連載コラム「銀幕の月光遊戯」第81回
実話をベースにしたペルー映画『名もなき歌』が2021年7月31日よりユーロスペース他にて全国順次公開されます。
1988年、政情不安に揺れる南米ペルーを舞台に赤子を奪われた母親と事件を調査する新聞記者の苦悩と葛藤を描いたのは、女性監督メリーナ・レオン。本作で長編映画監督デビューを果たしました。
カンヌ国際映画祭2019監督週間出品を始め、世界各国の映画祭32部門で受賞。アカデミー賞の国際長編映画賞に向けたペルー代表作品にも選出された鮮烈のドラマです。
映画『名もなき歌』の作品情報
【公開】
2021年公開(ペルー、フランス、アメリカ合作映画)
【原題】
Cancion sin nombre
【監督・脚本】
メリーナ・レオン
【共同脚本】
マイケル・J・ホワイト
【キャスト】
パメラ・メンドーサ・アルピ、トミー・パラッガ、ルシオ・ロハス、マイコル・エルナンデス
【作品概要】
1988年の政情不安に揺れるペルーを舞台に、出産したばかりの赤子を何者かに奪われてしまった女性と、彼女の話を聞き、事件の背後に隠された国家がらみの闇の部分に足を踏み入れる一人の記者の姿を描いています。
監督は本作で長編映画デビューを飾ったメリーナ・レオン。
2019カンヌ国際映画祭・監督週間出品作品。2020年のアカデミー賞では国際長編映画賞・ペルー代表に選ばれました。
映画『名もなき歌』のあらすじ
ペルー南部、中央アンデスに位置する都市、アヤクチョ。先住民の若い夫婦、20 才のへオルヒナ“へオ”と 23 才の夫レオは、家族や親戚たちに見守られる中、歌と踊りで“母なる大地”(パチャママ)を讃える旅立ちの儀式を済ませました。そして、首都リマ近郊の、荒涼たる土地の斜面に建てられたバラックに移り住みます。
妊娠中のへオは、夫が働く市場で仕入れたジャガイモを露店で売り、生計の足しにしていました。ある日、町中で流れるラジオで、ヘオは妊婦に無償医療を提供してくれる産科があることを知ります。
ヘオはバスでリマまで出かけ、産院を受診しました。後日、仕事中に陣痛が始まったヘオは、痛みをこらえながらやっとの思いで産院にたどり着き、無事女の子を出産します。しかし、ヘオは女の子の顔を見ることもなく、一度も抱かせてもらえないまま、一晩、出産台で明かしたのち、また明日来るようにと告げられます。
「娘に合わせて」と何度も叫ぶヘオをふたりの女が無理やり院外へ締め出し、ヘオは追い出されてしまいました。
翌朝、産院を訪れると、ドアは施錠され、何度ノックしてもいくら叫んでも誰も出てきません。産院があった形跡すらありません。
ヘオは夫とともに、警察に向かいますが、有権者番号を持っていない夫婦は、はなから取り合ってもらえず、裁判所に向かうも、徒労に終わり、二人はバラックに帰るしかありませんでした。
レフォルマ新聞社を訪れたヘオは、許可がないと社内には入られないと追い出されそうになりますが、「娘を盗まれた!生後3日の娘が!」と絶叫し、それがメスティーソ(白人と先住民の混血)の記者、ペドロの心を動かします。
ペドロは左翼テロリストたちの事件を担当していましたが、上司からの命でヘオの件を取材することになりました。
ヘオが産院に行くきっかけとなったのがラジオのCMだったことから、ペドロはラジオ局を訪問。一体誰が申し込んだのかと尋ねるペドロに局員は上から圧力がかかっていると言って、最小限の情報だけをペドロに示しました。
ヘオは食堂で知り合った女性から、同じように出産後、赤ん坊を取り上げられた被害者たちがいることを知らされます。
組織的な乳児誘拐事件が起こっているのではないか、と考えたペドロは疑惑の産科を探して周り、ある女に出会いますが・・・。
映画『名もなき歌』の解説と感想
リマ近郊に移り住んだ原住民女性に起こった悲劇
オープニングに1980年代ペルーのアーカイブ映像が流れます。当時、ペルーは、ハイパーインフレーションの発生で深刻な経済危機に陥っていた上に、政府と左翼テロリストの内戦状態が続き政情不安で、深夜は外出を禁止されていました。
継いで、舞台は1988年のアヤクチョへ。若い原住民の2人の夫婦の旅立ちを祝う地元の伝承、儀式が映し出されます。ペルー中央部の高地で生まれたシザー・ダンスは言葉のとおり、はさみを使って音をたてながら他の楽器とともに演奏し踊るという独特のものです。
「シャイニングパス」という左翼テロリストの集団の創設者がアヤクチョ出身ということもあり、この地はテロの被害を被ることが多く、軍との衝突もしばしば起こっていました。おそらく、家族たちは、若い前途ある夫婦をここよりは安心と思われる首都リマ近郊へと送り出すことにしたのでしょう。
しかし、ヘオたちが暮らすのは砂漠のような場所で家もバラック造りのあばら家です。ヘオ夫妻のような人たちは、当然、国家から発行される有権者番号も所有しておらず、それはのちのち、彼女たちに重い問題としてのしかかってきます。国の体制が生んだ最も貧しい人々の代表として、ヘオたちはここに登場してくるのです。
それでも彼女たちは子供が生まれてくることを楽しみにし、いかほどの儲けがあるのだろうと観ていて心配になるほどのじゃがいも売りの仕事も笑顔でこなしています。
しかし、ラジオでたまたま聞きつけた無料を謳う産科のCMが彼女の運命を変えてしまいます。実際にペルーで起こった国際的な乳児誘拐事件がベースになっており、サスペンスフルな展開へと変わっていきますが、メリーナ・レオン監督はヘオに対して、突き放すのではなく、寄り添うような眼差しを向け続けます。
4:3のアスペクト比フレームで展開する映像はモノクロで、ドキュメンタリータッチなスタイルで撮影されていますが、身重のヘオが自宅から市場へと砂山の斜面を一歩一歩進んでいく様子をロングショットで捉えた様は影絵のように詩的で美しく、その豊かな映画的感性に、誰もが魅了されるでしょう。
事件を追う新聞記者
生んだばかりの娘が盗まれたというヘオと夫の訴えにまともに取り合ってくれたのは地元の新聞社の記者ペドロだけでした。調査を進めていくうちに彼は大きな陰謀の存在に気づくこととなります。
彼のモデルになったのが、メリーナ・レオン監督の父親イスマエル・レオン氏です。レオン氏はペルー最大の新聞社の 1 つ、「ラ・レプブリカ」を創立した記者の 1 人でした。1981 年に設立され、子供の人身売買の事件の調査にあたったのだそうです。
父親からその話を聞かされていたメリーナ・レオン監督は自分自身の記憶が残っている1988年に時代を変更し、登場人物の感情を想像し、その感情に寄り添うことができるように、架空の人を主人公に設定しました。
ヘオは人種差別や貧困の問題にさらされ、ペドロは同性愛者であることを隠して生きています。彼らを取り巻く環境は、非常に厳しく、それらは80年代の過去の話ではなく、現在にも通じる問題として描かれています。実際、幼児売買は今でも続いているといいます。
サスペンスフルな社会派映画、個人の内面を見つめる人間ドラマとして見応え十分な作品ですが、魅力的なショットに溢れているのも本作のみどころのひとつでしょう。
ペドロが暮らすアパートメントの高低を独特のカメラワークで捉えたショットや、疑惑の産院が入居している建物や階段、裁判所などの建築物と人間を絶妙なアングルで捉えた視覚的効果にはすっかり感嘆させられます。
またペドロがある建物のスイッチを押すと、奥の壁が開き、外のテロ組織絡みと見える混乱が垣間見えるショットには、一瞬、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』の1971年のメキシコのコーパスクリスティの大虐殺を描いた場面を連想しました。
潤沢な資金で制作された『ROMA/ローマ』がスペクタクルな展開をさせたのに対して、こちらはわずかな隙間から、せっぱつまった様子で走り去る人々の姿がちらっと映るだけです。しかし、それだけで、この国に起こっている深刻な状況が見る者の心にしっかりと刻まれるのです。
まとめ
ヘオを演じるパメラ・メンドーサが実に素晴らしい存在感をみせています。「アンデスの雰囲気もない名の知れたペルーの女優は使いたくない」と考えたメリーナ・レオン監督に見いだされ、本作で映画初出演を果たしました。ヘオを演じるにあたって7kgの増量を行ったといいます。彼女の歌声の誠実さも強く印象に残ります。
メリーナ・レオン監督は被害者や社会的弱者に焦点をあて、社会の理不尽さを告発すると共に、彼女たち、彼らの尊厳を浮かび上がらせます。
映画『名もなき歌』が2021年7月31日よりユーロスペース他にて全国順次公開されます。