連載コラム「電影19XX年への旅」第8回
歴代の巨匠監督たちが映画史に残した名作・傑作の作品を紹介する連載コラム「電影19XX年への旅」。
第8回は、『叫びとささやき』や『仮面/ペルソナ』など、数多くの傑作を映画界に残したイングマール・ベルイマン監督作品『沈黙』です。
翻訳家のエステルは体調を悪くし、妹のアナとその息子ヨハンとともに、言葉も通じぬ異国のホテルで休みます。エステルは孤独に精神を病み、アナは男性に誘われ関係を持ちます。
姉妹がお互いを辟易し、すれ違っていく姿を描いたヒューマンドラマです。
映画『沈黙』の作品情報
【公開】
1963年(スウェーデン映画)
【原題】
Tystnaden
【監督・脚本】
イングマール・ベルイマン
【キャスト】
イングリッド・チューリン、グンネル・リンドブロム、ヨルゲン・リンドストロム
【作品概要】
『叫びとささやき』(1972)や『仮面/ペルソナ』(1966)のイングマール・ベルイマン監督作品。異国の地ですれ違っていく姉妹の姿を描いています。
『野いちご』(1957)や『魔術師』(1958)など、ベルイマン監督作品に多数出演し、その存在感を示し続けたイングリッド・チューリンが主演。『鏡の中にある如く』(1961)、『冬の光』(1962)に続く”神の沈黙三部作”の三作目です。
映画『沈黙』のあらすじとネタバレ
翻訳家のエステルは、妹のアナとその息子である小学生ぐらいのヨハンと共に、汽車で移動していました。窓の外からは、共産圏を思わせる戦車や読めない文字が流れます。
ヨハンは夢中になって、列を成した戦車を眺めます。エステルは汽車に乗車中に体調を悪くし、ホテルで休むことにしました。ベッドで横になると、徐々に生気を取りもどします。
アナは暇を持て余し、ヨハンの横で眠っていました。エステルも酒や煙草、音楽で暇つぶしをしますが、やがてそれにも飽きてしまい、自慰を行います。
エステルは、ホテルにいた給仕に話しかけられますが、言葉は通じず、ジェスチャーでの会話を試みます。
ヨハンがホテルの中を探索します。そして、大柄の老人である給仕に追いかけられ、恐怖に陥りました。
エステルの体調は、再び悪化します。酒でもやり過ごせなくなり、発狂しそうな勢いでうずくまります。
アナは子供のヨハンを放って、散歩にでかけていました。入ったカフェで、ウェイターがわざとコインを落とし、アナを見つめます。
その後、小人たちの劇場を観に来たアナでしたが、隣の席では人目も気にせず、カップルがお互いを求め合っていました。
アナはたまらなくなって、劇場を後にします。するとそこには、先ほどのウェイターがアナを待っていました。
映画『沈黙』の感想と評価
大衆映画的な説明の演出や台詞を省き、ただあるものだけを映したという非常にソリッドな映画『沈黙』。
物語自体には直接的な関係はないものの、ベルイマン監督作品『鏡の中にある如く』(1961)や『冬の光』(1962)と合わせて、神の沈黙三部作と呼ばれています。
そして本作品『沈黙』は、その神の沈黙三部作の三作目、つまり最終作品にあたります。
神に纏わる物語ではありませんが、これまでのベルイマン作品では、不確かで輪郭のぼやけた存在が神や愛であると語っています。
異国の言葉が分からぬ小人や給仕、あるいは全ての登場人物が、どこか未知な存在として描かれていました。しかしそれらの、何を考えているかも分からない他人は、心の支えになり不安を取り除くことはありません。
むしろ心の平穏を乱し、酒や肉体関係など、手軽に満たそうとしたくなる渇望を与えていました。また、神の視点と主観の融合という面においても、本作品は秀でています。
窓の外を見渡していると、聞こえるのは外音ですが、部屋の中に意識を戻すとバッハの音楽が聞こえてきます。淡々としていながら画面のどこかに主観的要素をチラつかせる、ベルイマン監督の演出の妙に痺れます。
ヨハンがホテル内を徘徊している時には下から撮影し、ホテル内が大きく見えます。小人と遊んでいるときにも、ヨハンが主観であることによって、小さいはずの小人がなんだか大きい存在かのように感じさせます。
しかしどうでしょう。エステルがアナに部屋を追い出され、扉の前で泣いている時にすれ違った小人達は、小さくて不気味な存在でした。
中心になる3人の人物の主観を切り替え、同一人物でも異なる解釈を得られることができ、それによって、主観性を取り入れた没入感を味わうことができるのです。
まとめ
ベルイマン監督作品に多数出演するイングリッド・チューリンの、エロティシズムと知性の混ざり合う絶妙な演技が、いかんなく発揮されていました。
女の渇望や葛藤を露わにする際の唇や瞳孔の動きまで、イングリッド・チューリンの演技は素晴らしく、リアリティを感じさせます。
会話をしながら影に消えていく人物など、白と黒で明暗を示す白黒映画特有の特徴も操り、どこを切り取っても絵になるような美しさと、緊張感もありました。
翻訳家という職業は、言葉の通じぬ者同士を繋ぎます。これは神と人間を繋ぐ牧師を暗示しています。
ベルイマンの父は牧師でありながら、ベルイマンに対して体罰を与えていました。本来人と人とを繋ぐはずの翻訳家が、あろうことか、家族の心の内を読むこともできず利己的に生きる姿を映していました。
その結果、戦車で机が揺れるような不安定な場所で、妹にも置いて行かれ、一人で死を待つ状況を嘆いていました。
父親への憎しみを映画に反映させたベルイマンなりの、父への当てつけなのかもしれません。
ベルイマン自身の経験から生み出されたからこそ、エネルギーを持った作品でした。
次回の『電影19XX年への旅』は…
次回は、シャワールームでの殺人描写が有名なアルフレッド・ヒッチコックの名作『サイコ』(1960)を紹介します。どうぞ、お楽しみに。