アメリカン・ニューシネマの傑作!
1930年代、大恐慌の風が吹き荒ぶアメリカに実在し、大強盗としてその名を知らしめたクライド・バロウ&ボニー・パーカー。
波乱にとんだ彼らの生涯が、それまでのハリウッド映画にはみられなかった激しいバイオレンスの数々のよって活写されていきます。
映画史ではアメリカン・ニューシネマの代表的作品として語られる『俺たちに明日はない』の尽きせぬ魅力とはどのようなものなのか。
映画『俺たちに明日はない』の作品情報
【公開】
1968年(アメリカ映画)
【監督】
アーサー・ペン
【キャスト】
ウォーレン・ベイティ、フェイ・ダナウェイ、マイケル・J・ポラード、ジーン・ハックマン、エステル・パーソンズ、デンバー・パイル、ダブ・テイラー、エバンス・エバンス、ジーン・ワイルダー
【作品概要】
大不況時代に実在したボニーとクライドという強盗カップルの生き様を描いた、アメリカン・ニューシネマの先駆け的作品として有名な本作。
クライド・バロウ役にウォーレン・ベイティ、ウエイトレスのボニー役にはフェイ・ダナウェイ。監督は『奇跡の人』(1962)のアーサー・ペンが務めます。
映画『俺たちに明日はない』のあらすじとネタバレ
時は大恐慌時代のアメリカ・テキサス。
刑務所を出てきたばかりのクライド(ウォーレン・ベイティ)は、早速駐車中の車を盗もうとします。
その様子を2階からみていたボニー(フェイ・ダナウェイ)は声を上げますが、平凡な日々を退屈に感じていた彼女は、クライドに強く惹かれてしまいます。
街でウェイトレスをしているボニーにもまた興味を持ったクライドは、彼女を連れ、同じように車を盗みながら、次々銀行に押し入っていきます。
ほどなくして、ガソリンスタンドで働く車の整備工のC.W.モスを仲間に引き入れますが、C・Wのミスによりクライドは銀行強盗の最中に初めて殺人を犯してしまうのです。
するとクライドはまだ身元が割れていないボニーを早いうちに家に返そうとします。しかし彼女も引き下がりません。
2人は強く惹かれ合いますが、クライドが女性を抱くことが出来ず、ボニーは失望します。
やがて一味には、クライドの兄、バック(ジーン・ハックマン)とその妻、ブランチ(エステル・パーソンズ)を加わり5人となり、バロウ・ギャングとして有名になっていきます。
彼らの強盗団の勢いはとどまるところを知らず、テキサス警備隊の保安官を捕らえて辱めたりもする始末。
しかしボニーはブランチとはそりが合わず、次第に衝突を繰り返していくようになります。
一味は、追っ手の探索が届かないと考えたミズーリに移動しますが、そこでもすぐに隠れ家を突き止められ、銃撃戦の末に何とか逃れます。
バロウ・ギャングの名はすでにアメリカ全土が知るところとなり、包囲網はさらに強化されていました。
精神的に不安定になるボニーを気遣ったクライドは、彼女の故郷に向かうことにします。
そこで彼女の母親たちと一時のピクニックを楽しみますが、犯罪に手を染めた娘とその仲間を軽蔑し、冷たい言葉で別れを告げられてしまいます。
仕方なくアイオワに移りますが、滞在中のモーテルで警官隊に包囲され、激しい銃撃戦によって、バックとブランチは重傷を負ってしまいます。
その場はどうにか包囲網を突破しますが、翌朝再び急襲され、バックは死亡し、ブランシュは逮捕されます。
負傷したクライド、ボニー、C・Wは命からがら逃げ出すことに成功しますが、彼らの命運もすでに尽き始めていました。
映画『俺たちに明日はない』の感想と評価
アメリカン・ニューシマネの代表作
参考映像:ヘイズ・コード期のギャング映画『暗黒街の顔役』(1932)
本作『俺たちに明日はない』は、映画史の大きな潮流であるアメリカン・ニューシネマの先駆的作品として知られています。
それは多くの禁止事項を取り決めた検閲制度である「ヘイズ・コード」からの映画の解放を意味しています。
ハリウッド映画は今でこそ、派手なアクションや暴力を描くようになりましたが、当時は敬虔なキリスト教徒であったメディア編集者や宗教者たちにより、本作で描かれたバイオレンスやエロス描写はご法度であり、画期的なものでした。
30年以上もアメリカ映画の表現の自由を規制していたこの制度の廃止に伴って、それまで押し込められていた人間の感情が一気に爆発し、それが映画表現として花開いたのです。
スローモーションによる引き延ばし、残虐性を極めた暴力描写、激しい性的場面など禁止事項によって彩られたアメリカン・ニューシネマは観る者の心にダイレクトに呼びかけることに成功しました。
自由への道
参考映像:『タクシードライバー』(1976)
本作の有名なラストは多くの映画ファンに強い衝撃を与えます。
人々の人気者とは言え、強盗という犯罪者であることに間違いはないのですから、あのような顛末を迎えるのも当然ではあります。
しかしまた、目を覆いたくなるような凄惨なラストに圧倒的な絶望と落胆を感じてしまうのも事実なのです。
それは、自分たちには味わえないほんとうの意味での自由というものを謳歌する彼らの姿が眩しくみえるからでしょうか。
これを単純に野蛮とするか否かは人間としての良心の問題ですが、アメリカ映画がこのような暴力を描かざるを得なかった理由が重要です。
大恐慌という暗い時代にあって現実と非現実はすでに反転しており、今自分がいるその日を悔いなく生きるより他にありません。
それを愚直に実行しているクライド・バロウ&ボニー・パーカーの生き様はどこまでも爽快で、それこそが彼らにとっての唯一の正義なのです。
いずれにしても、スクリーンを見つめる観客たちも次第にバロウ・ギャングの一味として何か突発的な衝動にかられていくことは確かでしょう。
まとめ
本作がアメリカで公開された1967年というという年について、激化するベトナム戦争への反戦ムードに思い及ぶことも重要です。
アメリカン・ニューシネマという文脈はどうしても合衆国最大の汚点であるベトナム戦争と切っても切れない間柄にあるからです。
刑務所帰りのクラウドは、その後アメリカ映画が取りあげていくベトナム帰還兵を先取りするニューシネマ的キャラクターとして捉えることが出来ます。
そうした当時のアメリカを象徴するボニーとクライドの哀しき物語は、いつの時代でも決して色あせることがありません。
むしろ現実味をもって迫り来るスペクタクルとして永遠に刻まれるバイオレンスは、美しさの反転以外の何ものでもないのです。