で生きる女性たちについての無知に気づき、どこでその思考や性格に変化があったのか疑問を持ったと語る監督。
内容を深く理解し、画面の隅々にまでその要素を落とし込むことによって、観客の身体に染み込むような確実な影響力を持たせることに成功しています。
彼女たちのたたかう相手は?
本作は“勧善懲悪”とは正反対の物語です。敵と味方、あるいは善と悪の境目がわからない…、鑑賞後、どこに自分の気持ちを持っていったらよいか迷ってしまいます。
誰が悪いのか、誰のせいでこうなってしまったのか。原案の著作はもっと直接的ですが、映画では曖昧です。
一時的には、共同生活を営む隣人たちに意地悪されたり、前線帰りの女だからといって差別されたり、目的のために脅されたり、と身近な敵はいますが、やはり何が原因かといったら悪いのは“戦争”です。
作中の人物は弾圧を恐れてそれを口にすることはできませんが、それは誰がみてもハッキリしています。そして、戦争が終結したからといって彼ら、彼女らのたたかいは終わらないのです。
予測がつかなかった展開
この映画の大きな魅力のひとつに“予想外の展開”があります。これは今まで多くの映画を見ていればいるほど引っかかってしまうマジックのようなものです。
それは、戦争映画、戦争によって女性が苦労する映画によくある方向に話が行かない、ということです。
例えば、「イーヤは院長先生の愛人かと思われたがそうではない」「ひとりで子どもを育てるイーヤに思いを寄せる男がいるが、抗えないような危険な状況にはならない」
そして、「息子が恋人として連れてきたマーシャに対し、はなから認めるつもりはないもののきちんと話を聞く富裕層の両親(「ふたりとも悪気はない」とまで発言している)」「DV男との結婚失敗、となる前にあっさり発覚したサーシャの正体」
また、「愛情をもって救い出そうとしてくれたイーヤの元上司、院長先生の存在」などです。
「こうくるか!?」という展開が新鮮で、本来そこへ向かっていたはずの負の感情が行き場を失ってしまった感があります。もちろんこれはなかなかできない面白い経験でした。
結末について
イーヤはマーシャを選びました。同性愛というより、イーヤにとってはマーシャしかいない、マーシャを必要としマーシャから必要とされる、それが愛なのかもわからない共依存の関係なのです。
マーシャは利用できるものはなんでも利用します。それが生きる術であり、ぽっかり空いた穴をふさぐ唯一の手段でした。
“夫”のカタキをとるために戦って敵を倒した…そう思わされていましたが、そうではなく戦争が終わるまで、そこで“男たちの支援”をしていたのです。
そして失った「生きる意味・目的」を子どもを育てることで埋めようとするも、実子はこの世になく、彼女の生殖能力もすでに失われています。
強引に押し付けた我が子を死なせてしまったイーヤの罪悪感を利用し、さらに院長まで巻き込んで目的を果たそうとします。
そんなマーシャの苦悩を捉え、子どもが作れないことで苦しまなくていいのだと、監督は優しい視線を向けているようです。
一方のイーヤはマーシャの“主人”になろうと願うようになっています。
院長に気持ちを吐露し一度はマーシャの前から去ろうとしたイーヤですが、傷ついて戻ってきたマーシャと最終的には和解しました。
これはクィア的なパートナーという意味なのか悩ましかったのですが、そう思って最初から思い返してみるとイーヤはマーシャを愛していたのだという結論に思い至りました。
男性を拒否するそぶり、マーシャとつき合っていたサーシャへの敵意、そしてマーシャの願いを叶えられないとわかったときの絶望…。そのすべてがイーヤのマーシャへの気持ちを現しているように思えます。
それにしても男性と性交したくないイーヤが産める身体で、産めないマーシャが母になりたがるという、なんという運命の残酷さなのでしょうか。
このあとふたりはそれを乗り越え、新しい家族の形を模索して幸せになろうともがいていくのでしょう。
まとめ
ここにある悲劇は鋭利な刃物で傷つけられるような残酷さではなく、ジワジワと呼吸が苦しくなるような閉塞感。窮屈さを感じる映画です。これは第二次世界大戦後の物語ですが、世界では相変わらず戦争が続いています。
以前より即時的にさまざまな情報が得られるようになったとはいえ、戦争以外にもさまざまな不安が蔓延し、わたしたちは得体のしれない敵のようなものに脅かされていると感じることが増えました。
そんなときに観るこの映画、簡単に感想を言えないくらい複雑な感情になりますが、戦争について、いえ、まずは自分と周りの人との関係からでも考えるきっかけにしてください。