連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第22回
こんにちは、森田です。
東京国際映画祭も閉幕し、つづいて報知映画賞を皮切りとする映画賞シーズンを迎えようとしています。
1年の流れを総括する前に、映画祭の現場からいま一度紹介しておきたい作品群があります。
オムニバス映画製作シリーズ『アジア三面鏡』です。
これは、東京国際映画祭と国際交流基金アジアセンターが、日本をふくむアジアの気鋭監督を3名集めて映画を共同製作するプロジェクト。
第2弾は「旅」をテーマに、テグナー監督(中国)、松永大司監督(日本)、エドウィン監督(インドネシア)がそれぞれメガホンをとり『アジア三面鏡2018:Journey』がつくられました。
今回はその企画製作に携わり、日本映画大学でも教鞭をとられる石坂健治プログラミング・ディレクター(PD)からうかがったことや、オムニバス2本目の「碧朱(へきしゅ)」を撮った松永監督の言葉から、アジアに生きる人々の現状と未来を見据えてみます。
CONTENTS
映画『アジア三面鏡2018:Journey』のあらすじ
まず、3本の並びはこのようになっています。
中国のテグナー監督作「海」、日本の松永大司監督作「碧朱(へきしゅ)」、インドネシアのエドウィン監督作「第三の変数」。舞台は順に北京、ヤンゴン、東京です。
監督たちは「旅」という共通のテーマが与えられ、脚本およびロケ地は自由に決められます。
以下にそれぞれの旅をみていきましょう。
テグナー監督「海」母と娘の“永遠”
テグナー監督は中国の名門映画大学、北京電影学院の大学院在学時に『告別』(2015)を発表し、第28回(2015年)東京国際映画祭「アジアの未来」部門で国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞。
『告別』では「余命わずかな父」と「留学帰りの娘」の確執を描きましたが、本作では「ビジネスに忙しい母」と「無口な大学生の娘」の衝突を映しています。
一見、性格がまったく異なるようですが、テグナー監督の「親子」はある共通項を媒介に分かちがたく結ばれているのが特徴です。
それは「死」です。死から逃げ、ゆえに死でつながり合うふたりの関係です。
「海」では夫の死(娘にとっては父親の死)を契機に車で「旅」に出ます。絶えない口論は、死の輪郭こそなぞっても、核心に踏みこむことはできません。
彼の人生はなんだったのか。翻って私たちの人生はなんなのか。どこに行こうとしているのか。
母は仕事に没頭することで、娘は口をつぐむことで、「父の喪失」を宙づりにしていました。似た者同士といってもいいでしょう。
「死と喪失と向き合う時、心の奥底の最も真なる部分がふっと頭をもたげる瞬間がある。だがその瞬間に到達するまでの間、不安な心が、欲やパニックを引き起こすことがままある。これこそが人生の哀しみだと私は思っている」(『アジア三面鏡2018:Journey』パンフレットより)
テグナー監督はこのようにメッセージを寄せています。
そしてこの「人生の哀しみ」が一瞬だけ癒される場が、ふたりにとっての「海」でした。
激しくののしりあっていた姿からは一転、極めて穏やかな、落ち着いた表情になり、父の骨をきらめく海にまく親子。
彼女たちはなにを見つけたのか? ランボーの詩「永遠」の一節が脳裏をかすめます。
「また見つかった/何が、永遠が/海と溶け合う太陽が。」(小林秀雄訳)
永遠、太陽とともに去ってしまった海。それはまた、死でもあるでしょう。
散骨して、文字通り海に溶けた父親に、散っては集う無数の陽光が降りそそぎます。
内陸の内モンゴル出身のテグナー監督は、「海」にそんな「永遠の一瞬」の反復を感じとったに違いありません。
エドウィン監督「第三の変数」妻と夫の“真実”
一方でエドウィン監督(『動物園からのポストカード』『ひとりじめ』他)は、夢とも現実ともつかない一瞬、一瞬の“永遠”を、現代の東京の表象に重ねてみせます。
「第三の変数」は、倦怠気味のインドネシア人夫婦が「夫婦仲の研究者」であるという民泊の主と出会うことで、「止まった時間」を再生させる物語です。
停滞する時代のなかで、人々の関係も柔らかさを失い、倦怠期のカップルのみならず、だれもがなにかしらの出口を求めているといっても過言ではないでしょう。
本作ではカラオケやコスプレなどの“日本らしい文化”が登場しますが、誰かの歌を歌うことも、誰かになりかわることも、突きつめてみれば「変身」です。
いつ、どこでも、新しい自分になれる。そこには「過去と切り離された時間」が出現します。
また作中では液晶画面の保護フィルムを手ではがすショットをなんども挿入。
その動作は「封を解く」ようにも受け止められますし、「素肌をさらす」ことにも見受けられます。
実際に、民泊のオーナーが“第三の変数”となって夫婦ともども交わることで、妻は子どもを亡くした過去から解放され「新しい時間」を手に入れました。
この設定や展開は「シュール」の一言では片づけられません。
「私が考える人としてのアイデンティティは、ロマンチシズム、ナショナリズム、神話、幻想に基づいたもので、真実など何ひとつなかった。人であるということは、真実を探しあぐね、不可解な過去につきまとわれ、何を信じたら良いのかわからない状態に身を置くことである」(『アジア三面鏡2018:Journey』パンフレットより)
混乱のなかで立ちあらわれるアイデンティティ。エドウィン監督ははっきりしない、不安定な関係にこそ、人間が他者と正しくつながり合えるチャンスがあるというのです。
松永大司監督「碧朱」男と少女の“時間”
現代の人々に、わかりやすいものを求める傾向があるのは、否定しがたい事実でしょう。
行き詰まった状況には、阻害している要因がある。正義を持って、その悪を追いやらねばならない。
ともすると陰謀史観にとらわれかねないこの種の発想は、政治や社会や経済のいたるところに跋扈しています。
また働くにあたっては、1時間の仕事を30分で終わらすことを「効率的」だと思うひとは多いはず。
でも、悪を分離した正義のなかにまた悪を、分割した時間のなかにまた仕事を見つけているに過ぎない現代社会の実態に、無意識では気づいています。
「現代の神話」は現代人になにを与えているのか。
その問いかけをしているのが、松永大司監督(『トイレのピエタ』『ハナレイ・ベイ』他)がミャンマーで撮影した「碧朱」です。
円環する列車と時間
ヤンゴン市内をゆったりと走る環状列車に乗っているのは、日本から来た技術者の鈴木(長谷川博己)。
同じ電車に乗り合わせた男に、自分が環状線の速度を倍化する仕事をしていると話したところ、こう聞かれます。
「なぜ速度を上げる?」
答えに窮した鈴木は「便利になる」という言葉しか出てきません。
この列車は現実に市内を走っており、時速20km/hで一周3時間かけて回ります。
線路沿いではさまざまな商いをする住民の姿があり、列車はその時間を携えて生活の一部となっている様子が確認できます。
ここで重要なのは、時間とは生活である、という認識です。
すなわち、時間だけが単独で生活を追い越しても意味がないばかりか、生活を壊す可能性も十分に考えられます。
「便利になる」とは「生活が楽になる」ことだとして、はたして「生活を離れた時間」がどれほどの豊かさを人々に与えられるでしょう。
ましてや、環状線です。どこか遠くに行くわけでもありません。
むしろ太陽が昇って沈むまでの一日を直線的にとらえることのほうが不自然かもしれず、ヤンゴンのこの環状線は「時間」が収まるべき場所を象徴する存在として、作中では使われています。
列車の音とミシンの音
本作のもっとも優れた演出は、上記のような問いかけを「音」で観客に示しているところです。
ガタン、ゴトンという列車の音は、ある面では「近代化の音」かもしれません。
それがしだいに、ガタガタガタという音に重なってゆきます。「ミシンの音」です。
お土産の伝統衣装・ロンジーを求めにマーケットに訪れた鈴木は、そこで縫い子たちがミシンを踏む音を耳にします。
ほかにも、町を歩けば路上のバイクにクラクション、船の汽笛に海上を舞うカモメの鳴き声など、さまざまな音に出会います。音がつぎの音を呼ぶように、つながっていくのです。
これらは「円環する時間」と結びつく「生活の音」であり、鈴木はついに市場で野菜を切る音とめぐり会って、深く自己を問うようになります。
そこは購入したロンジーを預けた縫い子、スースーの家族が営む店でした。
再会を祝おうとする母親から、鈴木は一家の食事に招かれることに。食卓を囲んでいざ食べようとすると、停電に見舞われます。
すると、ロウソクと一緒になぜか「ハッピーバースデー」の歌声が。
スース―は「停電になるたびに歌うから、私はもう何百歳」と笑い、「意味わかる?」と尋ねます。
鈴木は「わからない」と答えながらも、自分が新たな誕生を、人生の転換を迎えようとしていることは、気づいているようです。
それはこのシーンが、映画の冒頭に寺院で灯されるロウソクのショットを連想させることからもわかります。
そして極め付きは、「線路を歩く音」です。食事後、鈴木はスース―と線路の敷石を踏んで家路につきます。
「日本はどんな国?」と質問する彼女に対し、彼はみずからの心境の変化を自覚しつつも「速い国」だとしか言い表せません。
自分の言葉を探せぬまま、「変化は必要ない」というスース―の言葉も聞き逃し、ふたりは別れました。
松永大司監督と石坂健治PDのトークショーより
以上3名の監督から見えてきたのは、「旅」を通じて「喪失」と向きあうこと。
失ったものに気づかないかぎり、自分の明日も、他者との未来も築けません。
第31回東京国際映画祭でワールドプレミアを飾った『アジア三面鏡2018:Journey』は、2018年11月9日から11月15日にかけて新宿ピカデリーにて限定公開されました。
初日の上映後には、松永大司監督と石坂健治PDによるトークショーが開催。
本稿のまとめに、製作者の言葉を紹介して締めくくります。
「碧朱」の意味
まず聞きなれない「碧朱(へきしゅ)」の語源について。これは松永監督による造語で、中国の五行思想でいう「青い春」と、そのつぎにくる「赤い夏」を合わせたものだと明かされます。
「青春」は人生の若いころを指す言葉に使われていますが、以後も「朱夏」「白秋」「玄冬」と季節はつづきます。
松永監督は「若者から成熟していく過程」の意味を込めて、作品に「碧(青)」と「朱」をつけたと解説。
「初めてミャンマーを訪れた僕はこの国の多くの魅力に取り憑かれた。しかし、あっと言う間にこの様相も激変するだろう。現在のミャンマーは凄まじいスピードで変化をしている。近代化していく社会の中で得られるもの、そして失われるもの。豊かさとは何だろうか? 今しか撮影できないミャンマーをこの作品に封じ込めたかった」
パンフレットでもこう述べているように、近代化の途上にあるミャンマーを「青春」から移行する季節になぞらえています。
記録メディアの役割
環状線に揺られて撮影地をミャンマーに決めたという松永監督は、映画の持つ「記録メディア」としての役割も強調します。
“碧朱”の時期はいましか撮れない。そのために、撮影監督の高詩熠さんへは「広い画で撮る」ことを指示し、主演の長谷川博己さんへは「役者オーラを消す」ことをお願いしたそうです。
監督デビュー作の『ピュ〜ぴる』(2009)がドキュメンタリー映画であったことを顧みると、記録性を重んじるスタンスには一貫性があるとうかがえます。
音の重要性
一方で音に関しても「映画表現のひとつで重要なもの」という見解を示し、松永監督が「ミャンマーの音」を意識的に表現していたことがわかります。
石坂健治PDによると、現地はそれほど喧騒に包まれた場所ではなかったとのこと。
ここまで「生活の音」から「碧朱」のメッセージを読みとってきましたが、これらの発言を踏まえると、こうも言えるのではないでしょうか。
画で事実をとらえ、音で真実を伝える。
言葉は違っても、画と音の組み合わせにより、心の奥底で互いにつながり合える。
またこれは、アジアに生きる隣人が映画を通してアイデンティティや生き方を模索する「アジア三面鏡」のプロジェクトの意義そのものであるでしょう。