“その男の歩いた後は死の沈黙が訪れる…”
セルジオ・コルブッチが辿り着いたマカロニ・ウエスタンの極地『殺しが静かにやって来る』をご紹介します。
映画『殺しが静かにやって来る』の作品情報
【公開】
1968年(イタリア)
【原題】
Il grande silenzio
【監督】
セルジオ・コルブッチ
【キャスト】
ジャン=ルイ・トランティニャン、クラウス・キンスキー、フランク・ウォルフ、ルイジ・ピスティッリ、ヴォネッタ・マギー
【作品概要】
『男と女』で人気の絶頂にあったフランス人俳優ジャン=ルイ・トランティニャンや、圧倒的なまでの存在感を放つ悪役の代名詞的俳優クラウス・キンスキーを迎えて製作されたセルジオ・コルブッチ監督によるマカロニ・ウエスタンのカルト的作品。
その凄惨な暴力描写のために、数ヵ国で上映禁止となったという問題作としても知られています。
音楽には、『さすらいのガンマン』(1966)、『続・荒野の用心棒』(1966)に続いてエンニオ・モリコーネを起用。
映画『殺しが静かにやって来る』のあらすじとネタバレ
時は1898年。フロンティア・ライン消滅の宣言と共に、西部開拓時代が終わりを告げて間もない頃。舞台は雪原の町ユタ州スノーヒル。
見渡す限りの銀世界が広がる谷に現れたのは、漆黒の装いを纏った男サイレンス。彼は、賞金稼ぎを専門のターゲットとする殺し屋でした。賞金首として殺された野盗の家族たちのやり切れない思いを受けたサイレンスが、彼らに加勢したのです。
この日、野盗たちは食料を調達するために山から下りてきていたところでした。そして、そんな彼らを木々の間から付け狙う賞金稼ぎたち。人間狩りが始まろうとしていました。
その時、間一髪のところで現れたサイレンス。白銀の中にぽつんと現れた、ひどく目立つ黒ずくめの男を格好の標的と狙う賞金稼ぎたち。しかし、自動拳銃を巧みに操るサイレンスの圧倒的な速さの前には、彼らの存在など無に等しいもの。
次々と倒されていく賞金稼ぎたちの中、敵わないと思ったのか一人の男が命乞いを始めます。サイレンスは、ただ黙ってその男の右手の親指を撃ち抜きました。
それを隠れて見ていた野盗たち。その内の血気盛んな一人の若者が、殺された仲間の恨みを晴らすため、指を失い悶え苦しむ男を撃ち殺してしまいます。
その出来事を横目に見ながら、野盗の群れを束ねる長老から感謝の言葉と共に礼金を受け取り、ただ黙って去っていくサイレンス。
殺す必要はなかったと若者に諭す長老。二度と銃を持てなくするだけで十分だというサイレンスの考えを伝えるも、聞く耳を持たない若者たちは反撃をしようと町へと下りて行ってしまいます。しかし、そんな彼らを待ち構えていたのは、冷酷非道な金髪の男ロコ率いる賞金稼ぎたちからの銃弾の嵐でした。
殺された野盗の中には、町で暮らすポーリーンの夫がいました。そもそも、今や野盗に成り下がってしまっている人たちも、この町のれっきとした住民だったのです。
彼らの仕事を奪うことで野盗にならざるを得ない状況にまで追い込んだのが、この町を牛耳る判事ポリカット。彼は直接手を下さず、賞金稼ぎのロコを使って人間狩りをさせていました。
そんな中、町に到着した駅馬車に乗っていたのは、着任したばかりの保安官とサイレンスでした。サイレンスのことを友人から聞き知ったポーリーンは、彼にロコ殺しを依頼しようと手紙を送っていたのです。
サイレンスを家へと迎えたポーリーンでしたが、彼は一言も言葉を発しません。訝しむ彼女の様子を見かねたサイレンスは、おもむろに喉の傷を見せます。彼がまだ幼い頃、賞金稼ぎに両親を無残にも殺され、口封じのために声帯を切り裂かれたことで口が聞けなくなってしまったのです。
一方、新任の保安官に挨拶しようと出迎えた時にサイレンスの存在に気付いていたポリカットは、ロコに殺すよう指示を出します。しかし、正当防衛の状況でしか銃を抜かないというサイレンスのやり方やその強さを知っていたロコは一瞬渋ったものの、その依頼を請け負います。
映画『殺しが静かにやって来る』の感想と評価
エンニオ・モリコーネの物悲しくも美しいスコアが哀愁を誘うマカロニ・ウエスタン(イタリア製西部劇)の傑作『殺しが静かにやって来る』は、従来の西部劇が描く世界観とは大きくかけ離れた存在です。
その異色さは「アンチ・アメリカ西部劇」の立ち位置にあるマカロニ・ウエスタンの中でも、群を抜いて際立っています。
その象徴的な存在である主人公サイレンスは、口が聞けずもちろん一言も発しない、賞金稼ぎをターゲットとする殺し屋という設定。
シングルアクションのリボルバーというのがお決まりの武器であるにも関わらず、サイレンスは19世紀には珍しいドイツ製自動拳銃を自在に操ります。
そして、フランケンシュタインを彷彿とさせるパッチワーク風の黒いジャケットを羽織り、肩から斜めに掛けられたガンベルトというスタイルは、他の作品のガンマンたちとは一線を画しています。
さらには、西部劇お決まりの舞台である砂や泥にまみれた荒野は、その漆黒の衣装を映えさせるがごとく広がる白銀の世界へと舞台を移し、従来あまり登場しない黒人女性がヒロインで、しかもラブシーン(マカロニ・ウエスタンの中では珍しい)まであるのですから驚きです。
何より従来の西部劇と大きく異なるのは、感情移入される側の視点が逆転しているということ。
登場人物の性格自体は抜きにしてストーリーだけを追うと、通常主人公となるべき存在はロコなのです。彼の行いは賞金首を殺しているというだけで完全に合法的。ただし、保安官を殺したことを除けば、の話です。
しかし、その保安官という存在も、他の作品では悪党とつながっているという設定が多く、たいていは主人公に殺されてしまう存在。
つまり、この物語を180度回転させると、従来の西部劇もしくはマカロニ・ウエスタンが出来上がるということなのです。
では、なぜセルジオ・コルブッチはこのような作品を生み出したのでしょうか?
それは、1968年4月4日に起きたキング牧師の暗殺事件に起因するのかもしれません。そもそもこの作品は彼に捧げるものとして製作されたのです。
ロコとポリカット。サイレンスとポーリーン。殺すもの。殺されるもの。
白人と黒人。差別するもの。差別されるもの。
正義と悪を隔てるものは何なのか、それを決めているのは誰なのか。誰が正しく、誰が正しくないのか。誰もが正しく、誰もが正しくないのか。
人種差別が象徴する人間の凝り固まった固定観念へ警鐘を鳴らすべく、セルジオ・コルブッチはこの作品を生み出したのではないでしょうか。自分だけではなく、相手の立場に立って物事に向き合うことの重要性を説いているのではないでしょうか。
耳を澄まして聞いてみてください。サイレンスやポーリーンの胸の中で静かに、だが激しく燃え上がる怒りの炎が音を立てて燃える音が…セルジオ・コルブッチの静かなる悲痛な叫びが…聞こえてくるようではありませんか。
まとめ
マカロニ・ウエスタンと聞いてすぐに頭に浮かぶのは、もしかしたらセルジオ・コルブッチではなく、『荒野の用心棒』(1964)や『夕陽のガンマン』(1965)でおなじみのセルジオ・レオーネなのではないでしょうか。
その知名度の差は、王道を行ったレオーネとステレオタイプを嫌い常に異色作を生み出し続けたコルブッチの両者の性質の違いによって生まれたものなのかもしれません。
しかし、監督セルジオ・コルブッチもレオーネ同様、後世へ計り知れない影響を与えているのです。
例えば、本作の数年前に発表された『続・荒野の用心棒』。原題の『ジャンゴ』と言った方が分かり易いでしょうか。そう、あのクエンティン・タランティーノ監督による『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012)の元ネタを生み出したのがセルジオ・コルブッチなのです。
そして、2015年に発表された同じくタランティーノ監督作品『ヘイトフル・エイト』の舞台は本作と同じ雪山。しかも音楽はエンニオ・モリコーネとくれば、もう明らかですね。
他にもタランティーノの盟友ロバート・ロドリゲスなど、現在も映画界で活躍する数々のコルブッチイズムの継承者たち。そんな彼らの原点ともいうべき、セルジオ・コルブッチの世界をお楽しみください。