連載コラム「偏愛洋画劇場」第5幕
映画には愛によって身を滅ぼしていく人々がたくさん登場しますが、今回は「愛は私の宗教」とまで言い切ったヒロインが登場する作品をご紹介します。
『大人は判ってくれない』(1956)『華氏451』(1966)などでおなじみ、ヌーヴェルバーグを代表するフランソワ・トリュフォー監督による『アデルの恋の物語』(1975)です。
映画『アデルの恋の物語』のあらすじ
カナダ、ハリファックスの港に1人の女性が降り立ちました。彼女の名前はアデル。
『レ・ミゼラブル』の著者であり大作家であるヴィクトル・ユーゴーを父に持つアデルは、1度だけ愛し合った英国騎兵中尉ピンソンを追ってはるばるやってきたのです。
宿で来る日も来る日も彼に手紙を書き続けるものの一向に返事は来ず、周囲からピンソンには多額の借金があると聞いても想いを止めることはできません。
ある日ピンソンがアデルの元を訪ねてきますが、彼は自分たちの関係は終わったといい、両親の元へ戻るよう諭します。
それでもアデルはピンソンを想い続け、やがて狂気の深みへとはまってゆくのです。
ユーゴーの娘、アデルが実際にカナダへやってきたのは33歳の時ですが、彼女を演じたイザベル・アジャーニは当時19歳。
可憐な若い乙女でありながら常軌を逸していく鬼気迫る表情は圧巻です。
ピンソン中尉を演じたブルース・ロビンソンは今では主に監督、脚本家として活躍。
アカデミー賞3部門を受賞した『キリング・フィールド』(1984)では脚本を担当、監督、脚本を兼任した『ウィズネイルと僕』(1987)ではカルト的人気を集めています。
偉大な父、ヴィクトル・ユーゴー
「今は、父が施してくれるパンの他には、何も持たない若い娘が、4年後には黄金を掴むのだ。
自分自身の黄金を。若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。恋人に会うために」
上記はアデルの日記の一節です。彼女はとても自立心の強い女性。
「父の名は大き過ぎる。私はヴィクトル・ユーゴーの名から逃げられない」…どこへ行っても著名な父、ヴィクトル・ユーゴー。
父が与えてくれる庇護、パンで生きるのではなく自分自身の力で生きていきたい。意を決して遠い異国までやってきたアデルですが、皮肉なこと父の援助なくしては彼女の旅は続けられません。
周りの人々もユーゴーの娘と知り、物語冒頭から最後までアデルに非常によく接してくれます。
アデルは父の一種の支配、偉大さから逃れることができないのです。
アデルは一人娘ではなく、レオポルディーヌという姉がいました。しかし姉は溺死、アデルはしばしば姉の悪夢にうなされることになります。
「姉の衣裳を捨てよう。焼いてしまおう。バラバラにしよう。もう、姉の衣裳は見たくない。見るのは耐えられない」
アデルはレオポルディーヌに対して引け目があったのでしょう。
自分は姉よりも愛されていなかったというコンプレックス、父の力、そうした精神的重圧が彼女を“愛”という宗教を盲信的に信じる道へ誘っていきます。
“愛は私の宗教”とは
アデルが愛するピンソンは決して立派な男、というわけではありません。
ハンサムだけれど借金はあるし、女遊びだってする。果たしてアデルはピンソンを純粋に“愛”していたのでしょうか?
私はあなたを愛しているからあなたも私を愛して欲しい、どんなことがあっても手に入れたい、ピンソンはアデルにとって、承認欲求の一種のはけ口のような存在だったのではないでしょうか。
他者との間にうまく形成することのできなかった関係、父の保護によって“黄金”が霞んでしまう自己をピンソンという存在に求めた結果、彼女も自縄自縛に陥り精神が分裂してしまう…この時代、女性1人で生きていくのはたやすいことではありません。
結婚無くしては安定した生活を送ることができない、でも自立したい。そうした矛盾も彼女を苦しめた原因の一つでしょう。
まとめ
これだけの激しい情熱と気性、そして文才があればアデルは新時代の女性の象徴的存在になれたかもしれません。
それと同時に“愛”という閉ざされた、人間の心の最も繊細な部分を占めるといえる感情と向き合わなくしては、激情に突き動かされることもなかったかもしれません。
家族という呪縛、自己の分裂、矛盾が重なり自身を追い詰めてしまった女性アデル・ユーゴー。“黄金”を見つけることができなかった彼女の姿に皆さんは何を思われるでしょうか?
次回の『偏愛洋画劇場』は…
次回の第6幕は、ロマン・ポランスキー監督の『毛皮のヴィーナス』をご紹介します。
お楽しみに!