映画『天気の子』は2019年7月19日(金)より全国ロードショー!
2019年7月19日、新海誠監督の3年ぶりとなる作品『天気の子』が公開されました。
すでに140ヵ国での配給が決定している本作は、文字どおり“全世界待望”の映画です。
「もっと叱られる映画を作る」(NHK 7/18付WEB特集)、「多くの人々の価値観が対立するような映画を作りたい」(日経エンタテインメント 2019年8月号)と、公開前から宣言していた新海監督。
自身で“賛否が分かれる”というポイントはどこにあるのか。またそれに込めた問いの意味とは。
ここでは、作中の登場人物たちが「一丁の銃」をめぐって行使するそれぞれの“正義”に着目し、それらを解き明かしていきます。
CONTENTS
映画『天気の子』の作品情報
【公開】
2019年(日本映画)
【監督・脚本】
新海誠
【キャスト】
(声の出演)醍醐虎汰朗、森七菜、吉柳咲良、平泉成、倍賞千恵子、小栗旬
【作品概要】
天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女がみずからの生き方を選択する長編アニメーション。
邦画興行収入歴代ランキング2位を記録し、世界興収も400億円に達した『君の名は。』(2016)の新海誠監督が、再び川村元気プロデューサーとタッグを組んで贈る。主題歌・劇伴も前作につづきRADWIMPSが担当。
2000人を超えるオーディションのなかから選ばれた主人公・帆高役の醍醐虎汰朗と、ヒロイン・陽菜役の森七菜の声にも大きな注目が集まる。
映画『天気の子』のあらすじ
高1の夏。離島から家出し、天候不順がつづく東京にやってきた帆高(声・醍醐虎沙郎)。
新宿・歌舞伎町のマンガ喫茶に泊まりながらアルバイトを探すも、生活はすぐに行き詰まってしまいます。
孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、フェリーで出会った須賀(声・小栗旬)が営むオカルト雑誌のライター業でした。
帆高は事務所で仕事をする大学生の夏美(声・本田翼)とともに、雑誌の企画で“晴れ女”の取材をしていくなか、かつて困窮していた日々にハンバーガーをおごってくれた少女の陽菜(声・森七菜)と再会します。
母親を亡くし、弟とふたりで暮らす陽菜。彼女には「祈る」ことで空を晴れにできる不思議な能力がありました。
その能力を知った帆高は、陽菜と一緒に人々の“晴れにしたい”という希望をかなえるビジネスを立ちあげ、雑踏ひしめく都会の片隅で、ようやく自分たちの居場所というものを見つけはじめました。
映画『天気の子』ネタバレ感想と解説
新海監督が作品をつくるうえで、「音楽」をことさらに重要視しているのはよく知られており、今作においてもプロデューサーの川村元気氏がこう語るように、「歌詞」からインスピレーションを受けたことは隠されていません。
川村:今回、コンテもない状況で届いたのが『愛にできることはまだあるかい』と『大丈夫。』特に『愛にできること~』を聴いて、この映画のメッセージそのものだと確信できました。洋次郎さんが、歌詞という形を通して、新海監督のメッセージを語ってくれていたのです。(「日経エンタテインメント」2019年8月号 P13)
RADWIMPSの歌う全正義
『愛にできることはまだあるかい』の歌詞には、舞台設定である「調和の狂った世界」を彷彿とさせるワードが散りばめられているなかで、“僕の全正義のど真ん中にいる”というフレーズがでてきます。
さまざまな視点で本作の主題を追うことはできるでしょうが、まずはその「全正義」を分析することが、作品のいちばん大きな理解につながるはずです。
そして、それはただ1点、登場人物たちと「銃」の関係をみることで、明らかになってきます。
正義を託された「銃」
本作はある意味で、「銃」をめぐる物語といってもいいでしょう。
すべては街の電光掲示板で、「16丁の銃が押収された」というニュースが流れることからはじまります。
歌舞伎町をさまよっていた帆高は、いわゆる黒服の店員から蹴られた拍子に、ごみ箱に入っていた一丁の銃を手にします。
「だれも発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」
こう述べたのは、ロシアの劇作家のアントン・チェーホフ。
「ストーリーに持ちこまれたものは、すべて後段の展開で使わなければならない」とするこの言葉は、いまや“チェーホフの銃”と呼ばれ、ドラマの原理や伏線の手法のひとつとして認知されています。
つまり、かりに物語に拳銃がでてきたら、それは発射されなくてはいけない、ということです。
ここから逆に、「だれが・いつ・どこで・発砲するか」をみることで、作品の核心部にせまることができます。
そして最初に引き金を引いたのは、やはり帆高でした。
過ちとしての最初の正義:帆高
帆高は歌舞伎町で、陽菜が黒服に言い寄られ、入店させられそうになっているところを目撃します。
とっさに飛びだした帆高は、黒服をはねのけ、陽菜の手をつかんで“危機”を救おうとします。
しかし、隘路で挟み撃ちにされた帆高は、黒服にマウントをとられてしまいます。
一方的に殴りつけられる帆高。そこで陽菜を逃すべくとった行動が、懐に忍ばせた銃を発射することでした。
実弾に及び腰となった黒服の隙をついて、今度は陽菜が帆高の手をとり、天気を晴れにする力を得た鳥居のあるビル(モデルは代々木会館)に連れていきます。
意外なことに、そこで帆高は陽菜にこっぴどく叱られます。彼女はお金を稼ぐために、自分の意志で入店を希望していたのです。
本来なら少女を救ってヒーローになる場面。
新海監督はあえて銃の1発目を誤射(挫折)するように仕むけ、「少年が非力な少女を救う」という王道の正義を退けます。
つまりは、2発目が発射される状況にこそ、監督が真に描きたい“全正義”があると教えてくれています。
その場面に移るまえに、拳銃をもつ別の存在にも目をむけてみましょう。
権力の正義:安井と高井
帆高が黒服に対して弾を放った様子は、防犯カメラに撮られていました。
刑事の安井と高井は、押収から逃れた拳銃があることを知り、帆高の行方を捜します。
とはいっても相手は未成年。安易に銃を抜くことは許されません。
銃口を突きつけることがあるとすれば、よほどの事態であるはずです。
結論からいいますと、それは「少女」ではなく「国」の危機に対処するための正義です。
帆高は、陽菜と彼女の弟の凪と逃亡したさきのホテルで、幸せな一夜を過ごした翌朝、安井と高井に捕らえられてしまいます。
みると陽菜の姿がありません。彼女は天気を晴れにする力と引き換えに、みずからの存在が消えてゆくことを帆高に告げていました。
すなわち陽菜は、東京の狂った天気を救える“人柱”でした。彼女が“昇天”したあと、東京の空は72日ぶりに快晴となりました。
しかし帆高は、陽菜にもう一度会いたいと願います。これは国からすると反逆にも近しい姿勢です。
もちろん、安井も高井も「陽菜が天候を左右する人柱」などと供述する帆高のことを信じてはいません。
ただ、警察署から脱走した帆高が、陽菜を取りもどそうとする行動に結果的に立ちはだかる存在であることを考えますと、彼らが守っているのは国であり、その社会であることがわかります。
だから、鳥居のビルで相対したときに、たかがひとりの少年にむけて、安井と高井は銃を抜くのです。
常識の正義:須賀
一方で、銃声はパトカーがビルを囲んで、安井と高井が駆けつけるまえに鳴りひびいていました。
その相手は、帆高が編集プロダクションで世話になった須賀です。
須賀は亡くした妻とのあいだの子の養育権をとるために、警察沙汰は避けなければならない立場にいました。
そのため、“家出少年を誘拐した”という疑いを払拭すべく、住みこみで働いていた帆高を事務所から追いだすという選択をします。
妻の面影をのこす愛娘を手放したくないがゆえの行動。しかし、その感情は陽菜を失いつつある帆高への同情にも変わり、最終的に“無茶はするな”と説得にきたのです。
帆高へは「事情を話せばわかる」といい、刑事には「まだ子どもなんですから」となだめる須賀。
この大人の立ち回りは、「常識の正義」といえるでしょう。
帆高はしかしながら、そこで発砲するのです。そんな大人の正義を撃ちぬいて。
真理としての2度目の正義:帆高
その2発目の引き金は、力強い意志のもとで、間違うことなく引かれています。
最初に発砲した場面での陽菜との「再会」もそうですが、2度目というのは偶然が運命に変わる瞬間としてとらえられます。
別の言い方をすれば、「2度目に真理は語られる」ということです。
新海監督のメッセージは、あるいは全正義とは、「2度目の銃声」に聞くことができます。
それは帆高が、国家という共同体や、大人という個人がもつ正義を超えた“全正義”を行使したことを告げます。
台詞でいえば「青空よりも陽菜がいい」という愛の告白です。
まとめ【賛否のラストを解く】
ふたりの愛を、それ以外のどんな正義よりも優先させるのか。晴れ間を見なくなった東京が水没してもいいのか。
当然、この「正義の行使としての愛」が、新海監督が今回仕かけた議論となります。
新海監督は映画公式パンフレットで「天気なんて狂ったまんまでいいんだ!」と叫ぶ話が、企画の最初の核となったことを語っています。
やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和を取り戻す物語はやめようと思ったんです。(公式パンフレットより)
本作は「世界を諦める」ではなくて「世界を選びとる」話だというのです。
それをたしかめるために、他の正義が選ばれた世界を想像してみましょう。
まず「権力の正義」の世界。これこそ、いま多くの人々が諦念を抱いている国政を反映し、ただ現状をなぞるだけです。
つぎに「常識の正義」が勝った世界はどうでしょう。
須賀は最後には帆高のために動いたようにみえますが、その帆高をいいように使い捨てしたことからもわかるように、基本的には自分のために生きる人間です。
そんな大人が巣くう社会に、女子大生の夏美は就職活動で落ちつづけ、どうやら仲間入りできそうにありません。
帆高や陽菜だけでなく、夏美もこの社会(大人の常識がうずまく世界)で居場所がない若者のひとりです。
唯一、署から脱走した帆高をカブに乗せて、カーチェイスを繰り広げるシーンだけが、自分の「役割」を意識するところです。
夏美は「銃の運び屋」の機能を担い、間接的にも「世界を自分で選びとる」行動にでました。
新海監督が導いたラストは、「調和が戻らない世界を前提にしても、個々人がなにかをよすがに生きられる可能性」に光を当てています。
「愛は地球を救う」というスローガンに対し、「救われることのない地球で、愛は人を救う」といったほうが、どれほど現実的で、希望を秘めているでしょうか。
僕が描きたいのは、いつも個人の願いの物語です。(「月間ニュータイプ」2019年8月号 P17)
そういう新海監督は、セカイ系の系譜に位置づけられながら、たしかに個の願いのさきに、世界が哀しくも美しく開けていく様子を描いてきました。
そもそも帆高が、2発目の弾を放って鳥居をくぐり、陽菜と再び会うことができたのは、強く願い、強く祈ったからです。
その正義としての愛の行使は、世界を終焉に導くのではなく、「他者」に無限の祈りと愛を捧げることをもって、その果てをどこまでも広げていくものです。
帆高も陽菜もお互いへの思いに突き動かされて行動するけれど、それは恋心というよりは、あの年代の人間が初めて真剣に他者を知りたいと思う、誰かを強く希求する気持ちがベースです。(公式パンフレットより)
セカイの内にいながら、閉塞感を打ち破り、未知なるものを志向できるか。
新海監督は「他者」との関係を『君の名は。』よりも明確に描ききることで、「きみとぼく」のあいだにあって、かつ「きみとぼく」を超えていくもの、すなわち「愛にできること」を提示してくれました。
これが令和という時代に贈られるべき1本であることは、間違いありません。
そのことは、『天気の子』までの新海誠を論じた連載コラム「新海誠から考える令和の想像力」にも詳述しており、よろしければそちらもご覧ください。
【連載コラム】『新海誠から考える令和の想像力』記事一覧はこちら