連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第26回
こんにちは。森田です。
年の瀬になると、忘年会やクリスマスなどで人を想いあい、人とのつながりを確認し、自分の存在を見つめなおす機会が増えますね。
今回紹介する映画『私はワタシ~over the rainbow~』は、LGBTsを主題にしながら、さまざまな人間がさまざまな人間と「暖をとる姿」を映しだしています。
ポレポレ東中野で12月22日から28日まで劇場公開される本作をもとに、ここでは個人である「私」がなりたい「ワタシ」になるための社会を考察してゆきます。
CONTENTS
映画『私はワタシ~over the rainbow~』のあらすじ
(増田玄樹監督 2018年公開)
本作は、女優の東ちづるさんが代表を務める一般社団法人Get in touchが制作したドキュメンタリー映画です。
同団体は「どんな状況でも、どんな状態でも、誰も排除しない、されない社会で暮らしたい」という理念のもとに設立され、“ちがい”を特性として活かせる「まぜこぜの社会」をつくることを目標に、多彩な試みを展開しています。
LGBTsにおける啓発活動もそのひとつであり、東さんが50名の性的少数者にインタビューをおこなった記録が1本の作品となりました。
改めてLGBTsとはレズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなどの性的マイノリティの総称ですが、おなじ人間がふたりといないように、いくつかの言葉で“ちがい”をとらえることなど到底できません。
本作を小中学校および高校に配布するプロジェクトも進行しており、最初に「性」をめぐる簡単な説明があります。
3つの性とグラデーション
人間を「こころの性」と「からだの性」と「好きになる性」で考えてみると、それぞれに「男」「女」「どちらも」「どちらでもない」があって、加えて決められない場合や、完全にわけられない場合も出てきます。(3つ性のほかに「表現する性」もあります。)
人生において迷わないことはありますか? そんな人はいないはずです。
わたしたちの存在は、コンピュータのように「0か1か」で構成されているわけではなく、0と1のあいだで揺れ動いているとみるのが実情に即しています。
そうなると、人間の「性」というのは「3つの性」のかけあわせ以上の、ほとんど無数といっていいほどのバリエーションがある、あるいはグラデーションになっているとうかがえます。
“レインボー”とは、まさにそのことを指しています。
人間にとって“生産性”とは?
しかしこういうと、「生物的な性」の視点から“生産性”を口にして、人間の“正しさ”を主張する人がいます。
では、生物的に産んだ子どもを、精神的・肉体的に虐待する親の存在はどう受け止めるべきでしょうか。はたして“生産的”でしょうか。
あたりまえのことですが、人間は“生物的”に産んで終わりではありません。そこから“社会的”に育てる必要があります。そうしてはじめて社会が維持されるようになります。
つまり“生産性”という言葉を用いるのなら、それは個人にかかるものではなく、社会に求められるべきものです。
たとえば子どもを産めない、産まない人が、仕事や生活のなかで子どもの面倒をみることは“生産的”な活動です。
あるいは直接的なかかわりではなく、自分のなした物事が、めぐりめぐってある子どもに届き、彼/彼女が必要とすればやはり“生産的”な行為です。
それは商品かもしれませんし、文化かもしれません。
映画を例にあげれば、作品を観た子どもたちが「楽しかった。明日もまたきっと楽しいはずだ」と思ってくれたら、制作者に子どもがいなくても、社会で子育てをしている、といえるでしょう。
“生物的な親になったら、人間として大人になる”というのも、いかにあてにならない言説かは、周囲を少し見わたすだけでわかるはず。
もちろんここまでの説明は、“生産性”という概念をあえて使うなら、という前提で書いています。
なにをなさずとも、ただそこにいるだけで、尊厳が満たされる。これが本当に成熟した社会における人間の姿です。
本作の重要なテーマのひとつは、インタビュー中の発言にもありますが「あなたのままで大人になれる」というメッセージになっています。
私はワタシの「私」 世界人権宣言と日本国憲法
畑野とまとさん(ライター/トランスジェンダー活動家)は、作中でそれを「世界人権宣言」に見いだして語っています。
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
「すべての人間が生まれながらに基本的人権を持っている」ことを謳う条文は、1948年にパリで開かれた第3回・国際連合総会で採択されました。
また日本国憲法十一条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とし、十三条では「すべて国民は、個人として尊重される」と明記しています。
“まぜこぜの社会”はこの「個人」なくして成立しません。「私はワタシ」の主語にあたります。
私が考え、私が決める。それは侵すことのできない永久の権利である。
本作ではゲイ雑誌「バディ」や「G-men」を創刊し、HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス理事などとして活躍する長谷川博史さんを軸に、各人のインタビューが織り交ぜられてゆきます。
全体を象徴するのは、長谷川さんがドラァグクイーンとして自作の詩「熊夫人の告白」を朗読する冒頭の場面。
自分には母の血、父の血、オカマの血、そして淫乱の血が流れていると読みあげたあとに、こう語りかけます。
「あなたはご存じないかも知れませんが/私の血には/あのエイズを引き起こすHIVが混ざっておりますの」
長谷川さんはそれを「幸運の血」と名づけます。なぜなら、「あるべき姿」ではなく、「あるがままの姿」で生きることを可能にしてくれる血だからです。
HIV混じりの血は、生きる歓びを与える「歓喜の血」であり、「自由の血」であり、「ワタクシはワタクシ」であることの証であると。
個人の人権とは、個人が自分として生きるとは、その強さも弱さも全部ひっくるめた価値と誇りであることを、本作は50人の生きざまと一緒に浮かびあがらせます。
私はワタシの「ワタシ」 性の社会モデル
まず基本的人権で尊重される「私」を確認しました。つづいて「なりたいワタシ」をみてゆきましょう。
50人の人生があれば、50通りの抱えている問題があります。
それは戸籍や手術などの選択もありますし、恋愛や居場所といった関係にまつわる悩みもあります。
ゲイであることをカミングアウトした学生が、その相手にアウティング(暴露)をされてしまい、自殺する事件もありました。
またトランスジェンダーは自殺率が高いとされ、生命保険に入れないという事情も作中では明かされます。
ここには「ありのままの自分」がそのままでは多くの困難に直面する現実が示されています。
言い換えれば、実存と社会のずれです。
福祉の分野では「障害とは個人にあるのではなく、社会がもたらすもの」という「障害の社会モデル」が提唱されて久しいですが、性においても同様の事態が起きているといえます。
かりにそれを「性の社会モデル」と呼んでみましょう。
「私」が確立するだけでは、まだ「ワタシ」には届かないのです。
みんな違って、みんないい、ってみんな言う
実際、インタビューのなかではこのような発言もカメラに向けられます。
「皆さんと僕、みんな違ってみんないいって言うじゃないですか? 個人的にはすごい大嫌いな言葉で、みんな違ってはいいんですけど、何かみんないいっていうのは投げやりで」
「そうじゃなくて、みんな違って、違うことで何か見つかることもあるし、違うことですごい共鳴することもあるし、何か違うからこそ、そこに向き合うっていう機会をもっともっと作ったほうがいいかなって」
個性を認められることと、個性が出せるようになることは、だいぶ異なります。
障害の社会モデルを例にだせば、足が不自由な人がいるのを認識したところで、町にスロープやエレベーターがなければ移動しにくいことに変わりありません。
おなじように「LGBTs」という言葉がどんなに広がっても、社会の制度や仕組みが整わなければ、本当の自由を享受できません。
“みんな違ってみんないい”で終わりにしてしまうのは、たしかに投げやりな印象を受けます。
女装する男性たちに密着したドキュメンタリー映画『恋とボルバキア』(小野さやか監督/2017)のキャッチコピーも「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う。」とその点を指摘していました。
ドラマでもドキュメンタリーでもLGBTsが頻繁に取りあげられるようになった現在、「みんな違う」という認識はもう所与のものとし、そこからいかに向きあい、行動に移すかが真に問われています。
また行動といっても、よかれと思ってした“配慮”が、結果的に当事者を苦しめてしまうこともあります。
短編映画の『カランコエの花』(中川駿監督/2018)はそこを克明に描き、LGBTsの理解と求められる行動のギャップを突きつけました。
“生きやすさ”の底上げを
なぜ「性の社会モデル」で物事を考える必要があるかといえば、それが性的マイノリティにかぎらず、だれもが恩恵を受けることにつながるからです。
車いすの利用者を意識して、随所にスロープを設置したとすれば、子どももお年寄りも楽になることは想像に難くありません。
同様に性的マイノリティが働きやすい職場は、その他全員も個人として尊重され、ストレス少なく健康に働けるに違いありません。
障害や偏見をなくしてだれかが困るということはまずなく、あるのは全体の“生きやすさ”の底上げです。
このご時世、多くの人々が生きづらくなっているのは、さまざまな指標および実感として明らかであるのに、自分より生きづらそうな人を排除してかりそめの満足を得るのは、まったく“生産的”ではない。
いつ、どこで、「排除する側」が「排除される側」の立場になるのかわからないほど流動的で過酷な時代においては、自分になにがあってもいいように社会を設計することが、もっとも合理的な判断となります。
そもそも、完全なマジョリティなど存在しません。ひとりの人間のなかにも、多数派なものと少数派なものとが混在しており、不均衡でいびつだからこそ、人は人を求めあい、幸福を追いかけることができるのです。
本作は最終的に、そのことに気づかせてくれます。
Over the Rainbow/虹の彼方に
副題にある「Over the Rainbow」は、『オズの魔法使』(ヴィクター・フレミング監督/1939年)の劇中歌でつとに知られていますが、本作の主題とも重なりあっています。
農場に住む少女のドロシー(ジュディ・ガーランド)は、叔母から「くだらならいことで悩むのはおやめ」と言われ、「心配しなくていい場所」を夢想しはじめます。
船や汽車ではたどり着けない場所、お月様の向こう、雨の向こう、そして虹の向こうを……。
「虹の向こう/空の彼方に/かつて子守唄で耳にした国がある
虹の向こうに/空は青く/どんな夢でもかなう場所/本当に実現する」
ドロシーは歌いだし、鳥が虹を越えられるなら、私にもきっとできるはずと、願いをかけます。
一方で、Get in touchのコンセプトには、以下の文言があります。
「ひとりで見る夢は妄想に過ぎないかもしれませんが、みんなで見る夢は現実になる」
東ちづるさんのこの言葉は、ジョン・レノンの残した発言や「イマジン」から引いていると思われますが、『私はワタシ』がのぞかせる「まぜこぜの社会」は、夢想家ひとりのものではありません。
この映画を通して今後、何千、何万もの人々が、“虹の向こう”を目にすることになるのですから。