連載コラム「映画道シカミミ見聞録」第48回
こんにちは、森田です。
今回は6月12日(金)よりアップリンク吉祥寺ほかでロードショー公開予定の映画『あなたにふさわしい』を紹介いたします。
1つの別荘をシェアした2組の夫婦が、離婚の危機に直面する5日間の物語を通して、“ふさわしい夫婦”とはなにかを考えていきます。
映画『あなたにふさわしい』のあらすじ
2組の夫婦が避暑地の別荘を一棟借りて、互いに休暇を過ごすことになりました。
飯塚夫妻は専業主婦の美希(山本真由美)とブランドネーム開発をしている夫の由則(橋本一郎)。もう一方の林夫妻は、由則の仕事のパートナーである多香子(島侑子)とその夫の充(中村有)というペアです。
ブランドネームとは、企業の商品やサービス名を指し、由則と多香子はそれらにふさわしい名前をつける「名づけ親」のような仕事をしています。
この“ふさわしい名前”というのが、やがて夫婦の結びつきをめぐる物語を動かしていきます。
もう一つ、夫婦関係が問われる要素は、浮気です。いつも仕事の蚊帳の外にいる美希と充は、かねてより付き合っていました。
別荘に着いてからも、由則と多香子が急遽発生した仕事に追われているあいだに、美希と充は逢瀬を重ねていきます。
そして美希は、夕食の場で由則が話した仕事の思想を聞いてから、由則との間にある“溝”の正体に気づきはじめました。
それは、自分たちは“ふさわしい夫婦”ではないという認識です。
ふさわしい名前とは
由則が言うには、ブランドネームには「それっぽい名前」ではなく、「ふさわしい名前」をつけなくてはいけません。
つまり、あらゆる事物には「正しい名前」があるというのです。
美希はこれを聞いて、その思想を夫婦関係に押し広げ、自分たちは仮の事物と仮の名前の組み合わせに過ぎない、と思い至ります。
そのことを正直に手紙に綴った彼女は、正しい名前(関係)を求めて、森の中をさまよっていきます。
記号としての夫婦
しかし、そもそも事物に「正しい名前」などあるのでしょうか。
近代言語学を築いたことで知られるフェルディナン・ド・ソシュールは、言葉の表現(音)と、その内容(意味)の関係に必然性はないとしています。
たとえば、“犬”のことを日本語では「イヌ」、英語では「dog」と言って認識しています。
また、日本では「イヌ」と「オオカミ」と呼んで区別している動物が、ある文化圏では“同じ言葉”で表現されていたこともあります。
このように、適当な表現が意味する範囲もさまざまであり、「名前」とは他のイメージとの差異によって便宜的につけられているもの、すなわち「記号の体系」として構成されていると理解できます。
人々は、恣意的な言葉の体系内で、難なくコミュニケーションをとっているのです。
そのため、由則が“生活”にふさわしい名前を求めることも、美希が名前の概念をもって夫婦の本質に迫ろうとすることも、少々無理があるかもしれません。
彼女は森の中で、野鳥カメラマンの孝志(鶏冠井孝介)と出会います。
そこで、仲睦まじい夫婦の象徴であるオシドリが、じつは毎年パートナーを替えていると聞かされるのは示唆的です。
まさに事物にとって必要なのは“体系”であって本質ではないのです。
固有名としての夫婦
とはいえ、ふさわしい夫婦とはなにかを考えることは、現に抱えている問題に対しては大事なことです。
本作では、美希が孝志との邂逅を経てある決断を下すのですが、ここではあくまで「名づけ」という観点から、「良き夫婦」の姿を探っていきましょう。
まず一言で「夫婦」といっても、その関係性は多様です。互いの生活を支えるパートナーという意味では、LGBTsも当然ふくまれます。
そこで確かにいえるのは、「何々さんと何々さんのカップル」という世界に一つだけの存在です。
つまり「夫婦」を一般名詞ではなく、「特定の夫婦」という固有名詞的な発想でとらえる必要がでてきます。
では固有名を正しく担保する要素はなんでしょうか。たとえば富士山であれば、「日本一高い山」「静岡県と山梨県にある」などと、記述することができます。
しかし、日本が台湾を領有していた時代は、“日本一高い山”の座は「玉山」にありました。
このように、固有名は最終的に記述の束で示すことはできないとしたのが、哲学者のソール・クリプキです。
山に関していえば、このさき地殻変動が起きて、より高い山がつぎつぎと生じる可能性もあります。
この可能世界を想定してもなお、人々は固有名が与えられた事物を「ほかでもないそのもの」と実際には認識できています。
クリプキはその単独性を、共同体による命名とその伝達(歴史)という言語体系の外部に求めましたが、これは私たちの経験に合致するでしょう。
固有名を社会的な文脈に位置づけるとき、「夫婦」とはその最小単位である二者関係のうちにとらえられ、一般性に回収できない生活の時間や思い出が、その名を担うにふさわしい要素になるはずです。
これには「習慣」も入ってくるでしょうが、本作ではその点を示す重要なシーンが繰りかえされるので、注目してみてください。
先人たちの答え
宝隼也監督も、脚本に「名前」の要素が持ち込まれたことで「作品の幹が強固なものになった」と述べています。
『あなたにふさわしい』は、ある関係を続けていく上で、それぞれが変化しふさわしい関係になりあっていく必要を描いた映画である。と私は考えています。(映画公式HPより)
名前は一見すると固定的に感じられますが、ここまで確認してきたように、それが示すものはある関係性のなかで変化する余地があります。
だから、名前に縛られてもあまり意味はありません。夫婦関係を記号としてみれば、あるバランスが崩れても、別の均衡をすぐに見つけ、ふさわしく保たれる可能性があります。
その体系はやはり、固有の夫婦の“習慣”というべきで、俄かには替えがききません。夫婦独自の文法が機能しているからです。
先人たちはそれを「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」と表現しました。そして昔から“ふさわしい”というのを事物の善し悪しに求めずに、ただ“お似合い”と呼んできたのです。
映画『あなたにふさわしい』は6月12日(金)よりアップリンク吉祥寺ほかでロードショー公開予定。