連作コラム「映画道シカミミ見聞録」第11回
こんにちは、森田です。
もうすぐ夏休みが終わります。暑さと引き換えにこの時期急増するのは子どもたちの自死。
内閣府や厚生労働省の調査によると、2013年までの約40年間の統計で、小中高生の自死する者は「9月1日」に突出して多く、ここ10年では8月下旬に集中していることがわかっています。
また全体の自死者数は減少傾向にあるものの、小学校から高校までの自死は2017年のデータで前年よりも増え、いま、夏休み明け前後の“命の対策”が早急に求められているのです。
そのため今回は、本欄をお読みいただいている方々の年齢層とは若干異なるかもしれませんが、子どもたちが現実の辛さを踏まえたうえで「それでも生きよう」と誓う映画を紹介したいと思います。
具体的に取りあげるのは、アニメ版の映画『カラフル』(原恵一、2010)と、現在ロードショー中の映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(湯浅弘章、2018)の2本。
自死の背景にある「いじめ」や「障碍」をあつかった学校映画は数多く制作されていますが(先日もNHK Eテレで映画『聲の形』が放映されましたね)、上記映画は劇中歌にブルーハーツの楽曲「青空」をともに使用しており、そこから共通のメッセージをくみとっていきます。
CONTENTS
映画『カラフル』のあらすじ(原恵一監督、2010)
森絵都の小説『カラフル』を原作に、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』(2001)や『河童のクゥと夏休み』(2007)の原恵一監督がアニメ化した作品。
それより先には、中原俊監督(日本映画大学教授)が2000年に実写映画化しています。
物語は、死んだはずの「ぼく」があの世の入り口で天使らしき少年(プラプラ)から「おめでとうございます! あなたは抽選に当たりました」と声をかけられることからはじまります。
生前のことは覚えていない「ぼく」。なにか大きな過ちを犯して死んでしまったが、現世で「再挑戦」のチャンスが与えられたことのみ告げられます。
なんとなく「もう下界には戻りたくない」と感じつつも、自らが犯した罪を思いだすため、自死したばかりの中学生「小林真」の体を借りて“修行”することに。
「生き返った…」と、病室で涙を浮かべて出迎えるのは小林家(父、母、兄)の面々。退院した“真”を手料理で厚くもてなして、家族そろって奇跡の喜びをかみしめます。
しかし、“真”が「いい家族じゃないか」と思うのもつかの間に、徐々にそれぞれの「別の一面」が見えてくるようになりました。
父はさえないサラリーマン、無理に仕事をふられて残業しているくせに、文句ひとつ言えません。
母はフラメンコ教室の講師と不倫中。自分の母親(“真”の祖母)とも仲が悪く、精神を病んでメンタルクリニックに通っている状態です。
そして大学受験に臨む兄とは口もきけない仲で、勉強ができない自分(“真”はクラス最下位の成績でした)を見下すような感じです。
“真”はこの家庭に人間の嫌な姿をみた気になり、吐き気を催します。毎晩、母がつくってくれる料理も汚らわしくて箸をつけられません。
「ここに送られるなんて、いったい自分はどんな罪を犯したんだ!」と早くもまいってしまう“真”。
天使役のプラプラからは、自死のきっかけは母がラブホテルから出てくるのを目撃したこと、また密かに想いを寄せていた後輩(桑原ひろか)も、同ホテルで売春する瞬間を目の当たりにしたことだと知らされました。
人間不信が、ますます募ります。そのなかでも、友だちがひとりもいないという「自分」の存在が、もっとも信じられません。
“真”は、母が服用していた薬をオーバードーズし、自死を図りました。
ブルーハーツ屈指の名曲「青空」
本作では、エンディングテーマにブルーハーツが1989年に発表したシングル「青空」が使用されています。
THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)といえば、「リンダリンダ」(1987)や「TRAIN-TRAIN」(1988)といったシンプルでなじみやすい楽曲で知られ、1995年に解散した後も世代を超えて愛されているパンクロックバンドです。
ここではシンガーソングライターのmiwaがカバーしています。もちろん、映画としての意味があると考えるべきでしょう。
「ブラウン管の向う側/カッコつけた騎兵隊が/インディアンを撃ち倒した」ではじまるフレーズを追って、以下の詩がつづきます。
「ピカピカに光った銃で/出来れば僕の憂鬱を/撃ち倒してくれればよかったのに」
“僕”は憂鬱を抱えている。できれば撃ち殺してほしいと思っている。でもつぎにはこう問いかけます。
「神様にワイロを贈り/天国へのパスポートを/ねだるなんて本気なのか?」
反戦、反抗、風刺など、社会性の強いメッセージをよく歌詞に織りこむブルーハーツ。これも、たとえば紛争地域で生じる、神の名をかたった自爆テロを指しているのかもしれません。
しかし、視点を社会から個人まで落としてゆけば、「自死」を示唆しているとも受けとれます。
自死はたいへんな苦しみの末の選択。
一方で、神様からみれば「ワイロ」を差しだされているようなもので、「本気なのか?」と問わざるをえない行動に映る可能性だってあります。
「いまの状態がずっと続くわけじゃないんだ」と訴える原恵一監督
第30回東京国際映画祭(2017)では、「映画監督 原恵一の世界」と題した特集上映が組まれました。
その際に発行されたオフィシャルガイドのなかで、原監督は本作のねらいをこのように説明しています。
「『カラフル』は企画を持ち込まれたとき、“中学生の自殺”という過激なテーマなので、「やってやるぞ!」と燃えました。自殺は現実にありますが、追いつめられた子どもに、「いまの状態がずっと続くわけじゃないんだ」と誰かが言わないといけない。学校に行かなくてもちゃんと大人になれる。世界は広いし、人もいろいろだ。いま孤立していても、絶対に仲間はできる。そういうことを、伝えたかったですね」
“真”にとってその居場所は美術部の教室であり、他人からは無為にみえる時間を過ごしたあと、あるきっかけで人生で最初の友だちを見つけることができました。
だんだんと自分の姿が像を結んできたある日、美術室に入ると、ひろかが“真”の絵の前にたたずんでいます。
手には黒い絵の具が。空にも海にも感じられる青い絵を、これから汚そうとしていたのです。
「おかしいの…ひろかおかしいの…狂ってるの!」
売春をしたいときも、尼寺に入りたいときもある、そうひろかは打ち明けます。
「そういうことってあるよ。ひろかだけじゃない。この世でもあの世でも人間も天使もみんな変で普通なんだ」
“真”は「あたまおかしくて、狂ってて、それが普通なんだよ」と言い、生き返りの修行をこうまとめます。
「人間は一色じゃなく、いろんな色を持っているんだ。持ってていいんだ。きれいな色も、汚い色も…。ぼくだって、どれが自分の色かわからなくて、ずっと迷ってた」
父も母も兄も、ある面では汚れ、ある面では漂白されたような美しさを持っている。とくに“真”を想うときには。
それは決して不純ではなく、「カラフル」なグラデーションである、そういうことに、気づいたのです。
ひろかのことは「ぜんぜん普通」だと言い切り、念を押してメッセージを伝えます。
「でも、死ぬのだけはやめたほうがいい」
自死した中学生、“真”こそ“ぼく”である。再挑戦は果たされ、小林真は2度目の命を授かりました。
映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』のあらすじ(湯浅弘章監督、2018)
中学から高校へ舞台を移します。おなじく「普通とはなにか」をめぐる物語です。
主人公の大島志乃(南沙良)は、うまく言葉をしゃべれないせいで、入学早々、クラスの笑いものにされてしまいます。
いわゆる「吃音」と呼ばれる症状に悩まされているわけですが、その名称がなんであれ、彼女の問題意識が「自分は普通ではない」という点にあることが重要です。
湯浅監督も、オフィシャルブックに同様のコメントを残しています。
「吃音ではあるけれど、思春期には誰しもが何かしらで悩む。そこはすごく普遍的だなと。この作品は、吃音でない人が観ても感情移入できると思うんです」
孤立していた志乃は、クラスメイトと打ち解ける気がない岡崎加代(蒔田彩珠)といつしか「音楽」でつながるようになり、 “吃音”の志乃と“音痴”な加代とでバンド「しのかよ」を結成するまでになりました。
ふたりは学校を出て、路上でライブをするようになり、自分たちの心境を歌にぶつけてゆきます。
そこで選ばれた一曲が、ブルーハーツの「青空」でした。『カラフル』の章で引用した詩のつづきは、こうなっています。
「誠実さのかけらもなく/笑ってる奴がいるよ/隠しているその手を見せてみろよ」
笑いたいやつは笑え、私は私だ、伸びやかな志乃の歌声が劇中に響き渡ります。
「生まれた所や皮膚や目の色で/いったいこの僕の何がわかるというのだろう」
「運転手さんそのバスに/僕も乗っけてくれないか/行き先ならどこでもいい」
すべての差別に向けて突きつけられたこのフレーズ。
「人間はいろんな色を持っている」とは『カラフル』の教えにありました。
自分の色なんてない。他者の押しつけはいうまでもなく、自分のカラーに自分が縛られてしまうこともあります。
志乃は最後、そのことと向きあいました。
練習の途中で仲たがいしてしまったため、文化祭のステージに立ったのは加代ひとり。
その加代の歌声を聞いて、志乃はどもりながらも、大声で、泣きながら、聴衆全員に叫ぶのでした。
「私をバカにしてるのは…私を笑っているのは…私を恥ずかしいと思ってるのは…全部私だから!」
優しく微笑みかえす加代。
志乃の心を動かした、加代のオリジナルソング「魔法」の一節をここに載せます。
「魔法はいらない 魔法はいらない/みんなと同じに喋れる魔法/みんなと同じに歌える魔法/つばを吐き捨ててバスに乗ろう/私は遠くに出かけてゆくから」
「その日の天使」の見つけ方
以上、長期休み明け前後の子どもの自死を防ぐべく、ふたつの「青空」を見あげてみました。
防ぐ、というのはおこがましい言い方かもしれません。
大人たちは真についた「プラプラ」のように、天使なのかどうなのかわからない存在として、見守るしかない場合もあるでしょう。
作家の中島らものエッセイに「その日の天使」という短文があります。(『恋は底ぢから』収録、集英社文庫、1992年)
「一人の人間の一日には、必ず一人、「その日の天使」がついている。その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。少女であったり、子供であったり、酔っ払いであったり、警官であったり、生まれてすぐに死んでしまった犬の子であったり」
そうみる中島らもは、「絶望的な気分に落ちているときにこそ、この天使が一日に一人だけ、さしつかわされていることに、よく気づく」と日々をふりかえります。
その日も、体調が悪く、重い雲のようにやっかいな仕事を山積させて、人気の失せたビル街を歩いていたところ、“天使の声”が聞こえてきたそうです。
「その時に、そいつは聞こえてきたのだ。♪おいもっ、おいもっ、ふっかふっかのおいもっ……あなたが選んだ、憩いのパートナー。道で思わず笑ってしまった僕の、これが昨日の天使である」
そして自伝的エッセイ『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(集英社文庫、1997)には、浪人中に自死した当時18歳の友人を偲んでこう書いています。
「十八で死んでしまった彼のイメージは、いつまでも十八のすがすがしい少年のままである。(…)薄汚れたこの世界に住み暮らして、年々薄汚れていく身としては、先に死んでしまった人間から嘲笑されているような気になることもある」
「ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける」
もし悩みに耐えかねている子どもがいたら、プラプラならぬ“その日の天使”の存在を告げ、自分自身の素晴らしい一夜を枕もとで話し、ゴミクズのなかでわたしたちが生きている理由だけでも伝えてあげたい、そう思うのです。